皆川博子、「時代小説で直木賞をとった」レッテルから脱して、自分の好きな世界を描く。
皆川博子さんといえば何といっても海外です。ヨーロッパです。……などと、断言してしまっていいのでしょうか。皆川さんの海外モノはたしかにインパクトがあって強烈に印象に残る、だけどそれだけの作家とは言い切れない、その感じがまったく果ての見えないこの作家の幅広さです。
そう考えると、この人の名前が受賞者リストにあるだけで、どれだけ直木賞が救われていることか、対外的な影響は計り知れません。一般に直木賞には漠然とした傾向があると言われ、少なくとも構成が整っていて、文章のただずまいとストーリー展開のバランスがとれた、従来のオーソドックスなかたちにハメ込めるタイプの小説が、賞全体の基本をなしています。そこがいまいち、直木賞という賞の突き抜けない原因ともいえますし、いつの時代もトガった文芸に傾倒する一派から馬鹿にされつづけてきた所以でしょうけど、たしかに数ある皆川さんの小説のなかで、よりによって授賞作を『恋紅』にしたことを見ても、この賞に向ける不満が世に絶えないのもよくわかります。
しかし、受賞させるか落選させるか、文学賞の価値はそこだけにあるわけではありません。どんな人の何という作品を候補に選んできたか。その履歴を刻々と資料として残す文学賞は、いっときの盛り上がりを超えた大きな枠組みのなかで、後世の読者に対しても小説の幅広さを示してくれます。その点、直木賞の候補選出の道のりは、まだまだ対象が狭くて物足りない人もいるでしょうが、けっこう面白い選球眼です。
皆川さんがはじめて直木賞の候補に挙げられたのは、第70回(昭和48年/1973年・下半期)のことです。『小説現代』の新人賞を受賞してまもない新人中の新人時代のときでした。候補となった短篇「トマト・ゲーム」は、東京に舞台を設定し、描かれる時代は書かれた当時から見た「現在」、あるいはさかのぼっても20数年前で、戦後に米軍キャンプが駐留し、そういう環境のなかで生活を送ってきた男女が登場するという、いわゆる現代ものです。
現代の世相を小説に映し取ろうというときに、日本人ばかりが出てくる日本人の社会を選択しなかったところに、すでに皆川さんの国境を超えた人間たちへの興味が現われている、といってもいいかもしれません。それから3年後の第76回(昭和51年/1976年・下半期)、今度は書き下ろしの長篇小説でふたたび直木賞の候補に選ばれ、もう一歩、海を越える皆川さんの作家性があらわになりました。
それが『夏至祭の果て』(昭和51年/1976年10月・講談社刊)です。江戸時代初期の、禁教政策で社会的な圧迫を受けながらそれぞれの信仰と向き合うことを強いられたキリシタンたちの物語です。
ものの本によれば、というかご本人の書くところによれば、子育てに一段落ついた皆川さんが、それまでの膨大な読書経験を経て、なにか物語を書いてみようと思い立ったとき、強い関心をもって選んだ題材が、隠れキリシタンや殉教者たちのことだった、と言います。
ひとりの大人が何かに興味をもつ理由は、いろいろあると思います。どうしてそこに注目したのか。そんなことをいちいち突っ込んでいったら答えは無数に出てくるでしょうし、本人も含めて正解を割り出すことなど、ほとんど不可能でしょう。じゃあどうして、うちのブログではそこに触れようとするのか。……この理由もまた、ワタクシ自身ですらよくわかりませんが、もはや直木賞とそれに関連する人たちのことをあれこれ考えるのが面白いから、としか言いようがありません。
それで、キリシタンものの『夏至祭の果て』が直木賞の候補になって約1年後に、なぜキリシタンものを題材に選んだのか、皆川さんが語ったのは、こんな理由です。
「極限状態に直面したとき、人は、いやおうなしに自分の赤裸々な姿をみせつけられる。十数年前、はじめて小説に手を染めたとき、切支丹と禁教という素材に食いついたのは、その苛酷な状況が、人間をうつし出す鏡として、何より魅力的に思えたというのも理由の一つだった。敗戦によって大人から与えられる価値観が一八〇度逆転した少女期の精神体験も、その上に重ね合わせられた。」(『旅』昭和53年/1978年3月号 皆川博子「切支丹の島・生月の“お誕生日”」より)
昭和20年/1945年にやってきた日本の敗戦という、自分自身の体験とからませています。
幼少時代から古今東西問わずに物語に親しみ、人間たちが表に見せる顔とは別のものとして、負の感情の渦巻く心のうちがあることをさまざまな作品から吸収しながら育った皆川さんは、その過程のなかで西洋の作品にも数多く接します。戦中、戦後と本を読まなければ暮らしていけないぐらいの読書家として育ち、進学先には東京女子大学の英文科を選択、しかし健康上の理由から志なかばで退学すると22の年には結婚して家庭に入ったそうです。
ちなみに「医学と超能力と」(平成8年/1996年3月・中央公論社刊『私の父、私の母PartII』所収)のほか、いくつかのエッセイによれば、インチキくさい霊媒を本気で信じていた父、塩谷信男さんの命によって子供たちも強制的に交霊会に参加させられ、「お筆先」の役をやらされ、それがイヤでイヤで仕方なかったのに、親には絶対服従という家風のなか、ほとんどそこから逃げ出すように結婚生活に入り、親の束縛を断ち切るために、そうとうな苦労を重ねた、といいます。
そういった現実の生活を送るなかで、キリシタンの受けた過酷さに一種の興味と魅力を感じてしまったというのは、読書というのは恐ろしいなと言いますか、わざわざ皆川さんの例を引くまでもないかもしれません。小説をはじめ種々雑多な本を読むことで、日本という国を飛び出す気分を、たぶん多くの人が味わったことがあるでしょう。
『夏至祭の果て』で皆川さんが二度目の候補になった当時、まだこの作家に無限の蓄積や、次々と読み手を別の世界に連れていける視野の広さがある、というような印象は持たれていなかったと思います。そういう先々の可能性を、だれも気づかないうちにいち早くとられることができれば、それは文学賞としてはカッコいいところですが、残念ながら直木賞は、早い段階から新人賞に求められる発掘機能を放棄してしまったので、新人のころの皆川さんを引き上げることはできませんでした。
○
とりあえずうちのブログには、だれか作家や人物、ときどき小説作品を媒介にして直木賞のことを考えていきたい、という目的(?)があります。あまり皆川さん自身のことに触れていてもキリがありませんし、直木賞のことにハナシを移します。
『夏至祭の果て』が候補になった第76回直木賞は、三好京三さんの『子育てごっこ』と、三浦浩さんの『さらば静かなる時』の2つが最後の最後まで競り合い、けっきょく旧来の「文芸的なもの」から脱却できない批評が少しだけ上回って前者への授賞が決まりました。皆川さんの作品は、源氏鶏太さんが褒め、川口松太郎さん、村上元三さんがケナし、他の委員は評を残さなかったという、選考会のなかでも低位の評価で終わります。
『皆川博子コレクション2 夏至祭の果て』(平成25年/2013年5月・出版芸術社刊)の「編者解説」のなかで日下三蔵さんは、「その際の反応は、まさに「面白過ぎる文学作品」に対するものの典型であった。すなわち無視である。」と説明していますが、いやいや、選評で無視されるという反応は、まったくつまらない候補作に対する典型でもあります。面白すぎる作品は「面白すぎる。しかし文学ではない」と選評に書かれるのが、直木賞における典型じゃないでしょうか。私見では、このときの反応は、その作品が面白すぎたかどうかは関係なく、ただ時の委員たちの感性にハマまらず、眼中に入らなかっただけだと思います。
以来約10年。徐々にジャンルの型にはまらない皆川さんの不思議で艶のある作品が世に送り出されるうち、ひさしぶりに直木賞の候補に選ばれた『恋紅』で第95回(昭和61年/1986年・上半期)を受賞します。このころの直木賞は、だいたい第二次「女性と直木賞」ブームをマスコミが煽り立てていた時期にあたり、こういう光の当て方しかできないから直木賞(をとりまくジャーナリズム)は馬鹿にされてしまうんですが、受賞作がたまたま江戸時代を舞台にした時代小説だったため、受賞者の皆川さんにはこぞってその系統の注文ばかりが押し寄せ、本人はほとほと辟易、という状況が訪れたそうです。
違う。私はそればっかり書きたいわけじゃない。と、直木賞のクビキから身をかわして皆川さんの心の向かった先は、海の向こうの海外でした。
「初めて皆川さんにお目にかかったのは、一九九〇年のはずだ。そのころから、ドイツを舞台にした書下ろしの話は聞かされていた。中世と第二次大戦中と現代の三つの時代を背景に、カストラートが出てくるらしい。当時の皆川さんは、意に添わぬ現代ものの小説を書くのを止め、さほど意に添っているわけでもない時代小説(例外は『妖櫻記』くらいではないか)の連載を、次から次へとこなしていた。私はもっぱら芝居の案内係だったが、会えば出てくるのは、ドイツの書下ろしの断片的な話であり、その執筆の時間がとれないという話であった。」(平成30年/2018年5月・河出書房新社刊『皆川博子の辺境薔薇館』所収 小森収「ツキにツいた取材旅行」より)
ナチス統治下のドイツに物語の舞台を求め、じっさいに取材に行き、『死の泉』(平成9年/1997年10月・早川書房刊)以降みごとに、泰西幻想伝奇の世界を創作のうえで展開させてしまいます。
いったい皆川さんの作家的歩みのなかで、アノ直木賞受賞は何だったのか。皆川さん側からの視点は、ワタクシもよくわかりませんが、ともかく直木賞としては、惜しまずに授賞しておいてよかったと思います。望むなら、これからの作家たちの可能性を広げる文学賞、としての姿を見せることができれば、もっとよかったと思います。
| 固定リンク
「直木賞、海を越える」カテゴリの記事
- 五木寛之、旅行先のモスクワで小説の素材に出会い、そこから一気にスターダム。(2020.05.31)
- 藤本泉、西ドイツのケルンで生活を送り、最後に確認された場所がフランス。(2020.05.24)
- 木村荘十、中国を舞台にした「日本人が出てこない」小説で初めて直木賞を受賞する。(2020.05.17)
- 深緑野分、「日本人が出てこない」小説に対する直木賞の議論に新地平を切り開く。(2020.05.10)
- 伊藤桂一、中国での戦場体験をプラスに変えて直木賞を受賞する。(2020.05.03)
コメント