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2020年2月 2日 (日)

粂川光樹、日本語を教えるためにプリンストン大学に赴任したところで、直木賞候補入りを知る。

 海外モノと直木賞の関係のなかで、新しい時代を切り開くきっかけとなったのは、やはり昭和39年/1964年の海外渡航自由化です。

 と、知ったかぶりして書いていいものかどうか悩みますが、こういう社会の動きが即座に文学賞に反映するかというと、なかなか難しいものがあります。少しずつ世界が近くなってきたような気がするよね、でもわれわれ庶民にとってはまだ遠い世界だよね、という状況はそのあとしばらく続き、直木賞の候補作のなかにボコボコと海外モノが出てくるのは、もう少し先のことです。

 それで、海外渡航のハナシですが、昭和39年/1964年というと直木賞がその上半期を対象にして選考会を開いたのが第51回(昭和39年/1964年・上半期)です。

 直木賞にとっては試練の時代、と言っていいでしょう。商業出版の世界で活躍しはじめた作家の背中を後押しする、という賞の性格に選考委員たちがあまり反応しなくなってしまい、もっと新しい芽、新鮮な作品を読みたいんだ! と得手勝手なわがままを言い出して、素人を含めた同人雑誌の世界からぞくぞくと候補作が選ばれていったこの時代。

 やがて訪れる第54回(昭和40年/1965年・下半期)と第55回(昭和41年/1966年・上半期)のあいだの直木賞ビッグバンによって、根底がガタガタと揺らぎはじめることになりますが、ちょうどその「同人誌隆盛」のタイミングで直木賞に現われた、海外と縁の深い人、粂川光樹さんを今回は取り上げたいと思います。

 粂川さんが『半世界』21号に載せた小説「極東語学校夜話」は第54回直木賞の候補作に挙げられました。しかし、けっきょく粂川さんは小説家にはならなかったので、この小説もまず一般的に目に触れる機会はないかと思います。いちおう簡単に概略だけ紹介しておきます。

 アメリカの財閥ジェファースン財団が世界各国で運営している語学校があります。東京に開設されたのが「ジェファースン財団外国語研究所極東語学校」。ここで在日の外国人を相手に日本語を教えている江崎恵子が、小説の主人公です。

 時代はベトナム戦争が真っ最中で、アメリカによる北ベトナムへの空爆、それに対する報復などが連日のように報じられています。日本でも思想や主義をめぐる闘争が日常風景として繰り広げられるなか、恵子の同僚である歌人の根岸省吾、昔の恋人で革命運動家だった片山良治、はてまた語学校の初代校長だったアラン・バーリントンの夫人アンヌを寝取って結婚までしてしまった津田耿平など、恵子とまわりの男たちの恋愛や肉体関係や運動や、その他もろもろの同時代の生活が綴られていく……という小説です。

 いちおう直木賞の候補にはなっていますが、基本的にこのころの、とくに同人誌掲載作の候補作は、筋や背景、展開に面白みのあるものはほとんどありません。「極東語学校夜話」も、あんまり面白くはありません。

 冒頭のほうでアンヌが恵子に相談を持ちかける場面があります。どうも最近津田の金遣いが荒くなって、韓国人の少年に金を渡しているようだ、うんぬんというエピソードが伏線となって、最後の最後でその真相が明かされる、というところにミステリーチックなにおいを感じさせるぐらいです。ちなみに作中、恵子と根岸がミステリー・マガジンに載っている小説について会話をする箇所があります。短歌やミステリーを小道具として出してくる風合いが、昭和40年前後という時代にアメリカ人たちに囲まれて日本語を教える教師たちの、この当時の雰囲気を表しているのかもしれません。

 粂川さん自身は東京大学文学部から同大学院に進んで上代文学を専攻した人ですが、そのあとは自分で詩作もおこなって昭和37年/1962年には『運河と戦争』(屋根裏工房刊)を刊行、あるいは5年ほど東京や横浜で外交官を相手に日本語を教える仕事をしていた、と言います(『古典と現代』23号[昭和40年/1965年9月]「アメリカ生活を前にして」)。自分の身近なこと、体験したことを小説にしていくやり方にのっとれば、自分に似せた男性の主人公を立てて、その見聞を描いていくこともできたはずです。しかし、そういう手アカのついた手法をとらなかったことが、粂川さんのイケているところです。

 それはそれとして、外国人に日本語を教える、という職能が粂川さんにあったおかげで、昭和40年/1965年のこの時代に、直木賞は(候補作家とのまじわりのなかで)海を超えてしまいます。昭和40年/1965年9月、「極東語学校夜話」を置き土産として粂川さんはアメリカのプリンストン大学で日本語を教えるために渡米。そして海の向こうで、自分の小説が直木賞候補に挙げられたという知らせを受けることになったからです。

 候補になったのは、直接海外のことを描いた作品ではありませんが、粂川さんが日本語を教える経験を積んでいたから生まれたような内容です。世界(とくにアメリカとかベトナムとか)のなかでの日本人の、生の息づかいを感じさせるという意味で、このときに「極東語学校夜話」が直木賞の候補となって、候補一覧に名前を刻んだのも、けっして意味のないことではなかった、と言っていいと思います。

          ○

 粂川光樹という名前は、ただの小説好きでしかないワタクシには、まるでなじみがなかったんですが、以前、夏目漱石の未完の小説『明暗』のつづきを書いたということを小谷野敦さんから教わって、『明暗 ある終章』(平成17年/2009年1月・論創社刊)を買って読んだことがあります。

 ワタクシには『明暗』のことを語れる素養がないので、興味のある方は漱石のものや水村美苗さんの『續 明暗』などと読み比べると面白いと思いますけど、ここに解説を寄せているのが粂川さんの大学時代の後輩だった内田道雄さんです。上でちょっと挙げた、粂川さんがちょうどプリンストン大学に赴任する前後に加わった『古典と現代』でも仲間どうしだったという縁の深い人です。

 この解説では「極東語学校夜話」のことにも触れられています。こういう文章にめぐり会うと途端にうれしくなってしまうのが、直木賞オタクのイケないところですよね、とはっきり自覚はしているんですが、やはり無視できないので引かせてもらいます。

「学生時代から各種の雑誌に詩や散文を掲載し、その文学的輝きは常に私には幻惑的だったと回想する。大学院生活数年の後、教育職に就いて繁忙の日々を送ることになるが、創作意欲は持続され、偶々同人誌掲載の作品によって第五十四回直木賞候補に挙がったのは、粂川がプリンストン大学専任講師としてアメリカに赴任した時期(一九六五)と相重なっている。受賞には至らなかったが、この「極東語学校夜話」という小説が、ポリフォニックな文体を示していたことは「複数視点」(後述)を採る漱石の『明暗』との因縁を思わせる。」(『明暗 ある終章』 内田道雄「解説」より)

 ポ、ポリフォニック……! なるほど、中心となる人物やエピソードがあっちに行ったりこっちに行ったり、やたらと読みづらい小説だなと辟易したのは、作者の意図でもあった(かもしれない)のだと、少し「極東語学校夜話」を見直しました。

 それで内田さんが指摘しているとおり、この候補作と粂川さんを核にして、直木賞とプリンストン大学が交差したところが、ワタクシも面白いと思います。粂川さんはその後、日本の大学で教えたりしながら、1980年代にはふたたび海を渡って、シンガポールのほうで日本語を教えることになったそうです。

 個人ひとりひとりは自由に外に羽ばたき、国際的な土壌を耕すことができます。それに比べて直木賞というのは……と、この賞の限界や狭さが浮き彫りになるところでもありますが、たまたま候補になった人が、別の領域でそれぞれ海をわたって新しい世界を切り開くことは、直木賞にとっても歓迎すべき事態かもしれません。そういう人たちの歩みが、めぐりめぐって日本の商業出版になにがしか影響を及ぼし、その一角で運営されている直木賞にも、新たな海外からの風が入ってこないともかぎりませんし。

 直木賞の受賞だけをさも素晴らしい業績のように見るのは、ちょっと違うかなあ、とつくづく感じます。

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