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2019年9月 1日 (日)

林青梧、中学時代に朝鮮平壌で終戦を迎えて、命からがら日本まで逃げ帰る。

 令和1年/2019年9月現在、まさにいま、リアルタイムでホットな海外といえばどこでしょう。韓国ないしは朝鮮、ということになります。

 とまあ、これは別にいまだけのハナシではなく、直木賞が続いてきた80余年のあいだ、ほとんどの時代でホットな話題の中心にあった海外です。いまさら感が満載すぎて、ホットだホットだと叫ぶのも恥かしいくらいですが、とくに朝鮮半島のあれこれに終生関心を燃やした日本人の作家のうち、直木賞の候補者が何人かいます。今回取り上げるのは、そのなかの代表的なひとり、林青梧さんです。

 林さん、本名・亀谷梧郎さんは昭和4年/1929年11月生まれ。場所は朝鮮半島北部の片田舎だったらしいです。

 当時、半島一帯から大陸の一部にかけての、そのあたりの地域は日本の支配下にあり、岐阜の出身だった林さんの両親も、大正7年/1918年、開拓移民として日本から海を越え、そこに住まいを構えた人たちでした。父親は土地会社の社員だったそうです。

 日本の治政のもとにあった朝鮮の地、多感な少年時代を過ごした林さんですが、徐々に人間としての性格と精神性がはぐくまれてきた15、16歳にいたったときに、その後の人生を変えてしまうほどの、なかなか強烈な体験に見舞われます。昭和20年/1945年8月。戦争していた日本が全面降伏したことです。

 林さんは平壌中学4年に在学していました。日本の降伏が決まると、平壌でも一気に建国の準備が進みだし、たちまちのうちに多くの機関が停止、閉鎖、あるいは接収。林さんには在学証明書なるものが渡されたきり、中学校もいきなり解散して、ああ明日からおれはどこに行けばいいんだよ、という立場に落とされます。子供だけじゃありません。まわりの日本人たちのあいだでも、いったいこれからどうなるのか、噂や蜚語が飛び交います。みな右往左往です。

 亀谷家では、父の判断でここは日本に戻ろうということに決まり、引揚げの準備を始めます。林さんの長兄はすでに満鉄に勤めていて不在。次兄は九州の大学に在学中。彼らを除いて、結婚した姉、その下の家にいる姉、末っ子で中学1年の弟と両親、家族みなで日本まで帰るのに、父親を補佐するような頼りになるオトコ手といって、急激に責任感にかられたのが、15歳の中学生、林青梧さんだったわけです。

 日本人ではありますけど、日本なんてまだ見たこともありません。そんな少年が、急にまわりは敵ばかりになり、敗戦国人の扱いを受けながら約1年ほどをかけて朝鮮の北部から仁川港までたどり着き、日本引揚船に乗るまでの艱難辛苦の体験は、明らかにその後の林さんの人生を変えてしまいます。

 のちに林さんの処女作となる小説「脱出」から、芥川賞の候補に選ばれて落選作でありながら『文藝春秋』に転載された「ふりむくな奇蹟は」など、林さんの作家人生はこの朝鮮北部からの強烈な逃避行体験を描くところから始まります。「原点」と言うと、なんだかカッコつけた感じがあってイヤですけど、生まれてからある程度の年齢まで朝鮮で移民として成長したことと、そこからの困難極まる逃亡が、林さんに異様な熱をもたせて、小説執筆への筆をとらせた大きな背景だったことは、まず間違いありません。昭和20年代、東京都立大学在学中から、自身の朝鮮での経験をモチーフに創作を始めます。

 基本的に、こういうマジメな文学への情熱は、純文芸のほうに向かうもののようです。そちらの界隈でガヤガヤやっていてもらえればいいと思うんですが、ほんとに余計な手を伸ばすのが好きな文学賞に「直木賞」というものがあります。どうせ多くの無知蒙昧な読者たちに読ませるだけの軽い大衆文芸のための賞でしょ、という大半のイメージなど気にもせず、ついつい手を伸ばした先に、やはり林さんもひっかかって、昭和33年/1958年から3度の芥川賞候補のあと、第46回(昭和36年/1961年・下半期)、第51回(昭和39年/1964年・上半期)、第63回(昭和45年/1970年・上半期)と3回も直木賞の候補に挙げられました。

          ○

 3つの直木賞候補作のうち、最も海外テイストの強い作品は第51回の『誰のための大地』でしょうが、これはちょうど林さんが朝鮮で腕白な少年時代を過ごしていたころの、満洲地域を舞台にしたものです。

 自分の経験をそのまま素材にしたように読める小説は、芥川賞の候補にはなりやすくても直木賞の候補にはなりづらい。……とは、よく言われるところです。ほんとに言われているかどうかは知りません。

 ともかく林さんなどは、まさにそういう路線で候補になった人ですが、『誰のための大地』はこの回唯一の長篇、書き下ろしの熱量がこもっていたこともあり、半数近くの賛成票を集めて、ぎりぎり当落の攻防があったんですが、ほんとうに残念なことに面白みに欠ける小説だったので、反対委員がグダグダとケチをつけて、ついには授賞なしとなりました。まったく惜しかったと思います。

 話の全部、資料を積み重ねて、人から取材して、あとは想像力という名の空想で小説をつくる、という力も大事でしょうけど、『誰のための大地』を刊行したときのインタビューで、林さん自身はこんなことを言っています。

「前に書いた『脱出』『ふりむくな奇蹟は』は、大体この(引用者注:自分の)体験をもとにしたものです。こんどの本では、南満地方の間島を舞台にして満州事変前夜の国境紛争、その中に投げこまれた朝鮮人、日本人の姿を描いてみたのです。

(引用者中略)

教員をやりながら書いているのですが、身すぎ世すぎのため小説を書くなら教員をやって食っても同じではないかと思うのです。だから自分の体験から書くべきものだけを書きます。」(『朝日新聞』昭和39年/1964年6月15日「著者と一時間 林青梧氏 体験から歴史小説」より)

 自分の身に起こったそのままの出来事を書くわけではないでしょうけど、しかし「体験」を重要視する林さんの姿勢に、朝鮮で生まれ朝鮮で過ごし……という自分の来し方があったと思われるのは、さまざまな著作のまえがきやあとがきで、多く朝鮮から逃げ帰ったその経験に触れているからです。

 体験をもとにして現代史を書く。体験をもとにして、もっと昔の歴史小説を書く。いいでしょう。これが進みに進んで結局、『「日本書記」の暗号 真相の古代史』(平成2年/1990年)とか『「日本」建国 真相の古代史 藤原不比等の野望』(平成5年/1993年)とか『阿倍仲麻呂の暗号』(平成9年/1997年)とか、そういう本を書くようになるのは、どの程度に林さんの体験が埋め込まれているのか、もはやよくわかりませんが、おそらく林さんのなかでは何をどのように書くか、執筆欲の源はずっと太くつながっていたんでしょう。少なくとも読んで面白い筋書きの小説を書こう、と志していたわけではなさそうです。作品が面白くないという理由で、ギリギリのところで直木賞を落選した、ということも、大した傷ではなかったと思います。

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