安西篤子、小学生のころに中国・営口で見た光景が、めぐりめぐって直木賞。
人というのは、だいたい人それぞれです。これまで直木賞の候補になった人はたくさんいますが、一人ひとりが個別の事情を抱え、そこに傾向なんてものはありません。それでも「直木賞」に関わりを持った、あるいは持たされた、という一つの共通点だけを軸にして、何の傾向も見えない人たちのことを調べてみる。……やはり傾向なんてありません。
先週、上海の生島治郎さんのことを取り上げたいと思って『私の父 私の母』(平成6年/1994年10月・中央公論社刊)というエッセイ・アンソロジーを読んでいたら、ちょうど生島さんの一つ前に安西篤子さんが載っていました。そういえば安西さんも、海を越えた直木賞の人です。
昭和53年/1978年10月、尾崎秀樹さんを団長として文芸関係者による訪中団が組まれます。そのとき、生島さんも安西さんも一行に参加しましたが、ともに上海で幼少を過ごした、という似たような境遇の持ち主でした。
生島治郎と安西篤子。その文業からは、とうてい近いところにいた作家とは思えませんけど、あちらは第57回(昭和42年/1967年・上半期)、こちらは第52回(昭和39年/1964年・下半期)。60年代なかばの短い期間に、ともに直木賞を受けた二人であることはたしかです。しかも、どちらも受賞したときは既婚者だったのに、受賞後に離婚を経験することになるという、これはまあどうでもいい共通点ですが、多少の縁があると言えなくもないでしょう。今週もまた、上海に縁がある直木賞受賞者のハナシを続けることにします。
もうひとつ生島さんと安西さんの似た点を挙げるとすると、安西さんが海外に住んだのは、生島さんと同じく父親の仕事の関係だったということです。
安西さんの父親が勤めていた横浜正金銀行は、古くから国内だけでなく世界各地に支店をもち、安西さんが大人になるまでに暮らした土地は、ほぼこの父親の勤め先の事情によって振り分けられた場所になります。昭和2年/1927年8月、とくに安西家にゆかりのない兵庫県神戸市で篤子さんが生まれたのも、たまたま父親の任地だったからですし、同年11月末、まだ首のすわらない安西さんを抱いた両親が、神戸港からマルセイユまで運航する日本郵船の伏見丸に乗って海を越えたのも、父親がドイツのハンブルグへ転勤することになったからです。
小学校に上がる直前まで、ハンブルグとベルリンでそれぞれ3年ずつを過ごします。「私の子ども時代」(昭和54年/1979年9月・家の光協会刊『泣かない女』所収)によると、経済的に恵まれた環境のなか、自由な気風の両親のもとで、何ひとつ不自由に思うことなく育てられた少女時代、これがそのまま続けば何ものからも抑圧されず、のびのびと育って、別の方面で活躍する人になったかもしれません。
それが違う局面に転じるのは、6歳のときに父の転勤で、はじめて東京にいる祖母たちと暮らすことになったときです。ここで安西さんは、祖母から「女の子らしくしろ」「女の子なんだから」と、さんざん旧弊な女性像を押しつけられます。これまでの海外生活ではまず遭遇することのなかった、「女らしく生きる」というかたちを他人から強要される文化。安西さんのからだのなかに強烈な違和感として残ります。
東京での暮らしはまもなく終わり、ふたたび神戸に移ってそこで小学校に入学しますが、すぐにまた優秀な銀行マンの父に転任の命がくだったことで、海を渡ります。赴いた先は中国の天津。そこから上海、営口、青島と足かけ7年にわたって大陸の街で過ごし、まだ日本が戦争をやっている最中に帰国しました。安西さんが女学校二年のときです。中国で見聞したあれこれは、自伝的な小説『黄砂と桜』(平成13年/2001年1月・徳間書店刊)のなかに生きています。
ついに日本が戦争をおっぱじめるという、多くの人の人生を変えた衝撃の事態に遭遇したのが、上海にいたときです。さまざまなことに興味をもち、自我の芽生えをはぐくんだのが、違う国の人たちに囲まれた中国での小学校生活。その後にまた、余人にはわからない種々雑多なことを経験することになり、やがては母親に反対されながら小説の筆をとることになるわけですが、安西さんにとって忘れがたい重要な土地となれば、少女時代を過ごしたドイツもしくは中国です。と、これは本人もいろんなエッセイに書いています。
もちろん、ドイツや中国で成長期を送った人が誰もかれも作家になるわけではありません。日本に戻って女学校に通い、20歳そこそこのときに両親のすすめで、とくに好きでも嫌いでもなかった男性と結婚、一男一女をもうけるうちに小説を書きたくなって、中山義秀さんに読んでもらうようになり、鎌倉を中心に出されていた同人誌『南北』に加わって、何だかわからないうちに直木賞を受賞、というなりゆきも、とくべつ何の傾向にも当てはまりません。はっきり言って安西さんしか経験していない、独特な一本道です。
○
しかしそうは言いながら、直木賞もときどき偶然が起きるから面白いんですが、生島治郎さんの上海に対する情愛から『黄土の奔流』が生まれ、それが生島さんと直木賞を結びつけるきっかけになったのにも似て、安西さんもまた海外で育ったところから、めぐりめぐって直木賞の目にとまることになります。
自分の書きたいものを同人誌に発表しはじめて、まだ日も浅い昭和39年/1964年。安西さんが「張少子の話」という小説を書くにあたって、古代の中国に材をとったのは、大衆読者を喜ばせたかったからではなく、文学賞をとって評価されたかったからでもない、ひとつには中国の風土や歴史に興味があったからです。
「ドイツで私は文字を覚え、ヨーロッパ風の生活習慣や考え方の一端に触れた。ついで中国大陸の風土や文物・人間を知った。どちらも、いまの私を形成する大きな要素になっていると思われる。」(昭和60年/1985年6月・読売新聞社刊 安西篤子・著『旅はびっくり箱』所収「私の故郷」より)
ということで、中国で日々触れた事物への興味は尽きがたく、やがて小説を書く段になってあふれ出てきたようなんですが、後年安西さんが「張少子の話」を書いた頃を振り返っている「思いを託して」というエッセイがあります。自分が数か月だけ暮らした中国の営口は、遼河の河口近くにあり、冬になると凍結する大河の様子が印象的。それと、そこで出会った名も知らぬ美しい少年のことを、いつか小説に書きたいと思っていたそうです。その思いを持ちつづけて10年近くが経ったころに、とりあえず「張少子の話」というかたちで表現されます。
「但し、河の凍る光景は末尾の部分にちゃんと入っているが、幼い恋のほうは曖昧になってしまった。書いているときはわからなかったが、かつての美少年になぞらえたはずの張少子の立場が、むしろ私自身の境遇になっている。私の結婚生活は不幸で、私はそこから抜け出したいと願いながら、そうする勇気がなかった。張少子同様に自分を偽り、悶々と暮らしていたのである。少しも意図しなかったにもかかわらず、心中の葛藤が小説の中に如実に表現されているのに、自分自身、驚く始末だった。(引用者中略)哀れな張少子は、本来の自分に還ることなく、非業に命を落とすが、作者の私は(引用者注:直木賞の)受賞を機に、仮面を棄てて生きることが可能になった。」(平成7年/1995年3月・中央公論社刊 安西篤子・著『生きてきて、いま』所収「思いを託して」より ―初出:『オール讀物』平成1年/1989年2月)
同時に受賞した永井路子さんとともに、主婦作家の誕生だ何だと、やいやい周囲が浮かれ立っていた影で、安西さんは不幸な結婚生活の真っ只中にいたんだと知ると、思わずブルッと震えてしまいますが、印象ぶかい中国での記憶と、現在自分の置かれた状況がミックスされて生まれた小説、ということになるんでしょう。これがポツンと発表されて、たまたま直木賞が見つけて光を当てた、という奇跡に、あるいはブルッと震えなきゃいけないのかもしれません。
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