« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »

2020年1月の5件の記事

2020年1月26日 (日)

太田俊夫、カメラの卸商になって中国大陸で仕事をした経験が、50代後半で熟成する。

 大正2年/1913年に宮崎県で生まれた太田俊夫さんは、まもなく東京に移り住んだので、出身地は「東京」ということになっています。

 直木賞の創設が昭和9年/1934年ですから、もうそのときには立派に成長して21歳。けっこうなお年頃です。区役所の税務係として働いていたといいます。

 そのころに一度小説を書いたことがあり、大衆雑誌の懸賞に応募したところ、入選の賞金10円をもらったそうです。いまさら太田俊夫の文学的履歴を調べようという奇特な人はいないかもしれません。でも、もしいたら、いつ何という雑誌の懸賞で入選したのか、教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。

 太田さんのインタビュー(『商工ジャーナル』昭和62年/1987年6月号)で語られるところでは、太田さんが入選したのは、丹羽文雄さんが文壇のなかで急激に注目の存在にのし上がっていた時代らしいです。というと、ちょうど直木賞ができた直後ぐらいなんでしょう。雑誌に載った作品を丹羽さんに見せてみたら、こてんぱんにケナされてしまい、それから太田さんは小説の筆をとる気が一気に冷めます。

 以後、昭和43年/1968年ごろまで30数年、いっさい小説を書く気持ちにならなかったという太田さんが、直木賞の候補に挙げられたのが第68回(昭和47年/1972年・下半期)のときです。もちろんそのころには、直木賞を創設したときの理念なんてものは、いろいろな事情で波にさらわれ、ほとんど別モノのような文学賞に変貌していましたが、候補当時ですでに59歳、太田さんの自慢(?)のひとつは、直木三十五さんをじっさいに見たことがある、というものでした。

 『経済界』昭和48年/1973年3月号のエッセイ「直木賞候補」によると、直木さんを見かけたのは太田さんが少年のころ。戦前の銀座では有名だったカフェ「銀座パレス」の向かいの道あたりを、ふらふらと倒れそうになりながら歩いている直木さんの姿を目にとめます。少年の目から見て、あっ、直木三十五だ、と顔のわかる作家だったということなのか、はたまた太田さんのハッタリなのか、よくわかりませんけど、直木さんと同時代の空気を吸った人が、けっこうな人生経験を積んだ末に小説を書きだして、この作家の名を冠した文学賞の候補になった、ということです。

 若いうちの経験は何でもしとけ、……というありきたりな感想しか浮かびませんが、20代から30代にかけての太田さんは、小説から離れて仕事に明け暮れます。日本橋で病院を経営していた叔父がいて、彼からのアドバイスで区役所をやめて、カメラの卸し商に転職すると、口八丁手八丁でものを売って利益を得る世界に魅力を感じ、険悪な国際関係にあった中国に渡って青島、上海、南京などでカメラ商人として青春の日々を謳歌しました。

 のちに太田さんが『文学者』に発表する短編連作「暗雲」は、物語のはじめ区役所に勤めている押見亮太が主人公です。それが役人の世界からオサラバしてカメラ売買に身を移し、日中間の、あるいは第二次大戦の戦局が激化するなか、中国大陸に商業拡大の場所を求めて海を越えます。というこの展開は、まるまる事実そのままと認められるわけではないですけど、かなりの部分で太田さんの経験が活かされたものだと思います。主人公や周辺人物の造詣や言動は、まもなく日本の出版シーンをにぎわせることになる冒険小説を連想させます。

 太田さん自身は、その後日本に帰って映画制作に関わったりするうちに、召集令状を受け取って、ふたたび中国に送られます。日本と中国。当時、兵士にさせられるぐらいの年代だった男性にとって、中国(満洲含む)での体験がそれぞれの人生を変えたと思いますが、直木賞という文学賞だけ見ても、それは同じです。戦後、その体験がきっかけで小説を書き始めたり、あるいはもとから創作をしていた人が海外戦地体験を書いたりします。それら強大な潮流が文芸、小説、読み物に流れながれて拡大し、昭和20年代以降、直木賞の場に侵食していきます。

 たとえばそこで、太田さんだって再び小説を書いてもおかしくなかったはずです。しかし書きませんでした。人生を賭けるなら、おれは商売の道だ、という信念と実感のなかで生きていたからです。昭和21年/1946年に復員してすぐ、かつてから知り合いだった笠井正人さん、宮尾芳房さんと3人で、カメラのフィルターを扱う会社を立ち上げます。「ワルツ」です。

続きを読む "太田俊夫、カメラの卸商になって中国大陸で仕事をした経験が、50代後半で熟成する。"

| | コメント (0)

2020年1月19日 (日)

逢坂剛、社会人になって5年目、本場のフラメンコに触れるために、はじめてスペインへ。

 直木賞に関わる作家は受賞者だけじゃありません。面白い小説を書いていて、人物そのものも面白い(はずの)作家は、受賞しなかった候補者たちのなかにも、山ほどいます。

 なので、落選した人たちや作品にも目を向けたい、と思っているんですけど、じゃあ受賞者なんてクソばかりだから無視してもいいんだ、と主張するのはさすがに違う気がします。

 そんなこんなで今日は、これまでうちのブログでなかなか取り上げる機会の少なかった受賞者のことで行きたいと思います。しかも「海を越えた直木賞」のテーマにぴったりハマりすぎるほどハマっている、第96回(昭和61年/1986年・下半期)受賞者。逢坂剛さんです。

 つい最近、第61回毎日芸術賞を受賞した、まだまだ現役の人ですが、その逢坂さんが直木賞を受賞したのは、だいたいいまから30年ほど前になります。「そんなの最近じゃないか」と真顔でツッこんでくる爺さん婆さんはおいときまして、直木賞の歴史が85年ですから、そこまで最近でもありません。

 第96回の受賞者が逢坂さんと、『遠いアメリカ』の常盤新平さん。候補のなかには『脱出のパスポート』の赤羽尭さんも入っていました。もう海外や外国の話題を小説のなかに全面的に採り入れても、たいして物珍しくもなくなり、古い古いと言われた直木賞の選考委員会でも、拒否反応が薄れていた時期にあたります。

 そのなかでも逢坂さんの小説が候補に挙がるだけならまだしも、まさか直木賞をとってしまうというのは、やはり直木賞のなかの「海外交流史」ではインパクトの残る出来事だった、と言うしかありません。冒険小説と見られる小説が受賞した! という小説ジャンルの問題も、当然ありますけど、受賞作家の海外との縁のつながり方が、なかなか異様だったからです。

 「異様」というと表現が変かもしれません。すみません。しかし、親は挿絵で名の知られた絵描きさんで、生粋の日本人。幼少時代、とくに海外体験を送ったわけでもなく、大学時代に留学した経験があるわけでもありません。順調に大学を卒業すると、順調に(?)大手企業に就職します。そこで海外の支局に転勤してうんぬん、だったらまだわかりますが、そんなこともなく、のちに海外物の小説家としてのし上がっていく芽は、まだ表面化していません。

 そのまま会社員生活を送って、企業人のひとりとして小説を書き、直木賞をとってパッとスポットが当たります。と同時に、その受賞作の素材となった「スペイン」や「フラメンコギター」という海外との縁は、逢坂さん自身の純粋な趣味を突き詰めたところから生まれたものだった、というのです。

 会社に勤めながら、それとは別に余暇の時間をつぎ込んで趣味に没頭する人は、たくさんいます。逢坂さんの場合は、それがとある海外のこと、とある海外の文化だったわけですが、そういう日本人の生きざまのひとつの形態が、昭和62年/1987年1月に直木賞受賞というかたちでニュース記事の一端を飾った、ということです。

 逢坂さんがフラメンコギターにのめり込むきっかけは、二人いるお兄さんのうち、4つ違いの次兄の影響でクラシックギターを始めたことらしいです。本格的に練習を始めたのが大学一年のとき、それが神田神保町の喫茶店「ラドリオ」で、サビカスとエスクデロのレコードを聴いて、ビビッと来てしまいます。なんじゃこの世界は、と急激にフラメンコギターに興味を持ち、そこから演奏の練習に没頭していきます(『青春と読書』昭和61年/1986年3月号「ギターとスペインの話」)。

 やがて趣味が高じて、もう一段マニアに近づき、レコードでばかり聞いていても満足できなくなって、本場スペインで生の音を聴いてみたいと思うようになります。外国に行くとなったら現地の言葉をしゃべれなければ、とスペイン語を勉強し、社会人になって5年目の昭和46年/1971年、有給休暇をとって念願のスペイン旅行に出かけます。当然、その主眼はフラメンコにまつわる土地を見て歩く。というわけで、マドリードからセビリア、ヘレス、グラナダ、カディスとめぐるあいだ、11月1日、28歳の誕生日はグラナダで迎えたとのことです。

 じっさいにスペインの地を旅してみて、いっそうスペインが好きになり、フラメンコのことだけじゃなくもっともっと知りたいぞ、といういわゆる「恋する」感情に取りつかれ、歴史を調べる、現代の状況を調べる、内戦の資料を買い集めて調べる、とズブズブとのめり込み、それをもとに小説を書いてみようと思い立ち、作法もへったくれもなく、原稿用紙にシャーペンで横書きの体裁で、ひまを見つけては書き続け……というような『カディスの赤い星』出版にいたるまでの、涙なくしては語れない苦労話は、まったく有名なエピソードとして数々のところで紹介されているので、飛ばさせてもらいます。

続きを読む "逢坂剛、社会人になって5年目、本場のフラメンコに触れるために、はじめてスペインへ。"

| | コメント (0)

2020年1月16日 (木)

第162回直木賞(令和1年/2019年下半期)決定の夜に

 「知れば知るほど楽しくなってくる」のキャッチフレーズでおなじみの文学賞といえば直木賞ですが、そのいちばん新しい第162回の選考会が令和2年/2020年1月15日(水)に開かれて、受賞結果が日本じゅうを駆け巡りました。

 結果を知らなくたって生きていけます。しかし知ればもっと日常が楽しくなるのが、直木賞です。他の人のことはわかりません。少なくともワタクシがそうです。

 まあワタクシの場合はだいたい毎日、なぜ自分は直木賞を面白いと思うのか、考えて考えて、答えの出ないまま次の週を迎える、といったことを繰り返している、ほぼヘンタイの病人ですけど、たぶん日本で何百人か何千人かぐらいは興味をもってこの賞の動向を気にしている、と漏れ聞きます。おお。同志よ。心強いかぎりです。

 読まなくたって生きていける。でも読んでしまえば、もっと楽しい毎日が送れる5つの小説が、第162回直木賞の主役を張りました。いったい直木賞に何の文句があるのか、ある人もたぶんいるんでしょうけど、5つの候補作が読めた、それだけで楽しかったんですから、ここは大人としてお礼を述べておきたいと思います。

 誉田哲也さんのように、独自で我が道を切り開き、多くの読者を喜ばせてくれる作家に対しては、ただ尊敬の念しかありません。直木賞がそういう作家のなかでも、ほんの一部の、偏った方面の人たちしか顕彰できないのは、ほんと申し訳ないです。次に何が出てくるか読者の期待を引きつけながらも、現代の技術進歩に対してひとりひとりがどう受け取り、付き合っていくのかを読み手に突きつける。『背中の蜘蛛』、まじ重い。そしてしびれます。とりあえず「誉田さんを一度も候補に挙げることができなかった」という、直木賞のほうにとって屈辱の歴史が回避されたので、それは今回よかったです。

 小川哲さんの、おそらく今後も長くつづいていく作家生活で、いちばん最初に直木賞が候補に挙げたのが『嘘と正典』……って、どういうことなのか。もはやワタクシの稚拙なおつむでは、理解が追いつきません。『ゲームの王国』でまず候補に選んでおけばよかったのに。でも残念ながら、「嘘と正典」のように過去起きたことに何かを仕掛けるわけにもいかないので、小川さんが未来をつくっていくところを、かたずを呑んで見守るしかありません。次はもう破ってくれるでしょう。直木賞の古びた壁を。

 『スワン』の無差別殺人の導入部。関係者5人が集められて虚々実々で繰り広げられる事件検証の様子。その設定で、おっ、ヤルな、と思わされたところで、呉勝浩さんの叩きつけるような精神の混入が、主人公の女子高生に乗り移っていく後半部分に、釘付けになりました。ミステリーの形式だと直木賞では不利になる、なんて言われたのは、とっくのとうの昔の話(のはず)。呉さんには、謎と解決とワクワク感を守り抜いたミステリーを期待します。それで直木賞のほうが降参するときがくれば、それはもっと爽快です。

 さあ来ました。来てしまいました。いつの間にやら常連となった4度目の候補、湊かなえさんが、いまも着々と築き上げる作家的業績。これまで選考委員のウケが全然よくなかったみたいですけど、今度の『落日』で光明が差した気がします。また来るでしょう。来てくださるでしょう。文学賞向きじゃない、とても受賞できそうにない、と思われた10年くらい前から丹念に独自の作風を積み上げつづけるその軌跡は、いつかきっと「湊かなえ伝説」として語り継がれる時代がくるでしょう。

続きを読む "第162回直木賞(令和1年/2019年下半期)決定の夜に"

| | コメント (0)

2020年1月12日 (日)

今回から状況が逆転する、第162回直木賞の展望記事。

 直木賞には毎回、何かしらの注目ポイントがあります。

 そのほとんどは、無視して通りすぎても何の障害もなく生きていけるような類いのものです。なので、この時期に文芸関係者でもなく出版・書店関係者でもない者が、直木賞、直木賞と騒いでいると、だいたいそれだけで一般的に白い目で見られます。正直、世間のなかではそれほど重要な行事ではありません。それが直木賞というものだと思います。

 それはともかく、今回の直木賞で気になることといったら、やはりこれでしょう。いよいよ女性が大勢を占める回が到来した、ということです。

 何を言っているんだ。直木賞の候補が全員女性になって多少の話題を振りまいたのは、半年前のことじゃないか。相変らず時間軸が狂っている、ふざけたブログだな。……と自覚しないでもありません。しかし、女性か男性かの視点から直木賞を見たときに、転換期が今度の第162回にあることは明らかです。

 林真理子宮部みゆき桐野夏生高村薫角田光代、合計5人。対して男性は、北方謙三宮城谷昌光浅田次郎伊集院静の4人。創設から85年たってようやく、そしていっしょにやっている芥川賞に先んじて、選考委員の男女比が逆転した今回は、直木賞にとって大きな節目となります。

 直木賞(や芥川賞)の委員が、男性ではなく女性であることで、何か影響があるのか。そういうことは、昭和62年/1987年上半期(第97回)に田辺聖子さんと平岩弓枝さんが選考委員になったとき、さんざん報道各社が取材を行い、論評めいた記事が続出したので、改めて蒸し返す気も起こりません。ここでは、直木賞の新しい歴史を切り開くことになる5人の選考委員は、どういう作品を評価しそうなのか、想像する材料のひとつとして、これまでの歴戦・苦戦ぶりを振り返ってみたいと思います。

林真理子(委員在任:20年/第123回から今回で40回目)

選評で高く評価した候補作

 個人的なことを言いますと、うちの「直木賞のすべて」というサイトをひっそりと始めたのが、ちょうど20年前になります。

 そのとき、46歳の若さ(?)で新任の委員として加わった林さんも、気がつけば現メンバー最長在任委員のひとりです。以来、サイトのほうでもブログのほうでもずいぶんイジらせてもらいましたが、小島政二郎さんに始まって、木々高太郎村上元三石坂洋次郎渡辺淳一などなど、直木賞の魅力は、世間一般からもイジられるような選考委員がいなければ、確実に半減します。

 その意味では林さんこそ、現代の直木賞を支えている、と言っていいはずです。あまり言う機会もないので、この場を借りて称えておきたいと思います。林さん。あんたはエラい。

 ちなみに林さんが高く評価したけれど、受賞しなかった候補作の系譜を挙げたのが、左の一覧です。

 ミステリーだろうがファンタジーだろうが、いいと思ったら全力で推すこの感じ。目立ちすぎて叩かれる、という林さんにおなじみな展開を生む隠れた要因でしょう。そしてワタクシ自身、直木賞の受賞作リストよりも、林さんが推奨した作品リストのほうが何だか好みにマッチしている、ということを告白します。お恥かしいかぎりです。……って、けっきょくまたイジっていますね。

宮部みゆき(委員在任:11年半/第140回から今回で23回目)

選評で高く評価した候補作

 林さんの次に古い女性委員は、もう10年以上もやっている宮部さんです。就任したのが48歳のときなので、もうじきン歳です。

 年齢はさておき、林さんと同じく宮部さんも、まあ受賞したもの以外の(落ちた)作品を褒める選評が多く、ほとんどそればっかり書いています。他の人がイイところを指摘している作品を、わざわざ追随する気がしないのかもしれません。だいたい、受賞しなかった作品がどこが素晴らしいかを、えんえんと、長ながと書く。宮部さんの開拓したスタイルです。

 そして推し切れなかった自分の非力を謝罪します。その反省が次に生かされているのかどうなのか、いまいちよくわかりませんが、きっと自分の推奨する作品を受賞させるよう、試行錯誤を繰り返しているのだと信じます。

 宮部さんが討ち死にした左のリストも、林さんに肩を並べるくらいに壮観です。時代・歴史小説、ミステリー、SFといったところを強く評価してきた歴々たる記録、といった感もありますが、まあだいたい直木賞が、それらの小説にやすやすと賞を与えることをしてこなかった記録、と見ていいかもしれません。

 林・宮部の最強タッグを組んで、潮目を変えてもらいたいと願うところです。

続きを読む "今回から状況が逆転する、第162回直木賞の展望記事。"

| | コメント (0)

2020年1月 5日 (日)

直木三十五、日本が迎える未来のことを書きたくて、満洲や上海を旅する。

 新年最初のエントリーは、誰を取り上げるのがふさわしいのでしょうか。

 いちいち考えるのも無駄なので、さっそく本題に入ります。毎年1月といえば、直木賞の月です。個人的にはそれ以外に何もありません。直木三十五の、賞の、月です。

 去年「海を越えた直木賞」というテーマで1年続けようと思ったときは、全然頭になかったんですけど、そういえば直木三十五さんも海を越えた作家でした。明治24年/1891年生まれで、昭和9年/1934年没。当時、日本を出国しないままで生涯を終える人はたくさんいたはずです。そのなかで直木さんは2度ほど海を渡ります。その成果をもとに作品も残しています。

 そもそも外国を旅行したうんぬんの以前に、直木さんの履歴のなかで外国物は外せません。G・K・チェスタートン、エドガー・ウォーレス、ヘンリク・シェンキェヴィチなどの翻訳は「訳者として名前を貸しただけ」説があり、ほんとうに直木さんの仕事だったのかはわかりませんが、大学進学のときに英文科を選んでいるのは事実ですし、あるいは、いくつか手がけた出版事業のなかで大いに成功したと言われているのが『トルストイ全集』刊行だっだりします。こういう人の名前を冠しているわけですから、その文学賞が多少なりとも国際的な側面をもっていたって、バチは当たらないでしょう。

 ……と言いながらも、昭和のはじめに直木さんが外国を取材した、と現在の感覚で言ってしまうのは語弊があるかもしれません。最初の旅行は、まだ日本が占領するまえの満洲地方。2度目は、欧米および日本がヒトの国土をめぐって鞘当てを繰り返していた頃の中国・上海。いずれも日本がよそさまの生活を侵してまで自国の政治・文化を広げたいと思っていた時代に、身近にあった隣国です。

 そのころ、といいますと1920年代後半から30年代、直木さんは大衆文芸作家として急激にマスコミで名前が売れはじめていました。とくに彼を有名にしたのが、軍部と密接にくっついたファッショ主義の持ち主という側面です。左傾ではなく右傾、とそういうことになっています。

 昭和5年/1930年、直木さんは一世一代の代表作「南国太平記」を新聞に連載して、ついに流行作家の地位にのぼりますが、このころ日本国内で話題になっていたことといえば、満洲に対する日本の政策(あるいは日本人たちの向き合いかた)でした。欧米列強に遅れまいと、必死に満洲への進出をすすめる日本。一般的には賛否両論があったようですけど、知識層ないし文学者の方面では「こういう帝国主義的な他国への侵略は悪だ」という認識があったみたいです。ごもっともです。

 しかし直木三十五という人間の、ちょっとイタイ性格が、ここで過敏に反応します。なんといっても生まれついてのアマノジャクです。世間で良識だと見なされる考えかたに対して、つい逆張りしてしまう直木さんの言動は、これ以外にもいくつも見られますが、満洲に関しても例外ではありません。偉そうな奴らは、侵略するのは悪いことだと言う。だからこそ、おれはそんなことはない、と言ってみせる。……というような発想です。

 昭和5年/1930年10月、満洲を1週間ほど旅行し、翌年にはその取材をもとに「村田春樹」という名前で、いわゆる架空戦記物に属する「太平洋戦争」(『文藝春秋』昭和6年/1931年2月号~8月号)を発表します。村上春樹じゃありません。村田春樹です。

 伝えられるところによりますと、直木さん自身は昭和5年/1930年~昭和6年/1931年当時の世界と日本の情勢を自分なりに分析し、きっとこういうことが起きるだろうと予想して書いたにすぎず、別に自分の政治思想をそそぎ込んで世に広めよう、といった感覚はなかったそうですが、流行作家の直木が戦争物を書いたぞ、右傾化しているぞ、と言われてしまいます。そこで、はあすみません、僕の書き方が悪かったですね、などと殊勝に引き下がらないところが直木さんの面目躍如たるところで、うるせえな、ファシストぐらいいつでもなってやらあ、と受けて立って、翌年に「ファシズム宣言」をぶっ放します。それでまた世間がワッと沸く、という展開です。

 こういう流れを見ても、直木さんに何か一本芯の通った立派な理念があったとはとうてい思えません。ハッタリとその場しのぎです。もしも文学賞というものが、例外なく尊敬されるべき人物の名前を冠しなければいけないものだとしたら、この人など、まず文学賞として語り継がれるにはふさわしくない人でしょう。

続きを読む "直木三十五、日本が迎える未来のことを書きたくて、満洲や上海を旅する。"

| | コメント (0)

« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »