石野径一郎、通俗小説で汚れた自分の筆で、沖縄戦のことを書いていいのか思い悩む。
「海を越える」の意味を「外国に行く」というふうに限定しなければ、ハナシはいくらでも広がる気がします。もはやこのブログテーマ自体、内容が茫洋としてきて、別に何を書いても構わないんですけど、とりあえず「海を越えた体験が、作家的な履歴のなかで重要な位置を占める、直木賞の候補者たち」という路線は外さずに進めたいところです。
しかしそうは言っても、地勢的・歴史的な事情から考えて、「海外」の範囲のなかから琉球・沖縄を除くわけにはいきません。
文学史全体でもそうでしょうが、直木賞でも同じです。沖縄に関する小説は、どこか身近な現代物という枠を超えた、異国情緒とも言いがたい独特な位置づけの小説として候補に挙がり、つい最近、真藤順丈さんの『宝島』(第160回 平成30年/2018年下半期)が受賞するまで、挙げられては落とされるという悲しい歴史を刻んできました。
その歴史の最初に出てくる作家というと、第36回(昭和31年/1956年・下半期)に『沖縄の民』で直木賞候補になった石野径一郎さんです。
文学賞とはとんと縁のない石野さんですが、戦前の同人誌時代からコツコツと小説修業を積んだその成果が、思わず花ひらいたのは、何といっても昭和25年/1950年刊行の『ひめゆりの塔』です。沖縄が負わされた悲劇的な歴史に対する作者の情熱がほとばしっていたのはもちろんのこと、衝撃的な素材と、昭和28年/1953年に公開された映画のおかげで、原作者石野さんに対する世間的な注目が一気に増します。
そこに来るまで石野さんがどんなことをしていたのか。ちょっと時間を巻き戻して、石野さんが「海を越えた」頃から追ってみます。
明治42年/1909年に沖縄県那覇市(当時・首里区)で生まれた石野さんは中学まで沖縄で育ったあと、16歳で単身東京に渡りました。大正15年/1926年春のことです。東京には先に叔父が出てきていて、高円寺で男二人、共同生活を営みながら、働くかたわらで学校に通い、勉学に励んだといわれています。以降、基本的には東京で結婚相手を見つけ、式を挙げ、家を見つけて生活を送るという、東京の住民となりますが、当然といいましょうか、心は常に琉球人。とくに戦中、戦争末期に及んで故郷の沖縄が戦場となって、同胞の民たちが戦いに巻き込まれていく様子を、遠く東京や、疎開先の石川県小松で知るたびに、じゅくじゅくと心を痛ませます。
やがて戦後が訪れますが、石野さんはすぐに沖縄の傷跡のことを書ける状況にありません。まずは夫婦と子供2人、一家四人の住まいを確保しなければならない。ということで、変名で通俗小説を書き殴り、三文雑誌の編集を手伝って、まさしく糊口をしのぐことに力を尽くします。
しかし沖縄に対する愛惜を忘れられるわけもなく、昭和24年/1949年、たまたま沖縄の先輩でキリスト教関係の人からひめゆり部隊の資料を渡されたことをきっかけに、これを小説にしてみることになるのですが、そのときに石野さんのなかで葛藤が渦巻いたそうです。それは、低俗な読みものにさんざん書いて手を汚したおれが、あるいは宗教のことを馬鹿にしていたおれが、どんな顔してこれを書けばいいんだ、という悩みでした。
「さて、私は沖縄戦を小説にかこうとして、又もや考えさせられた。それは、自分の名が、自分の心が、生活のためとはいえ、低俗なストーリーテーラーで汚れていることに絡んだ。宗教を軽蔑していた頃の言動にもひっかかった。しかし、一方、故郷は牢屋の中だ。他人事ではないと叱咤する内の声を絶えず耳のそばできいていた。」(『民主文学』昭和45年/1970年8月号 石野径一郎「遙かに獄中の故郷を望む心」より)
だいたい沖縄のことをいかように書こうが、それに文句を言う奴のほうが狂っている、とも思いますけど、どんなチッポケなことでも世間はいつも、文句、文句にあふれていますし、沖縄の歴史や実状となれは、これはチッポケなことでもないので、よけいに悩む対象でしょう。しかし、ここで石野さんが、通俗小説を書き散らしたという自分のなかの恥を振り切って、ドキュメンタルに沖縄とそこに生きた人たちを描く道に足を踏み出してくれたおかげで、ゆくゆくひとり直木賞の候補者が生まれるのですから、直木賞ファンとして諸手を挙げて喜びたいと思います。





最近のコメント