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2019年11月 3日 (日)

辻勝三郎、中国の戦場にいたせいで、直木賞・芥川賞で同時に候補に残ったことも知らず。

 柳本光晴さんのマンガ「響~小説家になる方法~」の連載が、令和1年/2019年21号[10月11日発売]の『ビッグコミックスペリオール』で終了しました。なにはともあれ、ひとつの小説で直木賞と芥川賞の両方を同時に受賞する、という絵空事を衒いなく描いてくれた作品として、直木賞周辺史にしっかりと刻まれたのは、おそらく間違いありません。

 これまで、ひとつの小説が同じ回の直木賞・芥川賞で、それぞれ最終候補に選ばれた例は、じっさいに4回ある、というハナシは「響」のおかげでさんざん有名になりました。しかしこれを、「ひとりの作家が」と置き換えると、中村八朗さんより前の戦中にもうひとり、直木賞・芥川賞同時候補入りの例が見つかります。それが今日の主役の辻勝三郎さんです。

 ちなみに、何をもって「最終候補作」あるいは「予選通過作」とするのかは、戦中の第20回(昭和19年/1944年・下半期)までは非常にあいまいで、文藝春秋や日本文学振興会が出してきた刊行物でも、時代に応じて微妙に変化してきたぐらい、どれが正解だと見極めるのが難しい問題です。なので「辻勝三郎よりもっと前に、両賞に同時に候補になった人物がいるではないか」とムキになって怒られても困るんですけど、とりあえず、第17回(昭和18年/1943年・上半期)の辻さんの例は、両賞の経緯のなかに確実に予選通過者として名前が出てくる、ということで、おそらく最初の同時候補入り作家だったことにしておきたいと思います。

 辻勝三郎さんが生まれたのは大正5年/1916年7月です。佐賀出身の父親は当時、東京の京橋で米屋をやっていたそうですが、記憶喪失か精神を病んだかしたらしく、辻さんが幼い頃に店を畳むことになって、父だけ郷里に帰されます。その後、辻さんは横浜、大崎と移り、祖父母の家から三ッ木小学校に通いますが、関東大震災のあと、小田小学校に転校。

 卒業すると同時に、呉服屋に奉公に出されたという苦労人で、しかしやがて文学への恋情がおさえがたくなり、17歳のときに奉公先をやめ、本気で小説家を志します。小説を書くためには、もっと経験を積まなくちゃ駄目だと考えた辻さんは、銀座あたりの水商売の店を転々。そうこうするうちに、昭和12年/1937年3月、20歳そこそこのときに満州公主嶺関東軍に現役兵として入隊することになりますが、まもなく「支那事変」というやつが勃発したために、一気に辻さんの人生が変わります。

 ……というような履歴は、辻さんのほぼ実体験が描かれた小説『不完全な魂』(昭和55年/1980年・けいせい出版刊)を参考にしたものです。辻さんが編集者として働いた『モダン日本』の新太陽社のことや、戦後になってそこを辞めたいきさつなども出てきます。辻さんといえば十五日会や『文藝首都』とも関わりが深く、そのころは多少名の知られた作家でしたので、そういう意味での文壇資料といった側面も備えた一冊です。

 ともかく戦後に編集者として、あるいは放送人として活躍を遂げるまでの辻さんは、作家といいますか、現役の兵隊作家として知られていました。

 昭和15年/1940年ごろまで戦闘の前線をひっぱり回され、河北、河南、察哈爾、綏遠、山西、山東と懸命の思いで転々としながら、そんな状況でも作家に憧れてきた辻さんは次々と、実体験に基づく小説を書いては日本に送ります。いったんは日本に帰還し、2年ほど過ごすあいだに『モダン日本』を出していたモダン日本社に編集者として雇われますが、昭和18年/1943年春に再召集、ふたたび兵士として中国に渡ります。

 辻さんには、ほんとは行きたくないのにイヤイヤ戦争に巻き込まれちまったぜ、というような、文学者にはお決まりの感覚があまり見られません。「生れつき運命にすなおなせいか」(昭和45年/1970年7月・創思社刊『戦友群像』「あとがき」)と自分の性格を分析しているように、過酷な状況は状況として受け入れ、そこからどんな小説を生み出せるかを必死に考えてペンをとっていた節があります。これはこれで、物書きとしてのひとつの生きかたでしょう。

 それで辻さんの属していた『文藝首都』は、保高徳蔵さんがやっていた超有名同人誌ですが、ここにどしどし発表するうちに、商業誌の編集者の目にもとまりはじめます。それはそうです。「現地の戦争ものを、兵士の視点から書ける作家」というのは、当時の出版界からすれば欲しくてたまらない人材です。読み物雑誌の『オール讀物』に辻さんが書くことになった由来は、よくわかりませんが、昭和18年/1943年3月号の同誌に「新人傑作」という角書きを附されて「雪よりも白く」を発表。また、同年2月号の『文藝首都』では「雁わたる」が採用され、前者が直木賞の、後者が芥川賞の候補に挙げられることになりました。

 第17回のこの回から、両賞とも選考委員の顔ぶれが一新して、ほのかに戦時体制の影が見え隠れしていた時代です。ただけっきょくのところ、芥川賞のほうで辻さんの作品に言及したのは、欠席した片岡鉄兵さんぐらいのものでしたし、直木賞では「文学派」の代表のような立場で井伏鱒二さんがずいぶん褒めてくれましたが、結果は山本周五郎さんに賞を贈ることで委員の意見は一致。のちに周五郎さんが賞を辞退したので、この回は授賞作なし、という記録で終わっています。

          ○

 辻さんの戦争ものの多くは、じっさいに中国戦線に身を置きながら書いたものらしいです。『戦友群像』の「あとがき」によると、ほんとうはあとで全部書き直して長篇にする構想もあったようですが、なにぶんいつ命を落とすかわからない、大きな目的をもった長旅の最中で、そんな余裕もありません。一作書いては関東軍の報道部に提出、検閲を受けた原稿はそのまま東京の出版社に送られる、ということを繰り返します。

 そのなかでも、直木賞と芥川賞それぞれの候補になった辻さんの小説は、いずれも時期を考えると辻さんが再召集されるまえ、ちょうど日本にいたときに書かれています。せっかく日本にいていろいろ見聞しているのに、自分が中国で戦火にまみれていた頃のことを、思い返して題材にしなければならなかった、というところに、戦記作家辻勝三郎の面目躍如たるものがありますが、それはそれとして、これらが文学賞の候補になって落とされた昭和18年/1943年8月ごろのことを回想した辻さんの文章が残っています。川端康成さんとの縁を語る場面です。

「私が川端さんと知り合ったのは戦後のことだった。話はちょっと古くなるが、昭和十八年上半期の芥川賞候補に文芸首都に書いた私の「雁わたる」が、直木賞候補にオール読物に書いた「雪よりも白く」が候補作品として残ったが、その時私は戦地にいて、そのことは全く知らなかった。昭和二十年に復員してはじめてそのことを知ったのだが、その時の銓衡委員の中に川端さんがいて、後にお眼にかかったとき、その話が出た。」(前掲『不完全な魂』「第三部 別離の章」より)

 あとで山本周五郎さんが受賞決定を反古にするぐらいですから、候補者たちに、あなたの作品を候補にして選考しますよ、などとは事前連絡していなかった時代のハナシです。正確には昭和20年/1945年暮に済南で召集解除され、翌昭和21年/1946年1月に東京に戻ってきてから、あのとき候補になっていたんだってよ、と聞かされたのだと思われます。

 運よく生き残ったからいいようなものの、もし万が一、戦場で散っていたら、辻さん本人は、直木賞・芥川賞同時候補入りという快挙の当事者になったことを、知らずに終わっていたわけです。何とも危ないところだった。……というのは完全に文学賞好きの発想で、おそらく同じ回に候補になったから何なのだと、辻さんはあまり気にしていなかったかもしれません。

 せっかく筆一本で食っていこうと決心して新太陽社を辞めたにもかかわらず、脳性麻痺の娘をもつ父親として心配と不安の日々、自身の作家生活もカネを稼げる段階には行かずにモヤモヤと過ごしていたところ、昭和27年/1952年7月、その娘を事故で亡くす不幸に見舞われます。まもなく請われてニッポン放送に入り、フジテレビ、サンケイ出版局と移りながらサラリーマンとして生きますが、そのあいだ何十年もかかってまとめあげた小説が、実体験をテーマにした『不完全な魂』だった。……というところが、じっさいの戦場体験を書いて文壇で注目された作家らしくて、美しいです。

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