« 安西篤子、小学生のころに中国・営口で見た光景が、めぐりめぐって直木賞。 | トップページ | 結城昌治、現地に赴かずに内戦下のベトナムをリアリティをもって描き出す。 »

2019年9月29日 (日)

石野径一郎、通俗小説で汚れた自分の筆で、沖縄戦のことを書いていいのか思い悩む。

 「海を越える」の意味を「外国に行く」というふうに限定しなければ、ハナシはいくらでも広がる気がします。もはやこのブログテーマ自体、内容が茫洋としてきて、別に何を書いても構わないんですけど、とりあえず「海を越えた体験が、作家的な履歴のなかで重要な位置を占める、直木賞の候補者たち」という路線は外さずに進めたいところです。

 しかしそうは言っても、地勢的・歴史的な事情から考えて、「海外」の範囲のなかから琉球・沖縄を除くわけにはいきません。

 文学史全体でもそうでしょうが、直木賞でも同じです。沖縄に関する小説は、どこか身近な現代物という枠を超えた、異国情緒とも言いがたい独特な位置づけの小説として候補に挙がり、つい最近、真藤順丈さんの『宝島』(第160回 平成30年/2018年下半期)が受賞するまで、挙げられては落とされるという悲しい歴史を刻んできました。

 その歴史の最初に出てくる作家というと、第36回(昭和31年/1956年・下半期)に『沖縄の民』で直木賞候補になった石野径一郎さんです。

 文学賞とはとんと縁のない石野さんですが、戦前の同人誌時代からコツコツと小説修業を積んだその成果が、思わず花ひらいたのは、何といっても昭和25年/1950年刊行の『ひめゆりの塔』です。沖縄が負わされた悲劇的な歴史に対する作者の情熱がほとばしっていたのはもちろんのこと、衝撃的な素材と、昭和28年/1953年に公開された映画のおかげで、原作者石野さんに対する世間的な注目が一気に増します。

 そこに来るまで石野さんがどんなことをしていたのか。ちょっと時間を巻き戻して、石野さんが「海を越えた」頃から追ってみます。

 明治42年/1909年に沖縄県那覇市(当時・首里区)で生まれた石野さんは中学まで沖縄で育ったあと、16歳で単身東京に渡りました。大正15年/1926年春のことです。東京には先に叔父が出てきていて、高円寺で男二人、共同生活を営みながら、働くかたわらで学校に通い、勉学に励んだといわれています。以降、基本的には東京で結婚相手を見つけ、式を挙げ、家を見つけて生活を送るという、東京の住民となりますが、当然といいましょうか、心は常に琉球人。とくに戦中、戦争末期に及んで故郷の沖縄が戦場となって、同胞の民たちが戦いに巻き込まれていく様子を、遠く東京や、疎開先の石川県小松で知るたびに、じゅくじゅくと心を痛ませます。

 やがて戦後が訪れますが、石野さんはすぐに沖縄の傷跡のことを書ける状況にありません。まずは夫婦と子供2人、一家四人の住まいを確保しなければならない。ということで、変名で通俗小説を書き殴り、三文雑誌の編集を手伝って、まさしく糊口をしのぐことに力を尽くします。

 しかし沖縄に対する愛惜を忘れられるわけもなく、昭和24年/1949年、たまたま沖縄の先輩でキリスト教関係の人からひめゆり部隊の資料を渡されたことをきっかけに、これを小説にしてみることになるのですが、そのときに石野さんのなかで葛藤が渦巻いたそうです。それは、低俗な読みものにさんざん書いて手を汚したおれが、あるいは宗教のことを馬鹿にしていたおれが、どんな顔してこれを書けばいいんだ、という悩みでした。

「さて、私は沖縄戦を小説にかこうとして、又もや考えさせられた。それは、自分の名が、自分の心が、生活のためとはいえ、低俗なストーリーテーラーで汚れていることに絡んだ。宗教を軽蔑していた頃の言動にもひっかかった。しかし、一方、故郷は牢屋の中だ。他人事ではないと叱咤する内の声を絶えず耳のそばできいていた。」(『民主文学』昭和45年/1970年8月号 石野径一郎「遙かに獄中の故郷を望む心」より)

 だいたい沖縄のことをいかように書こうが、それに文句を言う奴のほうが狂っている、とも思いますけど、どんなチッポケなことでも世間はいつも、文句、文句にあふれていますし、沖縄の歴史や実状となれは、これはチッポケなことでもないので、よけいに悩む対象でしょう。しかし、ここで石野さんが、通俗小説を書き散らしたという自分のなかの恥を振り切って、ドキュメンタルに沖縄とそこに生きた人たちを描く道に足を踏み出してくれたおかげで、ゆくゆくひとり直木賞の候補者が生まれるのですから、直木賞ファンとして諸手を挙げて喜びたいと思います。

          ○

 沖縄で起きていることは、本土の人たちはおおむね無関心。というのが、この国でずっと長くつづいてきた基本的な風潮です。

 実際のところそうでしょうし、文学作品のうえでも、あるいはその作品を評価する論調のうえでも、「本土の人は沖縄の現実を知ろうとしない、もっと関心をもて」という切実な訴えを欠かすことはできません。戦後の石野さんが作家として立ち、物書きとして長らく活躍するなかにも、そういう土壌がたしかにありました。沖縄出身の当事者の目線で、昔のことから現在のことまでくまなく沖縄のことが書ける人。いまもそうかもしれませんけど、ある時期まで米軍の支配下に置かれて自由な渡航もできなかった時代を考えると、こういう作家の存在や小説の貴重さは、またひとしおです。

 というところで、近くて遠い日本のような海外、戦時中に苦難の経験をさせられた沖縄の人たちを描く、題名もそのまま『沖縄の民』が、昭和32年/1957年1月、直木賞の候補に挙がりました。

 そんなこんなを踏まえてこの回の各委員の選評を読むと、小島政二郎さんが事実を語ったドキュメントとして褒めている他は、一様に点が厳しく、沖縄の人たちが負った被虐と、東京でこれを読んだ選考委員たちとの遠さを感じさせます。

 以下、うちのサイトにも出していますが、『オール讀物』昭和32年/1957年4月号からの選評抜粋です。

「書きすぎる過剰筆力がかえって迫力を弱くしてしまっているのではなかろうか。」(吉川英治)

「作者の郷土に傾けている熱情が、対象を一色にしか見ていない。」(大佛次郎)

「感心した。小説としてでなく、ドキュメントとして。しかし、ドキュメントとしては、小説的であり過ぎる。この作品はどっちかにキッパリと性格をきめるべきだったと思う。」(小島政二郎)

 まあ、たしかにそうだよなあ、とうなずけるくらい、『沖縄の民』においても石野さんの筆致はボッテリと厚く、過剰といえば過剰ですので直木賞に落ちたことは仕方ありません。

 だけど、そこがこの小説のよさなのもたしかでしょう。日本政府や本土人の、無慈悲で勝手な姿勢のせいで、むざむざ悲惨な境遇を与えられた沖縄人たちの、ふつふつと煮えたぎる怒りと悲しみ。そんなものを、石野さんが抑えた筆致で書いてどうするんですか。賞の当落が作品の価値を左右させるものではない、というのは、こういうところにもよく現れています。

|

« 安西篤子、小学生のころに中国・営口で見た光景が、めぐりめぐって直木賞。 | トップページ | 結城昌治、現地に赴かずに内戦下のベトナムをリアリティをもって描き出す。 »

直木賞、海を越える」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 安西篤子、小学生のころに中国・営口で見た光景が、めぐりめぐって直木賞。 | トップページ | 結城昌治、現地に赴かずに内戦下のベトナムをリアリティをもって描き出す。 »