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2020年2月23日 (日)

村松友視、自分のルーツの地、上海を旅するにあたって、直木賞の賞金を使う。

 2月24日は直木三十五さんの命日です。毎年その前後の日曜日に、横浜富岡の長昌寺で「南国忌」の催しが開かれます。令和2年/2020年の今年は、2月23日日曜日、今日が開催日でした。

 基本、事前に申し込めばだれでも参加できます。興味のある方は足を運んでみたらいいと思いますが、そこではいつも、直木さんと(というか、直木賞と)ゆかりのありそうな人が、1時間ちょっと話をすることになっています。今回講演したのは村松友視さん。第87回(昭和57年/1982年・上半期)の受賞者です。

 村松さんが「時代屋の女房」というナニゲない、ほんとうにナニゲなさすぎて映画化されなかったら読み継がれることもなかったんじゃないか、というぐらいにジミーな短篇でこの賞を受賞したのは、もう38年もまえのことです。おお、38年……。ちなみに「南国忌」も今年で38回(38年)目だそうです。南国忌の開催および直木の再評価に執念を燃やした、カノ胡桃沢耕史さんと受賞を競った村松さんが、こうして南国忌でお話しするという場面をまぢかに目撃できて、今日は何だか「感慨」以外の言葉が見つかりません。

 感慨にひたっていても仕方ありません。本題に入ります。

 村松さんの叔父にあたる直木賞候補者、村松喬さんが築いた海外との縁については、以前うちのブログで取り上げたことがあります。そういえば、と思ってたどってみると、友視さんのほうも海外とは濃密に縁のある人物です。とくに直木賞を中心に据えてみたとき、「海を越えた直木賞」のテーマで村松さんのことを語らないのはおかしいぞ。と強弁してもいいくらいに、海外との奇縁に満ちています。

 海外……というなかでも、ここでカギを握ってくるのが、ひとつの都市。上海です。

 村松さんが自分の出自を語るとき、よく出てくるフレーズに「上海仕込み、東京生まれ、清水みなと育ち」というものがあります。今日の講演でももちろん触れられていました。父親の友吾さんが昭和14年/1939年当時、上海毎日新聞の記者として上海に滞在、そこで妻の喜美さんと仲睦まじい夜の営みをおこなった末に宿ったのが友視さんだったんですが、この年9月17日に、友吾さんは腸チフスが原因で死去してしまいます。27歳という若さです。残された喜美さんはまもなく日本に引き上げ、東京・千駄ヶ谷で無事に友視さんを出産します。つまり村松さんの生命が芽生えた最初の最初の土地が、海の向こうの上海だった、というわけです。

 昭和はじめごろの上海というのは「外国感」がいまより薄く、ほとんど国内の都市に近い印象があります。しかしそれでも明らかに異国の環境にある。……というここら辺が、日本に住んでいる人間から見た上海の、上海たるゆえんなんでしょう。親近感はあるけど、「魔都」と呼ばれることがしっくりと腑に落ちてしまう、やっぱり不思議な場所です。

 ということで、当時のジャーナリズムやら作家たちやらも上海のことを大量に、腐り果てるぐらい書き残しています。そのあと現在にいたるまで、上海にまつわる文学史、なんてものもおそらく何十冊も書かれています。ひまがあれば読んでみたいと思いますが、ハナシを絞りますと、そうです、直木賞のことです。

 すでにうちのブログでも、小泉譲さんから、生島治郎さん、安西篤子さんなど、上海とからんだ作家のことを取り上げてきました。そして何より直木三十五さんその人にとって、最も縁の深かった外地が上海です。事変のあった昭和7年/1932年には、大して体調もよくないのにわざわざみずから足を運び、それをもとにエッセイとかも書いています。小説化する構想もあったんだとか何だとか。直木さんが関心を寄せた海の向こうの、第一の都市が上海だった、と言っていいのかもしれません。

 同様に、上海に魅了された同時代の作家に村松梢風さんという人がいます。

 いや、「同様」とか並べてしまうのは失礼でしょう。直木さんよりずっとずっとまえから、とにかく上海すげえぜ、すげえんだぜとしつこく言っていた人です。あまりにも強烈にこの街のトリコになってしまったために、自分の息子にまで上海行け行けと勧めたというのですから、よほど気に入っていたんでしょう。

 友視さんが書いています。

「父が上海へ赴いたのは、上海に強く惹かれ何度も行き来していた祖父がすすめたためだった。小説家であった祖父は、長男である父の中に物書きの匂いを嗅いだのか、物書きになるのなら上海を見ておくべきだと、自分勝手な思い込みを父に背負わせた。(引用者中略)とにかく、そういう基本ベースの上に二十七歳だった父の死があり、二十歳で未亡人となった母の第二の人生のスタートがあったというわけだ。」(平成6年/1994年10月・中央公論社刊『私の父、私の母』所収 村松友視「母の連鎖」より)

 ちなみに直木さんが上海を旅したのが昭和7年/1932年5月です。ちょうど同じく梢風さんも、事変直後の上海を見るため、あるいは川島芳子さんをモデルにした「男装の麗人」を書くために5月中旬から6月ごろ上海で暮らしていました。両者すでに面識もあり親しくしていた関係で、梢風さんは後年「近代作家伝(七) 直木三十五」(『新潮』昭和26年/1951年3月号)のなかで、上海にやってきた直木さんの姿を記録しています。おれは中国の事情を知ろうとは思わないんだと言い放った直木さんは、軍部の将校たちが催した歓迎会の席でも終始むっつりとしていたそうです。わざわざ遠方までやってきておいて、スカして周囲をケムに巻く感じ。ここら辺がもうかなりの「直木三十五」っぽさです。

 ともかくも、上海という街(あるいは梢風さん)を通して直木さんと村松さんはずっと以前からつながっていた、ということが言いたかったんですが、ハナシはまだ続きます。直木さんの死後40数年たって、彼の名を冠した文学賞を友視さんが受賞してしまったことが、この奇縁をもう一度ふつふつと再燃させるきっかけになるのですから、上海や梢風さんの威力、おそるべしです。

          ○

 文学賞が人と人をつなぐ縁になる。これぐらいだったら、よくあるハナシかもしれません。中央公論社の編集者だった村松さんは、ひょんなところからベストセラーのライターになり、小説の執筆をすすめられて書いてみたところ、いきなり直木賞候補に。原稿の注文がわんさか訪れ、にわかに売れっ子作家状態になるなかで、あれよあれよと3度目の候補で直木賞を受賞、賞金50万円が舞い込むことになります。

 直木賞の特徴といって、権威だとか文壇人事だとかの他に挙げられるのが、賞金が贈られることです。

 賞金を何に使いますか? ……と、受賞者の会見でそんなことを聞く記者は、最近見かけません。もはや質問として手アカがつきすぎたんでしょう、だけど、ある時期まで直木賞(もしくは、もうひとつの文学賞)に関する定番ゴシップネタのひとつに、賞金の使い道という項目があったことはたしかです。

 このとき村松さんが、うっかり手元に入ってきてしまった直木賞の賞金を何に使おうかと考えて、頭に浮かんだのが何だったか。上海のことでした。

 母が自分を身ごもった場所に、母と2人で旅行する。その資金に直木賞の賞金を当てようと考えた、というのです。

「母を連れて上海へ行ってみようと思い立ったのは、直木賞をいただいたすぐあとのことだった。直木賞の副賞五十万円というやつをどう使うか……それを考えたあげくのプランだった。

(引用者中略)

私は、自分の中に生じた不安が、「母を父の死んだ上海へ連れて行く」という、いかにも親孝行的なこの旅のイメージにあることに気づいていた。そこで、もっと私らしい目的を旅にかぶせることによって、そのはずかしさを消そうと思ったのだが、それが上海を舞台にした小説を書いてやろうというプランだった。

夫が死んだ場所をたずねる母を、うしろからじっくりながめてみよう……それが、私が考えた小説のモチーフだった。つまり、自分の中にない上海行きの目的を、母の目的をながめることというふうにしてしまったのである。」(『潮』昭和59年/1984年1月号「村松友視のライブ・ショット第13回 上海ララバイは聞えない」より)

 『別冊文藝春秋』に「千駄ヶ谷」(161号・昭和57年/1982年9月)、「上海ララバイ」(166号・昭和58年/1983年12月)と発表し、これをまとめて『上海ララバイ』(昭和59年/1984年6月・文藝春秋刊)が生まれます。自分の生い立ちや両親(とくに母親)との関係を素材としながら、フィクションに落とし込んだ一作です。

 たとえば旅行資金の50万円については、小説ではこう書かれています。「知り合いの鮨屋の板前に連れられて競馬へ行き、生れてはじめて買った馬券が大当り、五十万円あまりが懐へころがりこんだ。」(『上海ララバイ』より)現実では直木賞の賞金だったものをここで「あぶく銭」と表現しているところが、ふふっとニヤけさせる味付けにもなっています。素直にスムーズに対象と向き合えない、向き合いたくない村松さんの個性がこういうところにも出ていて、無理やり結びつければ、歓迎会に呼ばれてムスッとしていた直木三十五さんの屈折した感覚に、どこか通じるものがあります。

 とまあ、無理に結びつける必要はなかったですね。梢風さんを軸にして、上海の街で結びつく直木さんと村松さん。たまたまの縁でもう一度、村松さんが直木三十五の名前からくる恩恵にあずかったときに、そのお金を使って上海の街を訪ねてみようと思いつく。村松さんが意識していたかどうかは、よくわかりませんが、仮に無意識だったとしてもそういう奇縁をさらりと行動に現わせてしまうのが、村松友視という人がおのずと身につけているオシャレさでしょう。

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コメント

十分稼げている人が多いので、「今さら金の話を聞くのも……」というような感覚があるのでしょうか>賞金の使い道
「マカオに行きます」と答えた黒川博行さんは、まあ聞きやすい人柄というかなんというか……

投稿: 毒太 | 2020年2月23日 (日) 22時30分

毒太さん、

コメントありがとうございます。

「最近見かけない」とか、相変らずテキトーなこと書いていて、すみません……。

賞金の使い道、まだまだゴシップ質問としては十分に通用しているのかもしれませんね。

投稿: P.L.B. | 2020年2月23日 (日) 23時07分

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