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2019年11月24日 (日)

村松喬、従軍記者として赴任したビルマで、忘れられない恋愛をする。

 村松梢風という作家がいます。白井喬二さんたちの大衆文芸の輪には参加しなかったけど、読み物の書き手として活躍したことでは、広義の大衆文芸を考えるときに、まず外せない名前です。

 大正後期、『中央公論』お抱えの情話作家だったころには、情話作家ごときが「創作」欄に作品を載せるとは何ごとだと、芥川龍之介さんたちがキャンキャン吠え立てたという、もの哀しい逸話も引き起こします。情話のような読み物は文芸じゃないあっち行け、という感覚は、大衆文芸は純文芸より格下だあっち行け、という偏狭さと、ほとんど同じです。昭和9年/1934年創設の直木賞もやはり同じような目に遭い、残念ながら文芸界隈で芥川賞と同格視されていたとはとても言えない不遇の文学賞になりましたが、似たもの同士の直木賞と梢風さん、両者に直接の関わりはありません。ただ、一族郎党まで含めると、無縁でもありません。

 なにしろ、第87回(昭和57年/1982年・上半期)にポロっと直木賞を受賞した村松友視さんがいます。梢風さんの長男の息子、という関係にありながら、籍のうえでは息子にされたという、そういうハナシを聞くだけでも複雑な村松家の一端が知れて、少しヒきます。じっさい村松梢風といえば奔放な女性関係で知られた人、というのが一般的な認識らしく、艶福家というかエロおやじというか、女なしでは生きられない、よくいるタイプといえばタイプの男かもしれません。

 直木賞にはもうひとり、この人と濃い血のつながりのある候補者がいます。友視さんの伯父、つまり梢風さんから見れば三男に当たる村松喬さんです。

 風貌やたたずまいなどは、ほとんど梢風の生き写しと言われるほどそっくりだったそうですが、父のあとをなぞるように新聞社に勤め、文章を書き、そして小説にも手を染めました。直木賞では第36回(昭和31年/1956年・下半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)、二期連続で候補に挙がります。

 いずれの候補作も書き下ろしの単行本です。先に候補になった『異郷の女』(昭和31年/1956年12月・虎書房刊)は、井上靖さん、由起しげ子さんの推薦文をつけたモノモノしいなりの小説で、舞台は太平洋戦争中のビルマ、主人公は日本の大手新聞社の現地支局員、とほとんど村松さん自身の体験が反映されています。約半年後に刊行された2つ目の候補作『ONLY YOU サンパギータは夜の花』(昭和32年/1957年6月・虎書房刊)もまた、前作と同様、時代は太平洋戦争中、主人公は日本の大手新聞社の現地支局員。今度の舞台はフィリピン・マニラ近辺ということで、こちらもやはり、村松さん本人の見聞がいかんなく盛り込まれた、実体験ものでした。

 大正6年/1917年生まれの村松さんは、昭和15年/1940年、22歳で早稲田大学を卒業して、東京日日新聞社に入社、フレッシュでエネルギッシュな若者記者としてまもなく昭和17年/1942年4月には南方前線部隊への従軍を命じられます。20代半ばの血気盛んな青年、とくれば、淫蕩の血が流れていようが、そうでなかろうが、女性への関心や性的衝動が抑えられなくなって当然でしょう。

 ということで、ビルマのラングーン支局に赴任した村松さんは現地ではじめて女性を知り、このひとと一緒になろう、一生を添い遂げよう、と一気に思いつめます。ビルマでの生活は短く、着任の翌年昭和18年/1943年5月には、フィリピン・マニラ支局に異動の命がくだされますが、『異郷の女』のなかに〈マ・ヌエ〉という名前で登場するシャン人の娘に、完全にイカれきっていた村松さんは、そこで人生の選択をせまられました。社命に従ってビルマを去るか。いやいや、このまま残って〈マ・ヌエ〉とともにビルマに骨をうずめるか。

「決断というか、選択を迫られることが人生には時々あるということでして、ぼくは比較的悔いのない生き方をしてきたと思います。一つの選択はビルマを離れる時で、ぼくは現地の女と同棲していましてね。まあ若かったし、ほとんどそれがはじめての女なのです。ほんとうにビルマ人になってしまおうと思ったことがありましたよ。そこへ「マニラへ行け」という社命で、随分悩んで熱を出して寝込んでしまった。気力が弱って、そこでがんばって残るということができなかった。できなかったけれども、それはやはり一つの選択を迫られたことでしたね。」(昭和49年/1974年12月・番町書房刊、三国一朗・編『昭和史探訪(4) 太平洋戦争後期』所収 村松喬「「英霊」四七万・比島戦記」より)

 好きな相手でありながら、社会的な環境の変転で意にかなわず別れなければならなかった、戦中ビルマでの強烈な思い出。どんな場所、どんな環境でも、恋愛による精神の高ぶりは、あとになって振り返ってみるとよけいに、その本人にとっては人生の一大事件だったと感じられるものでしょう。それはよくわかるんですが、村松さんは帰国後に毎日新聞の学芸部に籍をおき、文化全般のジャーナリストとして再出発を切ったあと、10年ほどたって、なぜか過去の実体験を小説化しはじめます。

          ○

 村松さんの当時の仕事に『落日のマニラ』(昭和31年/1956年7月・鱒書房刊)があります。植民地を支配する体制側のひとりとしてフィリピンに送られ、以来2年ほど、その地で見て聞いて考えたことや、当時のマニラ周辺の状勢などを、あとから書き起こしたルポルタージュです。「あとがき」には「従軍記」との表現も見えます。

 ジャーナリストのやるべきこととして、こういうものを記録し、積み上げていく方法もあったでしょう。それなのに戦中の、多少甘ったるくもある自身の恋愛ゴトをわざわざ小説にしたくなってしまった……というところが、あるいは村松さんの物書き魂ってやつかもしれません。

 どうして戦中の海外体験を小説のかたちにしたのか。理由はわかりません。それは本人にだってわからないのかもしれませんが、『異郷の女』の「あとがき」にはこんなことが書いてあります。

「人間は四十を越して、ようやく人生の意味が少しは理解できるようになるのではないでしょうか。この小説に書かれているようなことは、私が大陸を離れた瞬間から、実は私の胸中に去来していたものでしたが、それは雲のようにとらえどころがなく、閉口していたものでした。それが十数年たった今日、どうやらまとまって、こうした形になったのでした。いまになって私は、私のして来たことの意味がおぼろげながらわかって来たようなのです。若いということはそれ自体素晴しいことなのですが、余りにも行動と懐疑と自信の欠如に満ちていて、ものごとをまとめる条件は備えていないようです。」(『異郷の女』「あとがき」より)

 若いころのほとばしる熱情、それは戦争という平時とは違った環境下のものではあったでしょうけど、それを10数年、ああでもないこうでもないと考えているうちに、40歳になってようやく、おぼろげながら見えてきた。というなかから、人物や出来事など、ある程度創作をまじえながら、ポンと小説のかたちで出てきたらしいです。

 とりあえず、ワタクシ自身は、いまになっても人生の意味なんてこれっぽっちも理解できる境地に達していないので、村松さんのように懸命に生きていれば、理解の入口に立てる人もいるんだなあ、と茫然とする他ありませんが、それはそれとして、実体験をもとに小説化する手練手管は、さすが父の梢風さんのほうがうわてだったようです。村松さんの書くところ、ちょうど自身が直木賞候補になって落ちた直後の昭和33年/1958年、父親の梢風さんが『女経』(昭和33年/1958年3月・中央公論社刊)という小説を刊行して大ヒットを飛ばします。10万部ぐらいは売れたらしいです。内容はというと、梢風さん自身の情事をネタにしたもので、それが売れたものですから、梢風さんは大いに自信をもったのだとか何だとか(『文藝春秋』昭和36年/1961年4月号 村松喬「父梢風 その吉原からミュージック・ホールまで」)。

 対する息子の喬さんは、自分の小説が賞にもひっかからず、自信をなくした……というわけではなく、ぽつりぽつりと小説作品は書いたようです。しかしその後は、教育問題、教育現場に切り込む新聞記者として名を馳せ、あまり創作の分野での活動は見られません。

 いったい40歳を過ぎてかすかに見えてきた人生の意味とは何だったのか。村松さんのなかでは鮮明化していったのでしょうけど、そんな難問は直木賞だけ見ていても何ひとつわかりません。当り前です。村松さんにとっての創作、そこから派生した直木賞候補入りは、長い人生のなかの、ほんのひとときだけあふれ出た雑業のひとつでしょう。それが、ビルマでの恋愛と同じくらい大切な経験として、村松さんのなかに刻まれたのであればいいなと思います。

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