岡本好古、アメリカでの生活を夢見てン十年、ベトナム戦争を題材にして作家として立つ。
作家になりたい。目利きの人に認められてデビューを果たし、筆一本で生活していきたい。……世の中には、そんな夢を追う人がいます。
夢はあきらめずに追うのがいいと思いますが、ワタクシは単なる直木賞好きでしかないので、基本的に無関係です。しかし「直木賞のすべて」とか「文学賞の世界」とか珍妙なサイトをやっていると、そういう人から時どきメールをもらいます。だいたい用件は「あんたが誰だか知らないけど、とにかくおれの書いた小説はすごいから、出版を世話してくれないか」みたいなものです。こちらが微力すぎて、ほとほと扱いに困ります。すみません。
基本的に無関係、と書きましたけど、直木賞の逸話を追っていると、受賞者や候補者のなかにそういう夢を追いつづけてデビューした作家が、ちらほら見受けられることも事実です。
今回取り上げる岡本好古さんも例にもれません。作家を志してからコツコツと原稿用紙のマス目を埋め、同人誌に参加しながら、数々の新人賞に応募して吉報を待ちますが、落選につぐ落選の連続。受賞発表号の雑誌を本屋でめくり、自分の名前のないことに歯噛みする、そんな経験をえんえんと続けます。だいたい20代のはじめごろから18年間の苦行だった、と言いますから、なかなかの夢追い人です。
へとへとになりながら、しかし昭和46年/1971年7月末日締め切りの第17回小説現代新人賞のために、一篇を書き上げたときは、これまでとは違う自信作ができたという感覚があったといい、応募するそばから、これは何だかとれそうだと予感がしたそうです。だいたい、こういう回想は後付けですので、ホントかよ、と突っ込みたくなるところではありますが、岡本さんの応募作は予選をどんどん通過して、ついには受賞にまで輝きます。若かった岡本さんもいつの間にか、妻と2人の子供を養う40歳のおじさん世代になっていました。
この受賞作「空母プロメテウス」は、『小説現代』12月号に掲載され、途端に話題になったらしいです。何といってもいまとは違って『小説現代』だけじゃなく数誌の中間小説誌が文芸界の天下をとるんじゃないか、と鼻息あらく暮らしていた頃のおハナシです。
そして、これもいまとは違って、雑誌に掲載された小説が世間で(というか、中間小説誌の編集者たちのあいだで)話題になれば、そのまま直木賞の候補になることも珍しくありませんでした。『小説現代』の新人賞というのは、『オール讀物』のそれと張り合って年に二回開催し、それなりに活躍する人材が輩出していましたが、岡本さんの受賞作は、この半期を対象にする第66回直木賞(昭和46年/1971年・下半期)の候補作に挙げられます。小説現代新人賞の受賞作としては、第6回(昭和41年/1966年)の五木寛之さん「さらば、モスクワ愚連隊」以来、およそ5年半ぶり2度目の事態。それだけでも本作がどれだけ編集者たちに衝撃を与えたか、うかがい知れるところです。
ということで、どちらかといえば純文芸の方面で作家修業を続けていた岡本さんが、小説現代新人賞をとり、直木賞の候補になった「空母プロメテウス」は、まだ当時、交戦状態にあったベトナム戦争のひとまくを描いています。舞台は、アメリカ・サンディエゴからベトナム沖トンキン湾にいたる洋上。語り手は日系アメリカの軍人で登場人物は空母に乗り込んだアメリカ軍人たちです。思いっきり海を超えた物語です。
岡本さん自身は、戦争の現場を知りません。生まれたのが昭和6年/1931年の京都。軍国主義のもとで少年時代を送りますが、終戦のときにはまだ13歳でした。出征経験はありません。
それでハナシはズレますけど、岡本さんの履歴をもう少しだけ追うと、2歳のときに父親を喪い、母親に女手ひとつで育てられたそうです。家にはずっと寝たきりの祖母が同居していた、とのこと(昭和52年/1977年8月・酣燈社刊『歯に衣を着せず』所収「寝たきり十八年の祖母」)。
その祖母というのが、日本映画史に燦然と輝く伝説的な人物、牧野省三さんの姉に当たる明治6年/1873年生まれのマスヱさんだったと言います。ここら辺、天下のwikipediaに何か書いていないかと思って、牧野さんの項目を確認したところ、姉がいたことすら触れられておらず、ちょっと不安になったんですが、『人事興信録』第七版(大正14年/1925年8月刊)には牧野さんの姉マスヱさんの記述があるので、たしかな事実でしょう。要するに岡本さんは、藤野齋さんの曾孫であり、牧野省三さんの姪の子供であり、まあ大きくとれば牧野一族の末端に属していて、岡本さん自身は大人になるまでその自覚はなかったけど、いずれ文学を志す血が知らず知らずのうちに流れていたのだ、と書いています。ホントかよ、という感じです。
○
ハナシを戻します。
少年時代、着々と戦時下の教育を受けた岡本さんですが、すでにその頃から海外に対する憧れというか、冒険心をかき立てられ、英語からスペイン語、フランス語などなど、ひとり語学の勉強を欠かさない勤勉さを見せます。若いころだけではありません。職業作家になるまでの岡本さんの職歴に、アメリカ駐留軍での通訳とか、欧文タイプ業とか、海外の風が吹き込んでいるのは、岡本さんに日本を脱けた海の向こうへの意識がみなぎっていたからと見ていいでしょう。
後年、成長した娘さんといっしょに雑誌に登場したときには、自分が10代のころにどんな夢を持っていたか明かしています。
「十代のころ、当時『世界に冠たる富裕と自由と文化優遇の大国』アメリカに留学して、英語のほか数ヵ国語を習得後、語学の教師になって、彼の地でくらす……というのが、私が抱いた切なる理想であった。(引用者中略)
だが、この遊牧志望も長い歳月の間についえて、揚げ句には、定着民族、なかでもいちばん出無精をきめこむ机上族に落ち着いたが、この夢想を替わって逃げるかのように、長男と長女は雄飛族になった。」(『プレジデント』平成7年/1995年3月号「娘よ!」より)
航空会社にパイロットを目指して入社した息子、大学時代にアメリカに留学して語学もたんまり独学する娘。二人の子供が、自分のかつての夢を実現してくれているのです、と岡本さんがにっこり微笑んでいる心温まる記事です。
というか、商業デビューしてからしばらくの岡本さんは、書く小説、書く小説、だいたい外国を舞台にしたものばかり。紙のうえで存分に海外(と時代)を飛びまわっていたことは間違いありません。子供のころから夢見てきたアメリカやアメリカ文化が、いろいろな時代の変遷をくぐり抜けて、戦艦、戦闘機、その他機械としての兵器を描くというかたちで、創作に結実したかっこうです。それはそれで、岡本さんの長年の思いが現われたことですから、よかったと思います。
さて、岡本さんの商業デビュー作「空母プロメテウス」は、上で触れたように直木賞の候補になりました。すると選考委員の柴田錬三郎さんは、何の理由があってアメリカの海軍のことを書くのか、さっぱり分からんな、とおなじみ感のある酷評を投げつける。源氏鶏太さんは、小説として新しいのか小説以前のものなのか、よく分からん、とお得意の「分からん節」を炸裂させる。と、とうてい好評とは言えない結果に終わります。
直木賞はいつもだいたいこんな感じですが、18年のワナビ生活のうちに、数々の絶望と悲しみを経験してきた岡本さんは、もちろんこんな評で打ちひしがれるほど、弱くありません。直木賞とか文学賞とか、そんな世界からはすぐに飛び立って、自由に数多くの小説を書きつづけることになりました。
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