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2019年11月17日 (日)

古川薫、カナリア諸島に出向いたまま、会社に内緒で遊んで暮らす。

 今年のブログは、これまで取り上げた候補者のことはなるべく避けよう。と思って始めたんですけど、今週の古川薫さんは、もはや何度も触れてきた人です。しつこいぐらいです。ただ古川さん自身、10回も候補になった歴史的な人物ですから、直木賞にからむ話題が多いのは仕方ありません。

 といった言い訳はまあどうでもよくて、古川薫さんという人も海外には何かと縁のある作家でした。

 ようやく直木賞をとった『漂泊者のアリア』(平成2年/1990年10月・文藝春秋刊)からして、藤原義江の伝記のテイをとりながら、日本とヨーロッパの文化的な交わりや断絶を前提にしたような作品でしたし、平成2年/1990年には文藝春秋の担当編集者だった岡崎正隆さんに誘われてホノルル・マラソンに参加、そのあとすぐに直木賞を受賞したことから、みずからの道のりをマラソンに例えてみせた、という一件もあります。

 海外紀行と歴史随想をからませたお仕事の集成に『彼方に眠る日本の夢――海の向こうの幕末・維新史紀行』(平成1年/1989年12月・PHP研究所刊)というのがありますし、そういった経験から生まれた創作も数々あります。山口県下関といえば、幕末のころには外国との衝突や交誼に燃えたお土地柄。そこに居を構え、歴史を深掘りしていったことを契機に、おのずと古川さんも海外に目を向ける物書きになった、とは言えるでしょう。いや。もともと古川さんの血のなかに、日本の風土よりもっと広々とした世界に憧れる性格が、多分に流れていたからかもしれません。

 そこで、どうしても触れておかなきゃならない古川さんの海外体験があります。山口新聞社の敏腕記者(?)時代、その仕事でアフリカ方面に取材に出かけたときのことです。

 古川さんがはじめて直木賞の候補に挙がったのは、いまとなっては遠い昔の第53回(昭和40年/1965年上半期)。古川さんもまだ、多くの人を喜ばせるような小説をどんどん書いていこうとは、たぶん思っていなかった時代です。直木賞史のなかで見ると、小説のなかに歴史的な人物や事象が描かれていれば、多少文学臭のするものでも、芥川賞じゃなく直木賞の候補に持ってきてしまえ、というけっこう雑な振り分けが横行していた時代で、この雑さがなかったら、古川さんの直木賞への道も存在しなかったでしょう。いまはともかく、60年代の直木賞には、決まり決まったレールなんてありません。その雑さに付いていけなくなった作家もいれば、古川さんのように救われた人もいた。ということで、だいたいの物事は表裏一体です。

 ともかく、いきなり直木賞の候補になって、新聞社内でも急に白眼視されるようになった……もとい、一目おかれるようになった古川さんは、そうか君は小説が書きたいのか、と社長に言われ、編集局長の職から、わざわざそのために新設された企画室という部署に異動になります。別にそこで仕事をサボッてもよかったんでしょう。しかし古川さんの思考はグルグルとまわり、よし勝手に企画を立てて会社のカネで行きたい土地に行かせてもらおうと、遠洋トロール漁船の北大西洋での活躍を取材する、という企画を立ててしまいます。一説によれば、それは自分で言い出したのではなく、山口新聞系列の水産業界紙『みなと新聞』から仕事のお鉢がまわってきたのだ、とも言われます。

 いずれにしても、この長期出張のハナシを古川さんが喜び勇んで引き受けて、遠洋に乗り出したのは事実のようです。出発は昭和41年/1966年3月のことですから、直木賞の候補入りから1年も経っていません。

 年齢でいうと40歳を少し超えたぐらいのところです。下関に思い切って戸建ての家を構え、子供たちの成長を見守るという平穏な生活とは裏腹に、少しまえには両親と同居しながら関係がうまくいかず、ついにはイヤな思いを残しながら実の父親、母親が家を出ていくという事件があり、イラついていた古川さんは家に寄りつく猫たちを虐待しては気を晴らす、なかなか最低な男になり下がっていた時分、とのことです(昭和59年/1984年9月・文藝春秋刊『十三匹の猫と哀妻と私』)。

 仕事にも倦み、家庭生活にも倦みはじめた40過ぎのおじさんが、どうにか環境を変えたくて、海の向こうの生活に憧れた……という心境は否定できないところでしょう。それに類した回想を、古川さんもいくつか残しています。

 ここからが、古川薫一世一代の武勇伝、と言いましょうか、いっしょに働いていたら確実にまわりの人から嫌われる類いの行動をとってしまいます。

 旅行の予定はだいたい3か月、行きはエールフランスでヨーロッパに渡ります。のんびりと欧州旅行を楽しんでから、スペイン領カナリア諸島の、グラン・カナリアに向かい、そこで日本のトロール船を取材しては、現地の様子などを原稿にして日本に送る……という仕事だったはずなんですが、だれの監視もない風光明媚な異国でゆうゆうと羽根をのばした古川さんは、酒を飲み、アバンチュールを楽しみ、やがて会社にも連絡をとらなくなって、ずるずると海外生活を満喫した、ということになっています。まあ、あまり褒められたハナシではありません。

          ○

 一般に褒められたハナシではない経験は、とかく物を書くときには価値が反転する、というのが世の習いです。このときの見聞が古川さんの肥やしのひとつになり、エッセイに小説にと活きていくことになります。

 とりあえず大西洋上に浮かぶカナリアの地で、だらだらと時を過ごした古川さんは、徐々に持ちガネも減っていき、贅沢な暮らしに底が見えてきます。これはもう日本に帰るしかないな、というところまで来ますが、帰りの飛行機代にも事欠くありさま、日本に行く冷凍運搬船に頼み込んで乗せてもらうと、約40日をかけて大海原を揺られ揺られて、どうにか日本にたどり着きました。

 会社から大目玉を食うかと思ったら、鷹揚な社長たちはそれでも許してくれる温かさ。おう、おうと、人の情に接して感涙にむせぶ古川さんでしたが、こんな大迷惑をかけてのうのうと会社に居座っている場合ではないと、そのぐらいのふんべつは持ち合わせていたらしく、辞表を提出し、筆一本の生活に入ることを決心します。直木賞の候補になったので作家として立つために一念発起した、という単純な理由で退職したわけではないところが、何とも古川さんの人間味が見えるところです。

 そして、カナリア諸島に派遣された新聞記者の、帰国途上の船旅を題材にした「正午位置(アット・ヌーン)」という小説が『別冊文藝春秋』140号に載ったのが昭和52年/1977年6月。古川さん、直木賞に3度候補になって落ちたぐらいの時期にあたります。しかし、いったいなぜなのか、理由は誰にもわかりませんが、古川さんの小説で直木賞の候補になるのは(つまり候補になって落ちるのは)、歴史・時代物ばかり。文藝春秋の人たちも、何とか粘ってこの人にとってほしい、と思っていたのは間違いなく、古川さんのほうもブレイクしないまま、そこそこに食いつなげるプロ作家でありつづけたために、何度も何度もチャンスが巡ってきます。

 自身のカナリア諸島での体験を下敷きにした小説は、昭和63年/1988年になってようやく文藝春秋が『正午位置(アット・ヌーン)』の題で本にしてくれますが、これが古川さんにとって初めて現代小説での直木賞候補入りを果たします。次に候補になった『幻のザビーネ』もまた、ドイツからカナリア諸島を舞台にした、会社員が主人公の小説でした。しかしどちらもやっぱり選考会でいま一歩評価が集まらず、もうもはや古川さんとしても受賞はあきらめかけるところまで行ってしまいます。

「第百一回直木賞に『幻のザビーネ』が候補となったが、これも落選し、私はここで最多候補の記録をつくってしまった。この作品も『正午位置』も現代物である。「歴史小説をやっていた者が、柄にもなく現代小説を書くからだ」といった意味のことを新聞で書かれたこともある。私としてはもともと現代物を書いていたのだし、前からあたためていた作品を出しただけで別に新しく始めたわけではないのだが、人にはそう映るのだろう。正直なところ、なかばあきらめかけていた。(引用者中略)『幻のザビーネ』が落ちたときには「終了宣言」も口走った」(平成3年/1991年11月・毎日新聞社刊『完走者の首飾り』所収「直木賞をあゆんだ四半世紀」より)

 その後に受賞した『漂泊者のアリア』はともかくとして、じゃあ『正午位置』や『幻のザビーネ』は面白い小説なのか。といえば、とてもそんなシロモノではありません。海外に赴任した無頼の新聞記者や会社員の、惚れた腫れたを含めた冒険譚なら、もっとうまく書ける作家がたくさんいるじゃないか、と思ってしまうのも事実です。海外で暮らしたころの、楽しかったか苦しかったか、貴重な経験をあたためて、ようやく生まれた古川さんにとっての精魂込めた作品であることは、ひしひし伝わってくるんですけど、直木賞の選考会だって、まともに判断をくだせることがたまにはある、ということを示す候補作だったと思います。

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