谷恒生、航海士を辞めて小説を書いたあと、マンネリ打破のために東南アジアに行く。
ワタクシの好きな直木賞候補作は何十もありますが、そこに確実に入ってくるのが、谷恒生さんの『喜望峰』(第77回・昭和52年/1977年上半期)と『ホーン岬』(第79回・昭和53年/1978年上半期)です。
いずれも〈ベストセラー・ノベルズ〉という、いわゆるソフトカバー新書版のノベルズ小説で、いまであれば間違いなく候補に挙がることはないでしょう。70年代後半、直木賞そのものが混迷していた時代とはいえ、劇画調だ、人間が描けていない、と言ってこういう面白い小説を落とすのですから、たいがい直木賞というのも頭のおかしな文学賞です。
直木賞の暗黒期もしくは黒歴史とも言われるこの恥ずべき70年代は、中間小説・大衆小説全般を見渡しても、海外を舞台にした作品が数多く発表されました。当然、全部を網羅できるわけがないので、そこはバッサリ端折りますけど、なかでも一等航海士として実務経験がある谷さんが『喜望峰』『マラッカ海峡』、二冊同時刊行でデビューを果たした姿は、あまりに鮮烈だったと漏れ聞いています。
なんといっても船や海、国外の港町・都市を描くときのディテールがたしかなうえに、犯罪組織の謀略やら、男同士の殴り合いやら撃ち合いやら、イカした美女との交情やら、惜しげもなく展開される大風呂敷で派手なストーリー。海外の翻訳物が流入したことで耕されていた冒険小説出版の世界にいきなり現われた、本格的な国産冒険作家だ、と当時の読者たちが興奮したのもうなずけます。
そこで光を浴びた谷さんが、まだ30歳そこそこの血気盛んな世代だったことも見逃せません。定年で引退し、あとは余生という段階で作家デビュー、という姿がサマになるのは日本の高齢化が日常の風景になるもう少しあとのことです。閉塞的な状況を打ち破るのは、やはり若い作家だ、という幻想のような感覚が、70年代にはまだ常識として生きていました。
鳥羽商船高専を卒業した谷さんは、航海士として汽船会社に入社、1960年代から70代にかけての8年間、貨物船の船員として世界各国をめぐりました。世界のどこかで大きな戦争や紛争、衝突が起こると海運の仕事も忙しくなる、という状況があるらしく、谷さんが働いていた頃にはベトナム紛争があって、貨物の仕事も大忙し。アジア、アフリカ、南米、北米と、船の行く先はまさに世界一円どこでも、という感じだったそうです。昭和45年/1970年2月に沈没した〈かりふぉるにあ丸〉には、沈没の半年ほど前まで乗っていた、とも言います。
しかし、航海士といっても貨物を運ぶ仕事ですから、自由気ままに港から港を渡り歩くフリーな立場ではありません。谷さんが経験した〈世界を股にかける船乗り〉の実像も、現実にはけっして優雅なものではありませんでした。映画や歌謡曲で描かれるような、荒くれで優しいマドロスの世界なんてものは嘘っぱちで、商業船の船乗りなんてものはキツい肉体労働の連続に、休みも少なく、集団で仕事するのだから人間関係での悩みもサラリーマンあたりと何ら変わりのない、海に対する憧れだけではやってはいけない職業だ、とその厳しさを身に染みて感じた30歳の男。社会のなかで働こうと思うと、おおかたぶち当たる壁かもしれません。
壁にぶち当たった経験者が書くから、フィクションでも何でも面白くなるんでしょうけど、航海士の職をすっぱりと辞し、さあ小説でも書いてみようかと腕まくりして、アクションやエロスをからませた読み物小説に乗り出したところに、谷さんの素晴らしさがあります。文芸、文学、そんなものクソくらえの感覚です。
さすがに「クソくらえ」という発言は見つけられていませんが、純文学にはまったく興味がない、とは言っています。
「――最近、小説が面白くないと、新聞なんかでもよくいわれますが……?
谷 面白さの質ということがあるんだろうけど、ぼくなんかは、いわゆる純文学には全く興味がないんですね。
大藪(引用者注:大藪春彦) とくに、心境小説というか、自分の身のまわりのことをチョコチョコと書いたのなんか、あれがなんで小説なのかと思いますね。随筆と変わらないんじゃないか、と。
谷 フィクションの面白さ、活字じゃないと書けない面白さがないとね……。」(『青春と読書』昭和53年/1978年10月号 大藪春彦、谷恒生「対談 ぼくたちの体験、ぼくたちの小説」より)
そうやって書かれた谷さんの小説が、直木賞の候補になって、いかに当時の選考委員にボロカス叩かれたか。すでに何度か、どこかに書いた気がするので、「選評の概要」(第77回、第79回)へのリンクだけ貼っておきます。閉塞感に包まれたままの直木賞、打つ手なし、って感じです。
○
自分のそれまでの職業体験を生かして、作家デビューできたとしても、あとを続けられるかどうかが問題だ、とよく言われます。航海士出身で、海洋冒険物の旗手、と言われた谷さんもやはりその例に洩れません。船乗りが切ったはったの大活躍、それはもうわかった。次は何を書けるのか。手をかえ品をかえしていかないと、作家として続けていけないのが、職業作家の宿命です。
世界中を仕事で旅し、一度は陸に上がって作家になった谷さんは、ほんの3年ほどでマンネリの感を抱きます。正直、3年でというのは早すぎる気もしますが、デビュー以来、谷さんはやたらと書いて書いて書きまくっているきらいがあります。この無鉄砲さが、作品の世界もそうですし、谷恒生という作家の特質と言ってもいいと思います。
ともかく、ここで谷さんはひと呼吸入れるために、日本を抜け出します。赴いたのは東南アジアです。とくに計画も立てず、なるべく仕事から離れて旅を楽しむ2か月間。どうもこの生活スタイルが谷さんの性には合っていたらしく、むくむくと生気を取り戻したようです。
「(引用者注:タイの)ドンムアン空港に到着し、空港ターミナルにこもるねばりつくような熱気に触れたとたん、私は船乗り当時を憶いだした。この熱気はシンガポール、マラッカ海峡、パナマにみなぎる熱気と同質のものだ。
私の身体中の血が騒いだ。それからの二ヵ月、空、空気、大地、人間、建物、生活、食物、風景、乗物、眼に映り肌に触れるものすべてが新鮮だった。」(『旅』昭和57年/1982年4月号 谷恒生「発見に触れる旅」より)
ということで日本の冒険小説の未来を切り開き、直木賞ではさんざんな低評価だった谷さん、海外の風を感じて一躍、元気もりもり。『バンコク楽宮ホテル』(昭和56年/1981年11月・講談社刊)へとつながっただけでなく、海洋冒険以外の作家としてその後も読み物小説で活躍をつづけることになります。
日本の風土のなかでじっとしているだけでは、生まれなかった作家でしょう。少しの勇気、少しの先見性、少しの柔軟性が直木賞にあれば、こういう作家、作風を直木賞のなかに取り込み、賞そのものが改まって変わったはずですが、残念無念、海外と肌が合った谷さんほどには、直木賞は開放的な性質ではなかったようです。
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コメント
突然ですみません 谷先生の奥様 お元気ですか? もう誰も知らないかな
投稿: 木村勉 | 2023年2月12日 (日) 23時32分