生島治郎、上海で気きままに生きていたころの父に親しみを覚えて、小説を書く。
先週は、上海の小泉さんを取り上げました。せっかくのつながりなので、今週も上海の小泉さんのことで行きたいと思います。
生島治郎、本名は小泉太郎。たぶん小泉譲さんとは赤の他人で、血縁関係などないはずです。
あちらは大正2年/1913年に埼玉で生まれた戦前からの文学派、こちらも早稲田大学にいたころまでは純文学志向の強い人でしたが、社会に出てからは一転、そんな青臭い文学観から解き放たれて娯楽街道を突き進み、譲さんとはまったくかけ離れた領域で活躍します。そんな両者の接点といえば、苗字の一致、直木賞の候補になったこと、そして上海との縁です。
小泉譲さんの直木賞候補作に「死の盛粧」(第22回 昭和24年/1949年下半期)という小説があります。上海を舞台にして日本人たちが走りまわるちょっとした冒険小説モノです。いっぽう生島さんは、上海に根を生やす日本人を主人公とした『黄土の奔流』という活劇モノで第54回(昭和40年/1965年・下半期)直木賞の候補になりました。
……なりました、というか、「どうして『黄土の奔流』で生島治郎に直木賞をあげておかなかったんだ」問題は、直木賞史のなかでも特別に珍妙な授賞回として大きな傷を残していて、そうだよね直木賞だっていくらでも失敗をやらしますよね、というその代表的な例として知られています。
大正期のころに中国で生活していた日本人のたくましさは、『黄土の奔流』でふんだんに味わうことができますが、これを書くに当たって生島さんが取材したひとりが、実の父親です。当然、この父親がいなければ『黄土の奔流』はあれほど面白い小説にならなかったでしょう。そもそも作品が生まれることもなく、生島さんが直木賞候補になる機会だってなかったかもしれません。生島さん自身が各所に書き残し、よく知られているハナシっぽいですけど、やはり「海を越えた直木賞」のテーマに、この作家、この作品のことは外せません。
明治29年/1896年、大阪で貿易商をやっていた家に、小泉辛吾さんが生まれます。商売人の父親がかなり年を行ってからの子供だったそうで、子供の頃から京都の親戚にあずけられた辛吾さんは、そこで京都一中に進みます。成績は優秀、試験を受けなくてもそのまま三高に入れる、というぐらいの出来のいい学生だったらしいんですが、ちょうど親が裁判沙汰に巻き込まれたことをきっかけに商売が傾きはじめ、学費も払えない、というぐらい苦しくなったこともあり、年の離れた長兄を頼って上海に渡ります。これが辛吾さん18歳のときだった、というので大正3年/1914年ごろのハナシです。
「やり直し夫婦」(平成6年/1994年10月・中央公論社刊『私の父、私の母』所収)によると、辛吾さんの長兄は、父親の商売の上海支店のようなかたちで同地で商いを営んでいた、ということで、はじめはその庇護の下に置かれますが、血気盛んで行動的な辛吾さんは勝手にいろんな商売に手を出します。『黄土の奔流』に出てくるように、揚子江をのぼって重慶まで歯ブラシ用の豚の毛を買い集めに行ったのもそのころのこと。だいたい20代の時期に当たります。
のちに生島さんは、父親の逸話のなかからこの時代をチョイスして小説のネタに使おうと考えたわけですけど、そこが面白いところだと思います。この小説を書いたころ、生島さんも20代を終えてようやく30歳前後になったばかり。無鉄砲な20代の人間がかもし出す、無鉄砲さゆえの熱情と悲しみがあることを、ひしひしと我が身に実感していたはずです。
さらに後年、生島さんはやはり自分の20代のころを、回想記のような小説『浪漫疾風録』(平成5年/1993年10月・講談社刊)に書き残します。時代とか場所とか、登場する人物像はみなまちまちですが、若いうちのムチャクチャな無軌道というものに、娯楽小説には欠かせない興奮と悲哀の要素がおのずとまといつくことを、生島さんは作家になりたてのときから早くもつかみ取っていたのでしょう。
生島さんの父、辛吾さんが、家族から眉をしかめられるような不安定な生活をしていたのは、生島さんがまだ生まれる前のことです。いや逆か。辛吾さんは30歳で上海で結婚、家庭をもちますが、そういう道に変わっていなければ、生島さんも生まれていなかったかもしれません。
生島さんの表現によると、こうなります。
「三十歳の時、母と家庭をもったことをきっかけに、父はそういう浮き沈みのはげしい職業から足を洗い、いわば堅気の勤め人になることに決心した。彼はもう一度勉強し直して米国系資本の上海電力という会社の技師として入社した。そこで日本人としては異例の幹部になり、第二次大戦と同時に米英人の幹部たちが収容所に収容されると、事実上の支配人となった。
昭和二十年二月まで、われわれの家族はなに不自由ないぜいたくな生活を送っていた。」(『文藝春秋』昭和42年/1967年10月号 生島治郎「青春は風太郎とともに」より)
しかし、贅沢な生活のなかで育った生島さんは、戦争の激化を機に敗戦まぢかの日本に引き揚げ、そこから苦難の青春時代を送るうちに、けっきょくその「浮き沈みのはげしい」生き方に心を寄せ、自身もそういう生き様を展開していくことになります。
○
さて『黄土の奔流』ですが、おそらくあまりに面白くて、つい文藝春秋の編集者も直木賞の予選を通過させたんでしょうけど、選考会ではさんざんに言われて落とされました。
どんな選評が書かれたかは、一部ですけど、うちのサイトの「選評の概要」を参照していただくとして、ちょうどこないだ出たばかりの北上次郎さんの『書評稼業四十年』(令和1年/2019年7月・本の雑誌社刊)にも、それに対する感想が載っていました。
「個人的には、生島治郎「黄土の奔流」が(引用者注:第54回直木賞の)候補になっていることが感慨深いが、冒険小説は直木賞の対象外のようで、「面白いことは無類だが、これが文学だろうか」とコメントは総じて冷やかだ。そういう時代だったのは残念である。」(北上次郎・著『書評稼業四十年』「中間小説誌の時代」より)
ワタクシも残念な気持ちです。
面白いだけでは直木賞はとれない、いや面白すぎると直木賞はとれない、というナゾめいたこの授賞基準が、直木賞の「何だか威張っていてエラそう」という風合いを、一部構築しているのは間違いありません。
そういう意味では、直木賞がいかに微妙な文学賞かをよく現わしていて、残念な気持ちが一周まわって、それが直木賞ですよね、と愛おしくなるのも避けられませんが、ともかく生島さんのハナシに戻しますと、昭和20年/1945年2月、どうやら日本は戦争に負けそうだぞ、と耳にした辛吾さんは、妻、長女、長男(=のちの生島治郎さん)、次男、そして耳の不自由な母親の5人を先に内地に帰すことに決め、引揚輸送船団に乗り込ませます。
そこからの、生きた心地のしない日本までの航海と、帰りついてからの長崎、金沢での疎外感いっぱいの体験が、生島さんの身に重く堆積。文学を愛し、文学を志すいっぱしの青年の血肉となった、とも言います。
果たして『黄土の奔流』から1年半後の第57回(昭和42年/1967年・上半期)に、再度直木賞の候補になった『追いつめる』が、面白いだけではなく文学的でもある小説なのかどうか、なかなか解析しづらい展開ですけど、しかしおれは娯楽小説を書き、娯楽小説で生きていくと言っていた生島さんに、なにがしかの文学的な感覚を、直木賞の選考委員が感じ取ったのでしょう。外地引揚げ組のなかから直木賞の受賞者が生まれ、前後に受賞した五木寛之さんや野坂昭如さん、三好徹さんらとともに、30代なかばの生島さんは、一新されたエンタメ小説界の一翼を担う存在になりました。
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