結城昌治、現地に赴かずに内戦下のベトナムをリアリティをもって描き出す。
直木賞をとったのに、直木賞のピラピラ・テカテカした雰囲気に一向に染まらなかった人は、80余年の短い歴史のなかでも山ほどいます。
山ほどいる、ということは、それこそが直木賞の本質なのでは、と思うところですが、しかしだいたい文学賞といえばピラピラ・テカテカしているもの、という固定観念から抜け出せない人もまた、世のなかには山ほどいます。とりあえず、こういう掛け違いが直木賞を面白くしてくれている現象のひとつですから、それはそれで静かに放っておくのが一番です。
第63回(昭和45年/1970年・上半期)に受賞した結城昌治さんなどは、明らかに染まらなかったほうの人でしょう。
いちおう「テレ屋だったから」というふうになっていますが、直木賞のお祭り騒ぎとか、受賞しそうな人にベタベタ寄りつくジャーナリズムがわずらわしく、そういう関連の雑誌、週刊誌の事前の原稿依頼はすべて拒絶。受賞式のときには、恥ずかしいから来るなといって奥さんの出席をやめさせ、賞をとったからって何も変わるわけじゃない、自分のペースで自分の書きたいものを書く、と公言する。……染まらなさがあまりにスマートすぎて、逆にイヤミすら感じさせますが、「直木賞は文学賞として面白いですよね」と話を振っても、まず通じない感性の作家ではなかったかと思います。
そもそも『ゴメスの名はゴメス』(第47回 昭和37年/1962年・上半期)、『白昼堂々』(第55回 昭和41年/1966年・上半期)と、この2作で受賞せず、「軍旗はためく下に」なんてもので受賞してしまうところが、型通りのスマートさが出ていて、何ともイヤミです。……いや、これはほとんど結城さん自身の罪じゃありません。直木賞の問題です。
結城さんが推理小説作家としてデビューしたのは、昭和34年/1959年のこと。あれも推理物、これも推理物、という感じで出版界はてんやわんやの推理物ばやりで、中間・大衆文芸の界隈だけならまだしも、純文芸の方面にまで火ダネと騒ぎが広がっていったという、いまとなっては羨ましいぐらいの盛り上がりを見せましたが、文藝春秋社の編集者たちも、これはと目をつけた作家の推理物があれば、直木賞の予選をぞくぞくと通過させていきます。そしてたいがい最終選考会で落とされる、という展開が続くうちに、推理物では直木賞はとれない、などというホントのようなデマのような話が出版界を飛び交いました。
そんななかで早川書房の日本ミステリ・シリーズの一巻として結城さんの『ゴメスの名はゴメス』が刊行されます。推理物(というかスパイ物)とはいえ、これが直木賞の予選を通過した理由は、もはや誰にもわかりません。もしくは「文学的にすぐれた作品だから」というあやふやな評価基準に適っていたからだ、と言うしかないんでしょう。しかしこの作品を傑作たらしめているゆえんといえば何でしょうか。舞台を日本に求めず、南北に分裂中だったベトナムに設定したところです。
海外でいままさに起きている紛争は、一般に親近感を持ちにくい。いっぽうで、ベトナムが南北に分かれ、現実にスパイが暗躍している状況は、かつてこの地を侵略した日本や日本人にとっても無縁ではなく、いまの日本と地つづきでもある。……という結城さんの問題意識が作品の骨格を支えています。
遠いようで近い、近いようで遠い、というこういう物語の設定は、大衆文芸や娯楽小説、エンタメ小説にとっては欠かせない要素かもしれません。そしてこれがあまりに離れすぎると、すぐに文句をいう選考委員が出てくる……という場面は直木賞ではおなじみの光景ですけど、そのスレスレを責めたがる予選の選考が、直木賞にはときどき現われることがあります。
しかも『ゴメス』は、昔の海外をノスタルジックに描くわけではなく、時事性を備えている強みがあります。ホットでナウ。直木賞にとっては、そうとう意味のある候補だったと思います。
ちなみに第47回の直木賞では、この候補作はさほど評価が高くなく、あっさり落とされました。いわく面白いといえば面白いが、それだけのもの、いわく後半の解決に難あり、木々高太郎さんあたりは「ソマセット・モームを学ぶ必要がある」とか何とか、木々さんお得意の、偉そうな知ったか選評で切り捨てるありさまです。
木々さん辺りは、同じ推理小説作家であっても、賞があれば得はあっても損はない、どしどし目指すべきだ、という感性の人で、結城さんとはとうてい相容れないものがあったでしょうけど、この選評を読むだけでも、結城さんのやりたい創作は直木賞とは性が合わなそうだな、と感じます。
「別に賞をもらおうと思って小説を書いているわけではありませんからね。
私は、直木賞の時も別段これといって感じませんでした。実は、私は直木賞の候補になって二回落ちたことがありまして、もう直木賞は素通りだと思っていたのです。」(『小二教育技術』昭和60年/1985年7月号「作品の価値は賞を受けたか否かではない 作家結城昌治さん」より)
と結城さんは、後年、吉川英治文学賞を受けたときに言っています。賞なんて自分の創作活動に何の関係もない、と言いたかったんでしょうが、でも、ああいう選考をされたら、まあおれのものは受賞できないだろうな、というあきらめが芽生えたとしても仕方ありません。
○
それで、『ゴメス』の海外に関する特徴のもうひとつは、結城さん本人は一度も現地に足を運ぶことなく、混迷するベトナムの社会を描いてみせた、ということがあります。
北条裕子さんの『美しい顔』(平成31年/2019年4月・講談社刊)とかと違って、べつに現地に行こうが行くまいが、そのことが話題になったり問題視された作品じゃありません。むしろ、話を聞いたり資料をあさったりそれだけで、よくこんなリアリティのあるベトナムの様子が書けたな、と結城さんの作家的力量を評価する声のほうが多いと思います。ワタクシもそちらの声に賛同します。
結城さんはベトナムに取材旅行に行ったわけじゃありません。それでも、日本人が諜報活動に巻き込まれ、スパイの人間性を読者に関心をもって読んでもらうために、1960年代当時適切な土地として南北のベトナムを選んだところに、結城さんの感覚の鋭さがあります。まったく『ゴメス』で直木賞あげておけばよかったのに……と、つい思ってしまう場面です。
あるいは「軍旗はためく下に」も『ゴメス』と描く世界は全然ちがいますが、空想、想像の度合いでは、似たようなものかもしれません。結城さんは高輪商業を卒業したあと、海軍特別幹部練習生を志願、昭和20年/1945年5月、武山海兵団に入ります。しかし健康状態が悪く、すぐに帰郷を命じられ、ついぞ戦場に赴くことないままで、戦争は終わりました。行ったことのない戦地での、人間たちの動き。これを聞き書きと資料から構築していった点では、かなり『ゴメス』に通じています。
「ぼく自身、二十年春に志願して武山の海兵団に入ったんだが、体が弱くて十日間で帰されました。この間なぐられ通しだった体験が、これ(引用者注:「軍旗はためく下に」を兵隊の目で書かせたといえます。」(『朝日新聞』昭和45年/1970年8月23日「著者と一時間 庶民の声くみ取る 兵隊としての体験から」より)
ということで、中国大陸、フィリピン、南方の小島に出向き、そこでの行動が軍法会議にかけられた軍人・兵隊たちのことを描いた作品が、こんどは直木賞を受賞することになるわけです。
奇しくも、と言いましょうか、べつに誰がはかったわけじゃありませんけど、8年前の最初の候補作と同じく、海を越えない作者が日本の外でのことを書いたものです。どちらの小説も大枠には、政治や国家といった、ときにもろくて、ときに頑強な組織大系が置かれている。……スパイ小説より、戦争小説のほうが、文学賞として据わりがいいのはたしかです。ここら辺が直木賞のイヤらしさです。
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