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2020年1月 5日 (日)

直木三十五、日本が迎える未来のことを書きたくて、満洲や上海を旅する。

 新年最初のエントリーは、誰を取り上げるのがふさわしいのでしょうか。

 いちいち考えるのも無駄なので、さっそく本題に入ります。毎年1月といえば、直木賞の月です。個人的にはそれ以外に何もありません。直木三十五の、賞の、月です。

 去年「海を越えた直木賞」というテーマで1年続けようと思ったときは、全然頭になかったんですけど、そういえば直木三十五さんも海を越えた作家でした。明治24年/1891年生まれで、昭和9年/1934年没。当時、日本を出国しないままで生涯を終える人はたくさんいたはずです。そのなかで直木さんは2度ほど海を渡ります。その成果をもとに作品も残しています。

 そもそも外国を旅行したうんぬんの以前に、直木さんの履歴のなかで外国物は外せません。G・K・チェスタートン、エドガー・ウォーレス、ヘンリク・シェンキェヴィチなどの翻訳は「訳者として名前を貸しただけ」説があり、ほんとうに直木さんの仕事だったのかはわかりませんが、大学進学のときに英文科を選んでいるのは事実ですし、あるいは、いくつか手がけた出版事業のなかで大いに成功したと言われているのが『トルストイ全集』刊行だっだりします。こういう人の名前を冠しているわけですから、その文学賞が多少なりとも国際的な側面をもっていたって、バチは当たらないでしょう。

 ……と言いながらも、昭和のはじめに直木さんが外国を取材した、と現在の感覚で言ってしまうのは語弊があるかもしれません。最初の旅行は、まだ日本が占領するまえの満洲地方。2度目は、欧米および日本がヒトの国土をめぐって鞘当てを繰り返していた頃の中国・上海。いずれも日本がよそさまの生活を侵してまで自国の政治・文化を広げたいと思っていた時代に、身近にあった隣国です。

 そのころ、といいますと1920年代後半から30年代、直木さんは大衆文芸作家として急激にマスコミで名前が売れはじめていました。とくに彼を有名にしたのが、軍部と密接にくっついたファッショ主義の持ち主という側面です。左傾ではなく右傾、とそういうことになっています。

 昭和5年/1930年、直木さんは一世一代の代表作「南国太平記」を新聞に連載して、ついに流行作家の地位にのぼりますが、このころ日本国内で話題になっていたことといえば、満洲に対する日本の政策(あるいは日本人たちの向き合いかた)でした。欧米列強に遅れまいと、必死に満洲への進出をすすめる日本。一般的には賛否両論があったようですけど、知識層ないし文学者の方面では「こういう帝国主義的な他国への侵略は悪だ」という認識があったみたいです。ごもっともです。

 しかし直木三十五という人間の、ちょっとイタイ性格が、ここで過敏に反応します。なんといっても生まれついてのアマノジャクです。世間で良識だと見なされる考えかたに対して、つい逆張りしてしまう直木さんの言動は、これ以外にもいくつも見られますが、満洲に関しても例外ではありません。偉そうな奴らは、侵略するのは悪いことだと言う。だからこそ、おれはそんなことはない、と言ってみせる。……というような発想です。

 昭和5年/1930年10月、満洲を1週間ほど旅行し、翌年にはその取材をもとに「村田春樹」という名前で、いわゆる架空戦記物に属する「太平洋戦争」(『文藝春秋』昭和6年/1931年2月号~8月号)を発表します。村上春樹じゃありません。村田春樹です。

 伝えられるところによりますと、直木さん自身は昭和5年/1930年~昭和6年/1931年当時の世界と日本の情勢を自分なりに分析し、きっとこういうことが起きるだろうと予想して書いたにすぎず、別に自分の政治思想をそそぎ込んで世に広めよう、といった感覚はなかったそうですが、流行作家の直木が戦争物を書いたぞ、右傾化しているぞ、と言われてしまいます。そこで、はあすみません、僕の書き方が悪かったですね、などと殊勝に引き下がらないところが直木さんの面目躍如たるところで、うるせえな、ファシストぐらいいつでもなってやらあ、と受けて立って、翌年に「ファシズム宣言」をぶっ放します。それでまた世間がワッと沸く、という展開です。

 こういう流れを見ても、直木さんに何か一本芯の通った立派な理念があったとはとうてい思えません。ハッタリとその場しのぎです。もしも文学賞というものが、例外なく尊敬されるべき人物の名前を冠しなければいけないものだとしたら、この人など、まず文学賞として語り継がれるにはふさわしくない人でしょう。

          ○

 満洲旅行のあとに、直木さんは随筆「満洲見聞」(『中央公論』昭和6年/1931年10月号)を書いています。べつに満洲なんか行ったところで見るべきものは何もなかったよ、つまらないぜ……などと相変らずのシニカルなはみかみ屋ぶりを発揮していて、食えない人物という印象を感じますが、それから1年ほどで赴いた外地が、上海です。もうそのころには、ずいぶんからだの調子も悪く、満身創痍だったといいます。

 羽田発の飛行機で上海に発ったのが昭和7年/1932年5月6日のことです。満洲事変の起こったのが前年昭和6年/1931年の9月、上海事変(第一次)が昭和7年/1932年1月から発生し、いよいよ戦争衝突がボツボツと噴き出していたころに当たります。映画界では、日活から脱退した入江たか子さんが独立プロを設立した時期にぶつかったこともあって、新興シネマが彼女と中野英治さんに話を通し、中国大陸ロケを敢行した新作を制作することを決定。昭和7年/1932年4月から数十名のロケ隊を組んで撮影を開始します。これが溝口健二さんが監督した『満蒙建国の黎明』です。

 同作は原作者として直木さんとその盟友・三上於菟吉さんの2人が並んで名を連ねています。いったいどこまで彼らがこの作品に関わったのか、詳細はわかりません。直木全集や植村鞆音さんの『直木三十五伝』の口絵写真に、直木さんと入江たか子さん、鈴木伝明さん、菅井一郎さんの4人が座敷で円卓を前に撮られた写真があって、キャプションに「映画「日本の戦慄」の撮影中」とあるのは、じっさいは『満蒙建国の黎明』のときの写真ではないか、と思うんですが、これもまた不明です。とりあえず、同映画のロケ刊行中に、直木さんも上海に渡っていることはたしかです。

 キナ臭くなってきた日本の真っただ中にいて、未来の戦争はこうやって起こる、みたいなことを想像だけで書いてしまった直木さんです。大陸でほんとうに戦火が上がったと聞いて、どうも居ても立ってもいられなくなったのかもしれません。体調も悪い。書かなきゃいけない原稿は山ほどある。だけどおれは上海に行く。上海に行って、現実の戦争をこの目で見てくるのだ、と言っています。

 何のためでしょうか。この先、日本がどうなっていくか(諸外国がどう出てくるか)という未来の物語を、なるべく現実に即したかたちで書きたかったからです。何でそんなものを書きたいのか。おそらく、文壇の作家たちがまだ誰もそこに手をつけていない、と思ったからです。

「一九三六年以後の、日支紛擾に、誰が現在の三倍のアメリカ戦艦が、上海へ集中しないと、云へるか? 今でも来てゐるのだ。砲火を聞くきつかけは、アメリカ人を一つ撲つたゞけでも起るかもしれない。

日本が、満蒙への進出は、ワシントン条約にふれると、支那を援助して、アメリカが云はぬとは、断言できない。そして、それが、一九三六年なら?

余りに、明瞭すぎることだ。現在の文壇人の多くは、思想的ジプシイであつて、かうした問題に対しては、最も、低級なるリベラリズム的観方以外に為しえない。僕は、ファシズムで無いが、日本と日本人と、自分とを愛してゐる。」(『文藝春秋』昭和7年/1932年4月号 直木三十五「上海へ行くから 「日本の戦慄」休載に就て」より)

 おれは、他の文壇作家たちとは違って、現在の日本国家とこれから進むところを、ずいぶん前から作品化している先進的な人間だ。と大見得を切っています。一般読者たちから面白がれ、良識派を任じる作家たちから嫌われるのも、よくわかります。

 それで直木賞の話につなげますと、文学賞が尊敬されるべきものである必要はありませんし、あるいは名を冠した作家の精神を一切受け継いでいなくても、何の問題もありません。しかし、せっかく直木さんの名前がついているので、直木さんの「現在よりもっと先のことを書きたい」という思いを多少は習って、もうちょっと先進的な作品を顕彰するような賞であっても、いいと思います。

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