太田俊夫、カメラの卸商になって中国大陸で仕事をした経験が、50代後半で熟成する。
大正2年/1913年に宮崎県で生まれた太田俊夫さんは、まもなく東京に移り住んだので、出身地は「東京」ということになっています。
直木賞の創設が昭和9年/1934年ですから、もうそのときには立派に成長して21歳。けっこうなお年頃です。区役所の税務係として働いていたといいます。
そのころに一度小説を書いたことがあり、大衆雑誌の懸賞に応募したところ、入選の賞金10円をもらったそうです。いまさら太田俊夫の文学的履歴を調べようという奇特な人はいないかもしれません。でも、もしいたら、いつ何という雑誌の懸賞で入選したのか、教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。
太田さんのインタビュー(『商工ジャーナル』昭和62年/1987年6月号)で語られるところでは、太田さんが入選したのは、丹羽文雄さんが文壇のなかで急激に注目の存在にのし上がっていた時代らしいです。というと、ちょうど直木賞ができた直後ぐらいなんでしょう。雑誌に載った作品を丹羽さんに見せてみたら、こてんぱんにケナされてしまい、それから太田さんは小説の筆をとる気が一気に冷めます。
以後、昭和43年/1968年ごろまで30数年、いっさい小説を書く気持ちにならなかったという太田さんが、直木賞の候補に挙げられたのが第68回(昭和47年/1972年・下半期)のときです。もちろんそのころには、直木賞を創設したときの理念なんてものは、いろいろな事情で波にさらわれ、ほとんど別モノのような文学賞に変貌していましたが、候補当時ですでに59歳、太田さんの自慢(?)のひとつは、直木三十五さんをじっさいに見たことがある、というものでした。
『経済界』昭和48年/1973年3月号のエッセイ「直木賞候補」によると、直木さんを見かけたのは太田さんが少年のころ。戦前の銀座では有名だったカフェ「銀座パレス」の向かいの道あたりを、ふらふらと倒れそうになりながら歩いている直木さんの姿を目にとめます。少年の目から見て、あっ、直木三十五だ、と顔のわかる作家だったということなのか、はたまた太田さんのハッタリなのか、よくわかりませんけど、直木さんと同時代の空気を吸った人が、けっこうな人生経験を積んだ末に小説を書きだして、この作家の名を冠した文学賞の候補になった、ということです。
若いうちの経験は何でもしとけ、……というありきたりな感想しか浮かびませんが、20代から30代にかけての太田さんは、小説から離れて仕事に明け暮れます。日本橋で病院を経営していた叔父がいて、彼からのアドバイスで区役所をやめて、カメラの卸し商に転職すると、口八丁手八丁でものを売って利益を得る世界に魅力を感じ、険悪な国際関係にあった中国に渡って青島、上海、南京などでカメラ商人として青春の日々を謳歌しました。
のちに太田さんが『文学者』に発表する短編連作「暗雲」は、物語のはじめ区役所に勤めている押見亮太が主人公です。それが役人の世界からオサラバしてカメラ売買に身を移し、日中間の、あるいは第二次大戦の戦局が激化するなか、中国大陸に商業拡大の場所を求めて海を越えます。というこの展開は、まるまる事実そのままと認められるわけではないですけど、かなりの部分で太田さんの経験が活かされたものだと思います。主人公や周辺人物の造詣や言動は、まもなく日本の出版シーンをにぎわせることになる冒険小説を連想させます。
太田さん自身は、その後日本に帰って映画制作に関わったりするうちに、召集令状を受け取って、ふたたび中国に送られます。日本と中国。当時、兵士にさせられるぐらいの年代だった男性にとって、中国(満洲含む)での体験がそれぞれの人生を変えたと思いますが、直木賞という文学賞だけ見ても、それは同じです。戦後、その体験がきっかけで小説を書き始めたり、あるいはもとから創作をしていた人が海外戦地体験を書いたりします。それら強大な潮流が文芸、小説、読み物に流れながれて拡大し、昭和20年代以降、直木賞の場に侵食していきます。
たとえばそこで、太田さんだって再び小説を書いてもおかしくなかったはずです。しかし書きませんでした。人生を賭けるなら、おれは商売の道だ、という信念と実感のなかで生きていたからです。昭和21年/1946年に復員してすぐ、かつてから知り合いだった笠井正人さん、宮尾芳房さんと3人で、カメラのフィルターを扱う会社を立ち上げます。「ワルツ」です。
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