浅田晃彦、どうにも自分の置かれた環境がイヤになって、世界各地を旅する船医になる。
浅田晃彦さんの「乾坤独算民」は、直木賞候補作のなかでとくにワタクシの好きな歴史小説のひとつです。浅田さんが53歳になってから同人誌『小説と詩と評論』62号に寄せた短篇で、第60回(昭和43年/1968年・下半期)候補に挙げられました。
といったことは、たしかけっこう前にうちのブログでも紹介した覚えがあります。その浅田さんの作家的履歴のなかで、日本を飛び出し、海外に足を向けたことが大きな転換をもたらしたのは明らかです。ということで、「海を越える直木賞」のテーマでも1週分取り上げることにしました。
大正4年/1915年生まれの浅田さんは、旧制中学のころにはずっぷり石川啄木にハマり、自分で雑誌『ORION』をつくるなど危うい文学青年の道を驀進しましたが、だいたい文学の道なんてものが当時の家庭で歓迎されるはずもありません。悩んだ末に慶應の医学部に進みます。医師になれば将来も安泰、手がたい職業と見なされたからでしょう。
しかし、浅田さんの文学に賭ける情熱はそんなことでは萎えません。大学に通うあいだも、いくつかの懸賞に応募したり、倉田百三「生きんとての会」に参加したり。はたまた卒業後に陸軍の軍医となってラバウルに出征、そこで終戦を迎えてからは捕虜たちの作品を集めた『草原』という文芸雑誌を発刊してみたりします。
昭和22年/1947年、30歳すぎで前橋市に個人医院を開業しますが、どうも医者という職業は忙殺につぐ忙殺で、まるで文学に割く時間がとれません。ああ、こんな生活もうイヤだ、と頭をかきむしったかどうか、その言動の詳細はわかりませんけど、昭和26年/1951年には第一生命保険の社医に職を変えたのは、もっと自由に執筆時間をとりたいという理由だったのは、たしかなようです。
職業柄、群馬県内の各地に出向く機会が増えたことで、桐生にいた南川潤さんや、その南川さんを頼って同地に来ていた坂口安吾さんと縁ができたのですから、この転職も無駄ではなかったでしょう。当時、芥川賞の選考委員をしていた坂口さんとじかに挨拶できるぐらいの関係になり、自分の小説を読んで批評してもらえる、あわよくばおれも芥川賞を……という感じの心の動きは、いかにも危うい文学青年そのままのイヤらしさです。
浅田さんはこのとき全国的な同人組織『作家』に参加して、いくつか原稿を投稿、採用されていましたが、話によれば文学仲間のあいだでの評判はそこまで高くなかったといいます。いわく「通俗臭が強い」、いわく「苦悩がない」(昭和61年/1986年4月・奈良書店刊『安吾・潤・魚心』所収「南川潤追想 厚かましい弟子」)。おそらくまわりの仲間もこういうことで他人を批判するぐらいですから、キモい文学青年たちだったんだと思います。
そういう状況に揉まれるうちに、昭和27年/1952年夏、まだ10歳にも満たない息子を事故で喪い、文学上でも行きづまるところ多く、ああ、こんな生活もうイヤだ、とイヤイヤ病が再発。……と、浅田さん自身が書いているわけじゃありませんが、しかし40歳をまえにして昭和28年/1953年に保険会社の社医をやめるきっかけのひとつについて、浅田さんはこう書いています。
ちょうどこの年、坂口安吾さんがブロバリンの大量摂取で錯乱、南川さんに「おまえなんか絶交してやる」と狂乱行為を働いたことにひっかけて、
「坂口さんの百分の一の激しさもないが、私にも似たような欲求があった。世俗の愛に溺れている自分が、何かのきっかけで、ワッと嘔気がするほどいやになってくるのだ。周りのものを一切を否定し、孤独の底に自分を突き落とさなければ、だめになってしまうような不安に襲われるのだ。そのモヤモヤを坂口さんのように爆発できたらどんなにセイセイすることだろうと思っていた。
私が船医になったのは、そういう環境に自分をぶちこんでみるためだった。
九月からインド航路の貨物船に乗り組み、日本を離れた。」(『安吾・潤・魚心』所収「坂口安吾追想 怪物の魅力」より)
そういえば、昭和41年/1966年に古川薫さんが40歳すぎで日常生活に倦みを感じ、カナリア諸島への出張を願い出た、というエピソードに触れたことがありますが、それにどこか似たものがあります。養わなきゃいけない妻と子供がいるイイ年齢になった男性が、ここで一躍、海外に出てみようと踏ん切りをつける展開。
浅田さんの場合はそこから昭和32年/1957年までの3年半、ときどき日本に帰ってきてはまた外国航路の船に乗り込んで、世界各地をめぐります。アメリカに行きたいな、ヨーロッパも見てみたいな、などと勝手な夢を抱いて船医になってみたはいいものの、最初に乗せられたのがインド・カルカッタ行きの、これ途中で沈没するんじゃないかと思うようなチンケな貨物船です。以来、台湾、フィリピン、香港、シンガポール、ラングーン、パキスタン、インド、中東、やがてアメリカ、ヨーロッパ行きの船にも乗せてもらえるようになり、見聞を広めます。
しかし、浅田さんのエラいところは、外国行きの船や旅先でありあまる時間を使い、ぞんぶんに読書したり原稿を書いたりしていたことです。船医になったのは小説に専念するためだった、という回想さえ見られます。もう文学への情熱が高すぎて、恐ろしいです。
○
この3年半の船医生活は、浅田さんを変え、まわりに吹く風を変えました。
船上で書いた「復讐」という小説を『作家』に投稿すると、これを読んだ南川潤さんから激賞に近い感想が送られてくる。つづけて「オレンジの皮」や「潜める声」など、これも海上での生活から生まれた小説で、『作家』の同人たちからも「いよいよ浅田晃彦、化けたな」と褒められ、同人のなかから選ばれる第1回「作家賞」に選ばれます。
浅田さんが初めて「訳者」というかたちで刊行した書籍『彼女らの肉体の黄金―小説ゴーガン―』(チャールズ・ゴーラム・著、昭和34年/1959年・白水社刊)は、浅田さん自身が船医としてアメリカに行ったときに現地で買った本を翻訳したものでしたし、『オンボロ船医の世界診察』(昭和36年/1961年11月・朝日新聞社刊)がまとめられて出版にいたったのも、確実に前年昭和35年/1960年に日本じゅうを席捲した北杜夫『どくとるマンボウ航海記』ブームの影響だったとは思いますが、物書きとして一般読書界にお披露目を果たせたのは、浅田さんが世界じゅうを旅した船医、という肩書きを得たからです。
昭和16年/1941年に結婚して以来、いいときも悪いときもずっと傍らにいた妻の雪子さんには「思い出の片々」という回想文があります。そこで語られているのも、船医時代を経て浅田さんの活躍は大きく変わった、というようなことです。
「四年の間、夫は船医をしながら世界各国を巡り、思う存分取材や研究を重ねた様子で、各港から逐次その生活の一端を手紙で知らせて来ました。時には郷愁を覚えることもあったのか、家庭を思う温かい心情の溢れた手紙もありました。
夫にはこの船医時代が彼の為の大きな充電期間だった様子で、船を下りてから次々と心血を注いだ小説、随筆、翻訳等を発表しました。それらが、作家賞、直木賞候補等いくつかの成果となって後半生に結実しました。私も大変うれしく誇りに思いました。」(平成10年/1998年10月・群馬県立土屋文明記念文学館刊『図録 第6回企画展 桐生ルネッサンス―坂口安吾・南川潤・浅田晃彦―』所収 浅田雪子「思い出の片々」より)
芥川賞に憧れていた(はずの)匂い立つような文学青年が、生活のために身につけた医療技術のおかげで、日本を離れてあちらこちら。帰ってきてからは見違えるように(?)ぐんぐんとその文才を発揮して、50歳をすぎて直木賞の候補になる。
……という履歴は、あまりにざっくりしたまとめすぎて、書いているワタクシですら受け入れがたいものがありますが、ともかく純文学にしてはストーリーテリング、通俗味が強すぎるなどとさんざん言われた浅田さんが、こういうかたちで直木賞の場に顔を出してくれたのですから、この不思議な展開も馬鹿にしたものでもありません(だれも馬鹿にしていないか)。
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