« 浅田晃彦、どうにも自分の置かれた環境がイヤになって、世界各地を旅する船医になる。 | トップページ | 村松友視、自分のルーツの地、上海を旅するにあたって、直木賞の賞金を使う。 »

2020年2月16日 (日)

西川満、台湾で一生を過ごすつもりが、日本の敗戦で全財産を失い、海を渡る。

 直木賞の候補者リストはだいたい無用に幅広いです。無名な人から著名な人までいろんな人が混ざっています。

 そして芥川賞と違って(いや、違わないか)、候補に挙がった作品をあとから見返すと、何でこんなものを候補にしたんだと首をかしげたくなる。それもまた直木賞の特徴です。代表作を候補に選ばない。ないしは候補になったものが代表作にならない。……文学ジャンル、世間の流行、作家たちの実績。それぞれの中心点や王道の領域から、ほんの少しズラしたところを突いてしまう歴史が、おおむね直木賞をつくってきました。文句を言っても始まりません。

 というところで第22回(昭和24年/1949年・下半期)で候補に挙がった西川満さんです。小説家、詩人、編集者、造本家、占星術師などなど、多くの顔がありますが、西川さんの代表作というと、何になるのでしょう。

 すべての作品を読んだわけでもなく、語れるほどの批評眼もないので、正直言ってわかりませんけど、少なくとも「地獄の谷底」を挙げる人はまずいないと思います。もしいても、それは単に直木賞脳が発達しているだけの人でしょうから、無視して問題ありません。この小説は、直木賞候補になった、ということだけでしか知られていないと言ってもいい、取るに足らない一編です。

 まあ、取るに足らない、などと切り捨ててしまってはハナシが進みません。戦後まもない昭和24年/1949年、混迷と再生がごっちゃまぜの出版業界に生きる引揚げ者の悩みを、リアルタイムに描いた貴重なドキュメンタリー、と言い直しておきたいと思います。舞台は、戦争が終わって数年、わさわさと日常の生活が動き始めた東京の一角。雑誌の編集を手伝っている語り手と、終戦で台湾から引き揚げてきた元出版社の社長、井上由紀枝などが登場します。

 この設定から見えるように、西川さん自身の経験がギュッと詰め込まれた小説です。『キング』などという読み捨ての娯楽雑誌に掲載され、雑誌の狙いどおりに読み捨てられて、もはや読み継がれていないわけですが、少なくとも西川さんにとっては大事な一作だったことでしょう。

 明治41年/1908年に福島県で生まれた西川さんは、ものごころつく前の明治43年/1911年、家族ともどもいっしょに海を渡ります(渡らされます)。父親が、親戚の経営する炭鉱の支配人として赴任することになった、というのがその理由だそうですが、

「家庭は統治民族の中でも経済的に恵まれており、両親の愛情のもとに、両親を敬慕しつつ比較的自由に成長した。世俗的な言い方をすれば、(一時、父西川純の会社が倒産し、長屋住いをしたこともあるが)乳母日傘で育てられたといってよいだろう。」(平成7年/1995年10月・東方書店刊『よみがえる台湾文学――日本統治期の作家と作品』所収 中島利郎「西川満と日本統治期台湾文学――西川満の文学観」より)

 と中島利郎さんに言われています。たしかに西川さんが後年残した両親に関する文章は、たいがい甘アマで、デレデレです。昭和3年/1928年から昭和8年/1933年、単身東京に出てきて早稲田大学第二高等学院、早稲田大学文学部仏文科に通い、さあ「ふるさと」台湾に帰るか、東京で生活するか迷ったところで、おれは台湾の地で新しい文学の創造と建設に力を尽くすんだ、と若々しい野心に燃えて帰台。そこから頭でっかち口先だけの文学亡者でなかったことが、みるみる証明されて、昭和20年/1945年に戦争が終わるまでのあいだに、「台湾に西川満あり」と東京で知られるぐらいにメキメキ働きます。

 だいたい目立って評価されはじめると、周囲からにわかに批判されたり、中傷を受けたり、くんずほぐれつの論戦(というか単なるケンカ)に巻き込まれたりします。日本の狭い文学グループとか、出版界、雑誌界でもそうですし、台湾でももちろん例に洩れません。西川さんも、贅沢な本をつくっては悦に入っているような趣味人といいますか、自分の信じる芸術ってやつを推し進めて、現地の台湾人とかその他多様な民族のことは眼中にないような、横暴さも兼ね備えていたらしく、賛否両論、褒める人あれば悪評もふんぷんという、そんな時代を送ります。

 西川さんが語るところによりますと、戦時中、新鷹会の長谷川伸さんや大林清さん、村上元三さんが台北を訪問した折りに、その相手を務めたのが西川さんでした。悪口を言ったり、人の足を引っ張りすることの卑しさを、長谷川さんからふと教えられて改悛し、それ以来だれが何と攻撃してこようが深いフトコロをもって接することができるようになった(『大衆文芸』昭和29年/1954年5月号「鞭」)、ということでだいたいそのころ西川さん30代後半です。大人の階段を、また一段しっかりのぼった、というところでしょう。

 学校を出て台湾に戻ったときから、もはや西川さんはそこで骨をうずめる覚悟だったと言います。日本の戦争のゆくえが違っていたら、きっと海を渡ったままの作家として、また別の作品世界を展開していたかもしれず、そうなれば「直木賞」なんて賞の候補に挙がることもなかったかもしれません。終戦・敗戦とともに、台湾から日本(東京)へ。これが西川さんと直木賞をつなぐ縁になります。

          ○

 敗戦と同時に父親が残してくれた財産はすっかり中国政府に持っていかれ、西川さんはまるっきりの無一文となって日本に渡ります。妻と3人の子供を養わなきゃいけません。筆一本で稼ぐまでには、まだ戦後の雑誌界に顔が利くわけでもなく、どうにかこうにかありついた職が、雑誌編集の口です。

 そのなかで知られているのが、大阪の真日本社が出していた『眞日本』の東京駐在文芸担当者としての顔です。いや、知られているというか、そんなことしていたのか、とワタクシは今回はじめて知りました。どうして『眞日本』の編集を手伝っていたことがオモテに出てきたかといえば、三島由紀夫さんとのつながりがあったからです。

 西川さんが台湾にいたときに『文芸台湾』昭和16年/1941年10月号に載せた「小さな鬼の歌」という詩があります。これを読んだ三島さんから感想のハガキが送られてきたのが、両者が結びつく最初だったとか。戦後、西川さんが「双蝶記」を書いた『大衆文芸』昭和22年/1947年3月号を三島さんに送ったところ、

「すぐに、三島から礼状が届き、しばらくして、三島が(引用者注:西川の住む阿佐ヶ谷の)引き揚げ者寮に訪ねて来た。学生服にレーンコート姿。当時、三島は新進の学生作家として注目され始めていた。西川さんは「真日本」への執筆を依頼した。二十二年秋、三十枚たらずの原稿が郵送されて来た。「ある晴れた日に」という題だった。追いかけるようにはがきが来た。「あの題名は歌劇『蝶々夫人』の中の歌と同じなので『晴れた日に』と直して下さい――」。西川さんは、その原稿を大阪の本社に送った。」(『読売新聞』昭和47年/1972年11月23日「一七八作品中ただ一編消えたまま 幻の短編「晴れた日に」 完全集大成へ“捜索”開始」より)

 ちなみにこの記事のことは、週刊読書人ウェブの福島鋳郎さんの記事でも紹介されています。

 けっきょく三島さんの「晴れた日に」は『真日本』には掲載されず、「蝶々」と改題されたうえで新生社の『花』昭和23年/1948年2月号に掲載されたらしい、うんぬん、という福島さんの推理はどうやら合っていたそうですが、そのエピソードを深く掘り下げるつもりはありません。とりあえずこの時期、西川さんが引き揚げ者の寮に住みながら雑誌編集者として活動していたことを知れただけで十分です。

 西川さんの作品世界というと、詩的感覚に富んだ、現実と幻想のまあいを横断する作風に冴えが見えると思います。おそらく、台湾から引き揚げてどこにどんな突破口を見つけていいのか、悩み苦しむ経験から生まれた「地獄の谷底」のような小説は、西川さんの本領とは言えないでしょう。

 そんなものを、西川満生涯唯一の直木賞候補作に選びとってしまう直木賞の、このズラし具合たるや……。さすがは直木賞。そのあたり、ほんと変わりません。

|

« 浅田晃彦、どうにも自分の置かれた環境がイヤになって、世界各地を旅する船医になる。 | トップページ | 村松友視、自分のルーツの地、上海を旅するにあたって、直木賞の賞金を使う。 »

直木賞、海を越える」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 浅田晃彦、どうにも自分の置かれた環境がイヤになって、世界各地を旅する船医になる。 | トップページ | 村松友視、自分のルーツの地、上海を旅するにあたって、直木賞の賞金を使う。 »