今井泉、青函・宇高の連絡船勤めから「海の人間」としての作家人生をまっとうする。
つい先日、令和1年/2019年11月11日のことです。岡山県宇野と香川県高松を結ぶ、いわゆる宇高航路のフェリーが今年の12月で定期運航をやめる、というニュースが流れてきました。人間の暮らしや社会の基盤はめまぐるしく変化しますから、瀬戸内を渡る方法がこの何十年間で劇的に変わるのも、当然といえば当然です。そう考えると、いまだに80ン年前の仕組みにしがみつき、いつまでもえんえんとやっている我らが直木賞も、この先いつどこで終焉を迎えたっておかしくありません。ドキドキしながら見守りましょう。
それはともかく、いつもどおりに強引に進めると、宇高航路と直木賞。この組み合わせを出したら、今井泉さんを取り上げないわけにはいきません。日本中の人が許したとしても、神が許しません。
日本でも(おそらく)有数の港町、高知市に生まれた今井さんは、土佐中学から丸の内高校を経て、神戸商船大学の航海科に進みます。昭和33年/1958年、卒業とともにどうにかこうにか国鉄への就職が決定。配属されたのは青函連絡船です。以来、青森と函館をつなぐ海上の往来で、ときに危険に遭ったり、ときに人の情に触れながら順調にキャリアを積んでいき、同航路の船長になったのが昭和45年/1970年、45歳のとき。その前後あたりから、ちょっと文章でも書いてみるかと、国鉄文学会北海道支部の発行していた『国鉄北海道文学』に参加したところ、今井泉ってずいぶんいい文章を書くじゃないかと、メキメキ注目を浴びるに至ります。函館文学学校に通ったり同人誌『晨』に加わったりするあいだ、函館市民文芸に一席入選するは(昭和52年/1977年)、国鉄文芸年度賞に一席入賞するは(昭和53年/1978年、昭和54年/1979年)、なかなかの大騒ぎです。
とにかく今井さんの書く小説は、基本的に海上を行き来する船の物語、もっといえば船長が出てくるところに特徴がありました。その点、広がりはあまりありませんが、いいじゃないか、船員だって一人の人間にすぎないんだから、それを軸に小説を書いて何が悪い、と言わんばかりの頑固さで、現役の国鉄連絡船船長という得がたい肩書きをひっさげたまま、コツコツと創作を続けます。
11年間、青函で船長を務めたあと、今度は郷里にも近い宇高連絡船に移って、そちらでも7年間、船長生活を送りますが、汗水たらして働きながら小説を書く、というのはもはや今井さんの日常になっていたらしく、香川菊池寛賞(昭和57年/1982年度)を受賞してからは、商業誌にも進出。昭和59年/1984年に『別冊文藝春秋』167号に「溟い海峡」を発表すると、おっとびっくり、これがいきなり第91回(昭和59年/1984年上半期)直木賞の候補に選ばれます。ただそれは、直木賞が『別冊文藝春秋』を出す文藝春秋がやっている賞だったからで、それほどびっくりではなかったかもしれません。
文学賞とはいったい何のために存在するんでしょう。作家や編集者たちが定期的に盛り上がることを目的として、お金に余裕のあるところでとりあえず惰性でやっている、という側面は否めません。しかし、出版を商業ベースでやっている企業体として、事業を長く継続させるには、つねに先のことを考えなければいけないので、新たな人材を見つけること、見つけた人材のケツを叩いて物書き道を邁進してもらうことは、重要な仕事のひとつです。その意味からも、文学賞というのは有用な装置です。
同人誌出身だから、ということもないでしょうが、今井さんの書く小説は、事件性よりもぐっと人情に、あるいは人間に対する信頼感に寄った文芸臭のする、はっきり言って地味なものばかり。こういうものを直木賞がすくい取っても別に文句はないはずですが、直木賞は新人発掘以外の、もろもろの機構が入り組んだ、訳のわからなさを備える文学賞でもあり、このときは今井さんに光を当てることはできませんでした。その後、同じく文藝春秋が噛んで開催されていた、将来への先行投資型のちょっと大きめの賞、サントリーミステリー大賞のほうで今井さんに職業作家への道筋をつけることができたので、それはそれでよかったと思います。
ときは前後して昭和63年/1988年の春に、青函と宇高の連絡船が廃止となり、それを機に今井さんは船長を退任、筆一本の生活に入ります。年齢でいうと52歳から53歳のころ。専門的な知識もあり、人と違ったさまざまな経験をして、文芸修業の道も歩んできた今井さんの前途は、おそらく明るいものがありました。
そういうなかで、第109回(平成5年/1993年・上半期)にもう一度、今度は文藝春秋から出た単行本『ガラスの墓標』で候補に挙げられます。基本的には、昭和50年代から60年代、まだ今井さんが船長を務めていた頃の『別冊文藝春秋』掲載の旧作をまとめたもので、これも直木賞(文春)だから候補に選ばれたんだ、と言うしかない類いの候補作です。
本選では結局落選して、鈍い光を放つシブい候補作というところに落ち着きますが、やはり何といっても特徴は、海、海、そして海。日本に生きている以上、船乗りなんて何も特殊な存在ではない、というぐらいに海の上に生きる人間たちの、陸のほうでの生活と事件をからめた作品ばかりが並んでいることでしょう。
○
収録4作のうち、「溟い海峡」は一度直木賞候補になっているので、どうやら選考にはかられたのは残りの3作「ガラスの墓標」「道連れ」「島模様」らしいですが、「海を越える」感の最も強い漁船モノ、というと「道連れ」の一作です。
遠洋漁船に乗って約30年、いまは船長となった高知の男、松村は妻に先立たれ、日本に息子がいます。しかし、いつものように南アフリカに船を出していた最中、その息子がバイク事故で死亡。帰国した松村はこれから生きていく気力を失い、酒におぼれる毎日です。折りも折り、酒場でたまたま出会ったバイク乗りの4人の若者と会話を交わすうちに、世間知らずで口先だけは立派なこの連中をしごいてやるか、とひらめいて、松村一世一代の金儲けバナシを持ちかけてみます。それは船を盗み、香港から高級時計やひすいの装飾品を仕入れて日本に持ち込む、いわゆる密輸の計画でした。
直木賞選考の対象になった3つのうち、この「道連れ」に注目して選評を書いたのが、井上ひさしさんと藤沢周平さん。いっぽうで渡辺淳一、平岩弓枝の二人は、「島模様」をよしとします。いやいや表題作の「ガラスの墓標」がいちばんいいじゃないかと言って、黒岩重吾さんは今井泉さんへの授賞を主張しましたが、最終的にいま一歩の迫力が足りなかったか、受賞の枠にまでは入りませんでした。
このとき、落選の報を聞いて地元の高知新聞社が取材した今井さんの反応が残っています。出版や文芸とは違う、別の世界で自分の仕事をこつこつ蓄積してきた人だけあって、直木賞(にまつわる過熱報道)みたいなくだらないものにも動じませんし、そのうえでしっかりとコメントを返す寛大さも備えています。さすがです。
「直木賞では「ガラスの墓標」を強く推す声があったと聞き、「さあ、次にもういっぺん候補にならなくちゃね…」。今井さんは、快活な笑顔を浮かべる。
船の仕事に携わってきて、人の命をめぐる現実のドラマをたくさん見てきた。材料も豊富にあるという。
「そうですね…、人と人との温かいふれあい、人情の機微、そんな小説を書いていきたい。情感のこもったものを、ね」」(『高知新聞』平成5年/1993年7月30日「第109回直木賞候補に上った 今井泉さん(高知市出身 高松市在住)」より)
この地道さ、あるいは地味さは、直木賞が根っこにもつ賞そのものの性質に通じるものを感じます。けっきょく今井さん自身はその後、候補に挙げられることはありませんでしたが、海と縁ぶかい人たちの姿をミステリーの体裁を借りて書きつづけ、一本芯の通った作家人生を築くことに成功しました。時代の波っていうのは、だいたいいつも荒波です。そのなかで直木賞も、いつか力尽きるそのときまで、一本の芯を通した文学賞であってほしいと思います。
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