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2019年12月 8日 (日)

虫明亜呂無、フランス語由来の名をもつ男が、ヨーロッパを旅して日本のことを思う。

 映画のことやスポーツのことを書くうちに、やがて独特な小説世界を開花させた虫明亜呂無さんは、東京生まれの東京育ち、生粋の江戸っ子です。

 しかし彼の文章のまわりには、せまい日本を覆う窮屈な感覚を飛び越えて、ワールドワイドな風合いが明らかに漂っています。何といっても、名前が名前です。亜呂無(あろむ)。相当、日本人離れしています。

 本人によると、この本名は父親がつけたものだそうで、父は二科会、円鳥会と移りながら萬鉄五郎さんに師事した大正時代の洋画家。おそらく虫明柏太さんのことです。西欧の絵画にのめり込んだ父親は、ヨーロッパ熱が高じすぎたのでしょうか、9月に生まれた息子に、菊が香るのイメージから芳香を意味するフランス語「アロム」の名をつけてしまったのだ、といいます。もしかすると、尊敬していた萬鉄五郎の娘さん「馨子」から拝借したのかもしれないな、というのが亜呂無さんの説です(『文藝春秋』昭和43年/1968年11月号「わが名はアロム」)。

 ともかく亜呂無さん自身は、もっと平凡な名前がよかったなあと思いながら、日本という国や歴史に対して関心を深めていった……ようにも思えるところ、一方では西欧のものも同じくらいに好きになって、大学では仏文を専攻。日本とか日本以外だとか、そういう壁をつくらない意識のなかで、貪欲に内外の文化を享受し、やがてそれを伝える立場に身を置くようになります。

 いったいに虫明さんは、幼い頃からひとりでぶらーっと遠くに出かけるのが大好きで、その性格は年を経ても変わらなかったようです。いや、むしろ成長するにつれて放浪の傾向は強くなるばかりだった、と言っています(『月刊教育の森』昭和54年/1979年3月号「放浪へき」)。遠くに行く。何の理由もなく、ただただ家を離れて遠くに行く。東京を出て、日本を出て、異郷をさすらうそのことが、何の理由もなく心地よい、という感覚です。

 それでハナシは一気に飛びまして、虫明さんがユニークなナンデモ評論家から小説を書き出す時代に行くんですが、もうすぐ50歳に差しかかろうかという中年の頃。「小説がいちばん自分のいいたいことがいえますからね。」「今まではその準備のようなものにすぎません。」(『競馬研究』1351号[昭和45年/1970年4月])とインタビューで答えていて、「抒情と感情で語る評論家」の皮を脱いでいよいよ小説に向かうのは、虫明さんのなかでは自然な流れだったと言えるでしょう。

 このとき虫明さんが数多く手がけることになったのが、スポーツにまつわる人間たちの物語です。それがもう新風、新鮮にふさわしく、みずみずしくて先鋭的。虫明さんの切り開いた地平を起点にぞくぞくと、読んで面白い、対象人物に肉迫したスポーツ・ノンフィクション作品が日本で生まれていくことになった……と言われるぐらいですから、その素晴らしさには打ち震えますが、とりあえず他の文学賞の顔をうかがうことなく、虫明さんの小説を候補に挙げた当時の直木賞も、なかなかのものだと思います。

 第80回(昭和53年/1978年・下半期)といえば、いまから見るとちょうど直木賞の歴史の中間あたり。約40年ほどまえですから、そこまで昔ではありません。

 しかし、その候補作は『シャガールの馬』(昭和53年/1978年10月・講談社刊)という作品集に収められた「シャガールの馬」その他である、という記録が残っているいっぽうで、当時の文献には「シャガールの馬」「アイヴィーの城」「海の中道」の3作品だ、と報道されているものもあり(『日本読書新聞』昭和54年/1979年1月29日号)、まあ正確なところはどっちでもいいじゃないかというこの賞の鷹揚さ(もしくはいい加減さ)が垣間見える時代です。どっちでもいいのかもしれません。

 オビにある「収録作品とテーマ」の記述を、そのまま並べると、「海の中道」―マラソン、「連翹の街」―サッカー、「黄色いシャツを着た男」―プロ野球、「タンギーの蝶」―プロ野球、「アイヴィーの城」―テニス、「ふりむけば砂漠」―陸上競技、「シャガールの馬」―競馬、「ペケレットの夏」―ボート、ということになります。スポーツを扱った小説集であることはたしかなんですけど、声なき声のように、この一冊から国際的な香りが漂ってくるのは、やはりその何篇かの舞台が海外だからです。

          ○

 表題作の「シャガールの馬」は、中山競馬場から話が始まりますが、主人公の伊能がヨーロッパ各国の競馬関係者を相手に商売をしている人物なので、ヨーロッパの場面も描かれます。日本を舞台にしているようで、競馬というスポーツを介して海を越えている小説です。

 ちなみにこの作品が採録された『現代の小説 1971年度後期代表作』(昭和47年/1972年3月・三一書房刊)には、「作者のことば」が併載されています。具体的にこの作品の成立過程でも語っているのかと思ったら、こんなことが書いてあります。

「ヨーロッパの街や、農村で、私は日本を思った。

街も、村も静かすぎて、日本を思うよりほかなかった。

繁栄という名の貧困、と、いう言葉がある。日本はこの言葉で象徴されていると思われた。

(引用者中略)

日本の風俗へのプロテストが、しいて言えば、この作品のモチーフである。「脱風俗」「脱貧困」の素材として、ブームに狂奔している競馬をとりあげた。」(『現代の小説 1971年度後期代表作』所収 虫明亜呂無「作者のことば」より)

 モチーフというのは恐ろしいものです。作者本人にご丁寧に教えてもらっているのに、この一作を読んで、とてもそんなところから生まれた物語とは思えません。しかし、ヨーロッパや海外に旅に出て日本を思う虫明さんの心の動きは、たとえばスポーツと恋愛を主題に仰いだという『ロマンチック街道』(昭和54年/1979年5月・話の特集刊)などにも、ところどころに現われています。

 「アイヴィーの城」などは、舞台そのものがテニスの聖地ウィンブルドンで、『現代の小説 1972年度前期代表作』(昭和47年/1972年8月・三一書房刊)の「作者のことば」にウィンブルドンでの取材体験が書かれているのは当然なんですが、やはりそこにあるのは、海外に来て改めて日本(および日本人)のことを思う虫明さんの姿です。

「ウィンブルドンのテニスは、世界的なフェスチバルである。人びとは、おおらかに、深緑の祭をたのしむ。酒とバラの季節である。

そのなかに身をおくと、日本人の孤独が感じられる。「祭から遠くはなれて」という意識である。」(『現代の小説 1972年度前期代表作』所収 虫明亜呂無「作者のことば」より)

 ということで、虫明さんの最初で最後の直木賞候補作は、スポーツ物であると同時に、海外に出たことから生まれた、世界のなかの日本をあぶり出す国際派の小説集でもあったわけです。しかし虫明さんの筆の運びがあまりにうますぎて、すいすいと面白く読めてしまえるせいか、何かと小難しいことが大好きな文学賞の選考の場にはうまくハマらず、五木寛之委員を除いて、みんなサラッと受け流してしまいました。それもひとつの評価でしょう。とりあえず、候補に残した文藝春秋編集者の感覚だけでも、よしとしたいところです。

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