« 林青梧、中学時代に朝鮮平壌で終戦を迎えて、命からがら日本まで逃げ帰る。 | トップページ | 生島治郎、上海で気きままに生きていたころの父に親しみを覚えて、小説を書く。 »

2019年9月 8日 (日)

小泉譲、上海で働くあいだに同人誌に参加、そのまま敗戦を迎える。

 丹羽文雄門下=『文学者』のハナシとなると、だいたい一世代、二世代まえの、おそろしく古びた臭いが出てしまいます。その割りによく知られた集団なのは間違いありませんから、昭和の文学同人誌を語ろうとすると触れないわけにはいかず、話題としてどこか手垢のついた感が否めません。

 先週の林青梧さんも『文学者』で注目された作家でした。つづいて今週もまた、この集団のなかの直木賞候補者のうち、海を越えた先の土地と縁のあった人を取り上げたいと思います。小泉譲さんです。

 大正2年/1913年に埼玉県で生まれた小泉さんは20代前半のころ、つまり昭和10年代のはじめ、丹羽文雄さんが文壇に現われてまたたく間にその寵児となっていくころには早くも直接の交流をもち、小説に関するアドバイスなどを受けていたそうです。小泉さんの所属していた同人誌は『三角州』という、もう無名中の無名な一誌ですが、丹羽門下と呼ばれる人のなかでも、ずいぶん早い時期から謦咳に接していたことになります。

 慶應高等部を中退したあと、どういう流れからか内務省の検閲係に勤務。作家や文化人の書くものを取り締まる、はっきり言ってほとんど尊敬されない立場の役人として俸給を得ていましたが、やがて満鉄調査部に移って海を渡ることになります。昭和14年/1939年には同社の上海事務所に籍を置いていた、とのことです。

 満鉄調査部の一員として上海で生活する日本人。ということで、ぐいぐいと大陸に進出して支配圏を広げることを国の方針としていた当時の情勢のなかで、文学青年だった小泉さんは、〈外地〉の上海で何とか楽しく過ごしながら、精神的に満たされないものを感じます。そこで現地で同人誌をつくったり、国の方針を越えて中国の作家たちから学ぼうとしたり、さまざまな活動に取り組みます。

 『評伝 丹羽文雄』という小泉さんの著作があります。ここでは著者本人のハナシはほとんど出てきませんが、その当時上海で接した中国人作家と日本人作家の印象が、ほんの少し書き残されています。

「私は当時、上海にいたので、上海にやってきた(引用者注:日本の)有名作家の上海でのふるまいはよくみている。「大東亜文学者大会」などに顔をつらねていい気になって、知りもしない奥地中国文学の在り方をボロくそにいったり、中国文化の低さについて弁じたり、それも酒の肴にいうのだからきいているわれわれの方が辛い思いだった。上海にひっそりと生きている中国の作家の中にも大東亜文学者大会などには顔を向けなければ、生活に困りながらも、奸漢雑誌には書こうとしないで頑張っている人々も相当にいた。私たちはそういう人を探し当てて話し合い、いろいろと教えてもらったものである。今にして思っても学ぶところが多かった。(引用者中略)だが、日本からやってきた先生方からほとんど教わるものはなかった。余ほど日本では酒に不自由していたとみえて酒ばかり呑み歩き、つまらぬ中国の女流作家を追いかけて騒ぎまわっていたような有名作家の日常などには嘔吐を感じた。」(昭和52年/1977年12月・講談社刊 小泉譲・著『評伝 丹羽文雄』「9 文学的昏乱と絶望」より)

 日本から行った連中が、あまりにも唾棄すべき手合いばっかりだったのかもしれません。小泉さんは懸命に嘔吐に耐え、自分がいまいる場所で学ぶべき生活、学ぶべき人生を送る人たちと接しながら、少しでも嘔吐的でない文学の波を起こそうと小説を書きます。

 そのなかのひとつが昭和18年/1943年に発表された「桑園地帯」という、小泉さんの名前が、多少日本の文学者のなかで知られるきっかけとなった作品です。これが芥川賞の候補になり、落選します。そのおかげで、戦後、小泉さんが商業誌にたくさん書くようになった何篇かを、今度は直木賞が候補に挙げることができるようになったのですから、直木賞にとってはよかったと言いますか何と言いますか、小泉譲の運命をにぎった代表作、と言っておきたいと思います。

 掲載されたのは『上海文學』という同人誌です。発行所は上海で結成された上海文学研究会で、発行者兼編集人として武田芳一さんの名が上がっています。この人ものちの直木賞候補者ですけど、それはともかく脇に措くとして、発売元となったのが上海の内山書店でした。小泉さんものちに『魯迅と内山完造』(昭和54年/1979年6月・講談社刊)という本を書き下ろしたりしていますが、「大東亜文学者大会」みたいな官製のウソっぱち国際交流とは対極にいるような、民間の立場からひとりひとり現地の文学者たちと触れ合うところに交流の基盤を置いた内山完造さんが店主を務める、内山書店です。

 こういうところにも、上海にいた小泉さんが自分の尊敬できる人たちと交流を広げ、互いに草の根の文学活動をつづけていたことがうかがい知れます。芥川賞も、こういう雑誌から候補にするだけじゃなく、受賞作を出すところまで行っていれば、少なくとも小泉さんののちの作家的歩みも違っていたんでしょうけど、小泉さん自身、これが芥川賞の候補になって落選したことを「まあそれは余談でどうということはない」(平成2年/1990年5月・批評社刊『上海物語 第一部 顔のない城』(下)「思い出のアルバムII」)と書いていますし、おおむね落選は芥川賞の責任でもあるので、ワタクシの関知するところではありません。

          ○

 小泉さんの上海生活も5年、6年と長くなるなかで、勤め先も満鉄調査部から中国経済文化研究会、上海特別市市政府へと移りましたが、昭和20年/1945年8月、敗戦のしらせを聞かされるその日を迎えます。

 しかし小泉さんが「暑くて、熱い日々―八・一五とその周囲―」(昭和61年/1986年6月・朝鮮青年社刊『共和国紀行 北の貌』所収)で振り返るところによれば、日本がポツダム宣言を受諾して敗北を認めた、という知らせは、8月10日夜から11日朝までには中国にはとうに到達していたらしく、11日の朝、黄包車の車夫から「日本、負けたよ」と嬉しそうな笑顔で言われて小泉さん、がーんと衝撃を受けたそうです。この年、小泉さん32歳、もはやいい大人になっていましたから、価値観がひっくり返るというより、安堵というか痛みというか、冷静ななかで受け止めた面が強かったと思われます。

 その後、もう一回海を越えて日本に帰ってきた小泉さんは、はやばやと旺盛な執筆活動を開始。大衆誌、読み物誌にも発表舞台を得て、第22回、第23回とたてつづけに直木賞の候補にもなりました。

 丹羽文雄さんを通じての古い知り合い、中村八朗さんの小泉さんの評があって、これはもう以前うちのブログで取り上げたかもしれませんけど、直木賞のことが出てくるので、しつこく確認しておきます。

「彼(引用者注:小泉譲)も数回芥川賞、直木賞の候補にあげられ、有力といわれながら逸していた。いわゆる大衆向きのする作風ではなかったからだろう。そんなことは、彼を少々くさらせ足ぶみをさせたかもわからない。

彼は次第に政治に興味を持ち出し、左翼的なものへ傾斜して行った。私は一時そんなことで相談をうけたことがあった。彼のそれまでの作品の内容や思想的な面から、左翼的なものへ動くのは当然かも知れないと思われた。だから「君が一番自分を生かせるという道に、思い切って入って行くのはいいことだろう。文学の道は広いのだ」という意味のことを私は答えたと記憶している。」(昭和56年/1981年1月・講談社刊 中村八朗・著『文壇資料 十五日会と「文学者」』より)

 相変らず中村さんのアドバイスがカッコよすぎてシビれますが、小泉さんの左傾がご自身の文学的な判断からくるものであれば、もはや誰に文句を言われる筋合いもありません。共産的で社会主義的な政治活動に肩入れする、中国・朝鮮といった土地柄に縁の深い作家になっていったことには、昭和10年代に上海で働くあいだに、日本と中国、双方にいる尊敬できる人たちとか、唾棄すべき人たちをさまざまに見聞した経験が、あるいは影響していたことでしょう。

 直木賞のような、何だか偉ぶっている存在に、しっぽを振って近づくような人じゃなかったのはたしかです。変に候補に挙げて腐らせてしまって、ほんと直木賞が存在することが、何だか申し訳ない気持ちです。

|

« 林青梧、中学時代に朝鮮平壌で終戦を迎えて、命からがら日本まで逃げ帰る。 | トップページ | 生島治郎、上海で気きままに生きていたころの父に親しみを覚えて、小説を書く。 »

直木賞、海を越える」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 林青梧、中学時代に朝鮮平壌で終戦を迎えて、命からがら日本まで逃げ帰る。 | トップページ | 生島治郎、上海で気きままに生きていたころの父に親しみを覚えて、小説を書く。 »