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2019年10月27日 (日)

陳舜臣、神戸で生まれ育ちながら、心は台湾、中国、そしてアジア。

 外国籍にあって直木賞をはじめてとったのは邱永漢さん(第34回 昭和30年/1955年下半期)ですが、それから13年後、二番目に受賞したのが陳舜臣さん(第60回 昭和43年/1968年下半期)です。50年ほどまえの出来事です。

 いまもあたりを見渡すと、日本の国籍をもたない日本在住者に、悪意を向けるヤカラがけっこういます。だいたいいつの時代でもウヨウヨしてきた、正直関わり合いになりたくない手合いです。陳さんも江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞、直木賞と、なかなか順調に文学賞を受賞するなかで、「おまえ何様だ」「国に帰れ!」といった内容のイヤガラセの手紙をときどき受け取った、といいます。三番目の受賞者、東山彰良さんも似たような経験をしているんでしょうか。だれか聞いておいてください。

 ところで、そんな陳さんには、邱さんや東山さんとは少し違ったところがあります。日本本土の兵庫県神戸で生まれた、という履歴です。父親である陳通さんが海産物貿易商「泰安公司」を経営、その事務所と自宅がずっと神戸にあった関係でそういう境遇に置かれたのですが、学校も付近の諏訪山小や神戸小、第一神港商業に通ったという陳さんの来歴は、長く日本で生活した日本人とさして変わりがありません。

 しかし、何といっても時代が時代、陳さんの育ったのは昭和初期です。台湾やその住民、あるいは台湾にルーツを持つ人たちがたどった現実は重く被虐的というほかありません。当時の台湾は日本の一植民地でしたから、大きなくくりではいちおう「日本人」というかたちでしたけど、築いてきた歴史はまるで違うし、周囲からそそがれる目は「よその国の人」扱いです。いったい祖国とは何なのか。自分は何者なのか。つねに意識させられるなかで成長したという意味では、陳さんの来歴もそう簡単に割り切れません。

 ということで、ここはやはり陳さんの半生記『道半ば』(平成15年/2003年9月・集英社刊)を参照しなきゃいけないわけですけど、物ごころつく前の幼少時代は別として、陳さんが海を越えて、父母の係累が住む台湾の地を踏んだのは数えるほどの機会しかなかったそうです。最初は、祖父の法事のために帰省した小学三年生の春休み。もう一回は、昭和12年/1937年の盧溝橋事変からまもなく中学二年の夏休みです。

 ただ、じっさいに海を渡らなくても、ほとんど渡った気になれるのが、神戸という街の特性なんでしょう。陳さんも存分にその恩恵を受けて大人への階段をのぼります。

 とくに当時、台湾から東京を目指そうという人たちは、基隆・神戸間の航路を利用してまず神戸に入り、そこで一泊してから東に向かう、ということが多かったらしく、陳さんの家には親戚や知人などがしょっちゅう宿を借りていたそうです。陳少年は、そういう人たちとの会話のなかから、台湾の現状やさらに中国、アジア圏への関心を高めていった、と振り返ります。

 そこで陳さんは漠然と将来の目標を思い描くのですが、それは作家ではなく、学者でした。小説はむさぼるほどたくさん読んでいましたが、俗にいう文学青年たちとは性が合わなかった、その輪に加わりたいとはまったく思わなかった……と非常に共感の持てる感想を漏らしています。世が世なら、陳さんは大学を出たあとも研究の道をずっと続け、学者の世界ではたしかな業績の持ち主として知られながら、一般には「だれそれ?」と首をかしげられる、まっとうで堅実な言語学者だか歴史学者だか社会学者だかになったかもしれません。

 そうはならなかった理由は、ひとつに集約されるはずはないんですけど、そのいたるところに陳さんの、まったくもって割り切れない出自、環境、社会情勢が関係してきます。日本、ボロボロに負けた。台湾、中国に返還されることになった。陳さん、国籍が日本ではなくなるので、公立の大学でそのまま研究者を続けることが難しくなった。いったん台湾に帰った。しかし、台湾もまた政情が不安定で、昭和22年/1947年には二・二八事件が勃発、戒厳令も敷かれ、多くの一般市民たちが政府の手によって殺され、大混乱した。昭和24年/1949年、陳さんは神戸の実家に戻ることに決め、再度海を渡った。……という展開があって、陳さんが日本語で小説を書き、日本で作家デビューして、日本の直木賞をとる、というところまでつながります。

 あまり遠くはない海を隔たった場所に位置する台湾と日本。そのあいだの関係性が、陳舜臣という作家を生み落としたことは、どう見ても間違いありません。

          ○

 『道半ば』には「海を渡る人たち」という題のついた章もあるくらいです。中国大陸から海を渡って台湾に文化を築き、そこからさらに海を渡って日本にやってきた人たち。そんな彼らを親族同胞として日本で成長したことが、のちの陳さんの文学的基盤を培った、ということはもはやいろんな人が指摘しています。

 なので、ここではなるべく直木賞に関することに絞りたいと思いますが、受賞作の「青玉獅子香炉」が、首尾の整った品のある作品なのはたしかです。『別冊文藝春秋』に載った140枚ほどの中篇(というか短篇)で、よーし直木賞受賞作を読むぞと気負ってページをめくると拍子抜けしたまま読み終わってしまうでしょう。作品もさることながら、作家的力量および業績を評価して賞を決める、直木賞の代表的な一例です。

 この作品には、日本人がひとりも出てきませんが、陳さんの興味関心が台湾、中国に根ざしていたから生まれてきたような小説と言っていいでしょう。受賞直後、対談した文藝春秋社長の池島信平さんは、「ああいうものは、いかにも台湾の人がお書きになったという感じですね。」と言って、これはもちろん褒めているわけですけど、この対談のなかで陳さんはこう語っています。

「あの「青玉獅子香炉」でもあれを書く気持になったのは、去年かおととしに故宮の博物院の四十周年があって創立以来そこにいて、まだ台湾で健在の那志良という人が「故宮四十年」という本を出して、台湾で非常に評判になった。それを読んでいるうちに、ああいうスケールの大きいあれを書いてみようという気持になったんです。」(『新刊展望』昭和44年/1969年4月号「池島信平連載対談 直木賞受賞をめぐって」より)

 『故宮四十年』のなかに西安にほど近い宝鶏という町のハナシが出てくる、以前から陸游の「あしたに宝鶏を発して、暮れに長安……」という詩が印象に残っていた陳さんは、そこから発想を広げて「青玉獅子香炉」の構想にいたった、と続きます。

 もはや陳さんはこの段階ですでに、日本の風土というより中国・台湾の素養に満ちあふれています。陳さんは、基本いい人ですから、直木賞はちょうどいいタイミングでいただいたと思う、と涼しい顔で話していますが、このときの状況を客観的に見れば、陳さんは乱歩賞受賞当時からずいぶん先に進んでいるのに比べ、直木賞のほうはかなり出遅れ、下等な状態です。

 陳さんのおかげで直木賞も、また海を渡ることができました。恐る恐る賞を差し出して、もらっていただく、という表現がふさわしいタイミングだった、と言うしかありません。

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コメント

大変興味深く拝読いたしました。ところで、『新刊展望』昭和44年/1969年4月号「池島信平連載対談 直木賞受賞をめぐって」を全文読みたいと思います。私は兵庫県明石市在住ですが、読むすべはありますか。ご教示いただければありがたいです。橘雄三

投稿: 橘雄三 | 2020年7月 5日 (日) 15時34分

橘さんへ、
ただ通りすがりでこちらの記事を読ませていただいた者なのですが、調べてみたら資料が見つかったので僭越ですがお伝えさせていただきます。
国会図書館に蔵書がありました。新刊展望 13(4)(277)のp16~22を指定して、遠隔複写サービスをご利用になられるといいと思います。
申し込み方法はご自分でお調べください。https://www.ndl.go.jp/jp/copy/remote/index.html

投稿: 通りがかり | 2020年12月 4日 (金) 21時54分

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