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2019年8月 4日 (日)

藤田宜永、大学を中退して何も決めずにフランス・パリに渡る。

 うちのサイトやこのブログが、たとえば「おれは作家になりたい」とか「直木賞をとりたい」とか、そういう動機で続けているものだったら、確実に別のテイストになっていたと思います。そうだよおれは直木賞がとりたいんだよ、とウソをついてまでブログを続ける必要もないので、これまでどおり直木賞に関わるあらゆる事象を見つけては、取り上げていく方針に変わりはないんですけど、これほど何の役にも立たない時間のつぶし方はないよなあ、と思ったりもします。

 直木賞の受賞者や候補者のなかで、海外に縁の深い人は数多くいます。その海外との関わり合いや履歴を調べたところで、「直木賞」という賞がわかるわけではありません。しかし、小説をいくらたくさん読んでも、直木賞の解説記事を読みあさっても、結果、直木賞がわかったことにならないのは同じなので、はっきりいえば何をやっても無駄で無用です。「直木賞の総体」というものを少しでも知ろうとする過程が楽しい、というのは事実ですが、こんなものに絶対的な答えなど存在しません。

 そういったなかで、今週主役になってもらうのが藤田宜永さんです。

 何が「そういったなか」なのか、相変らず無理やりなこじつけなんですけど、海の渡り方と直木賞との関係性に、絶妙な美しさを兼ね備えた作家。それが藤田さんという人物です。

 福井県で生まれ育った藤田さんは、どうにもガミガミうるさい母親とソリが合わず、中学卒業後、故郷を逃げ出すように東京の高校に進学します。10代後半から20代前半、多感でやんちゃな青年時代を東京で過ごしたのち、早稲田大学を中退して、これまた逃げ出すように海を渡ってフランスに移り住んだのが昭和48年/1973年。23歳のときでした。

 大学では勉強もそこそこに遊びほうけて留年を食らい、やばい、アノ憂鬱な故郷に連れ戻されてしまう、といった状況だったそうです。あるいは日仏学院に通ってフランス語を学ぶうちに、新宿の居酒屋でフランス人の女性と知り合い、彼女の帰国に合わせていっしょに付いていく、というようなラブストーリーもあったとも言います。ともかく海を渡るには、いろいろな理由がからんでいたそうですが、他人がとやかく言えるものではありません。自分の人生です。好きにするのがいちばんいいと思います。

 誰かに決められた路線を行くのではなく、その場その場の、自分の感覚で動く。そこが藤田さんのいいところでしょう。海外に行ったからといって、その先に何があるか。思慮深い計画があったとも思えません。60年代以降に青春時代を過ごした、数多くの風来坊野郎たちと同様、安定や安心にしがみつかずに、まあ何とかなるよの浅い感情で歩みを決める。フランス渡航のきっかけになった彼女とは、最終的には破局しながら、昭和55年/1980年の夏まで約7年間、フランスのパリに住みついてとりあえず死なずに生活を送ることができたのは、べつに将来のことなんか考えていなかったからでしょう。人を喰ったと言いますか、なかなかの自由人です。

 何か物でも書いていけたらいいな、と漠然と思っていた藤田さんですが、帰国後にそこにこだわった様子もありません。四谷のマンションでフランス語教室を開き、そこで教えるうちにシャンソン歌手の芦野宏さんに縁がつながって、舞台の演出を手伝うというような暮らしを送ります。

 そんなときに「フリーライター」として出版社に縁ができたのは、パリにいたときにたまたま知り合った笠井潔さんが、こんな面白い奴がいるといくつかの出版社に紹介してくれたからだそうで、いつの間にやら出版業界に片足を突っ込んだような状態になります。同じく出版業界の人でありながら格段に藤田さんより有名だったエッセイスト、小池真理子さんと知り合ったのも、笠井さんの紹介だそうで、いつも自分より先を行くスーパー・パートナーの傍らで、まるで卑屈になることもなく「おれはおれだ」の態度を貫く藤田さんの姿は、当時からそんなに変わっていないようでもあります。

 ……というところで、藤田さんのまわりに直木賞の影がちらつきはじめるのが、平成7年/1995年ごろからです。

 はじめての小説『野望のラビリンス』(昭和61年/1986年10月・角川書店/カドカワノベルズ)を出してからほぼ10年。絶対的な人気作家、ということはなかったですけど、主にミステリーや冒険小説を異様なまでに持ち上げたがる、80年代から90年代の、ちょっと熱狂しすぎて頭のネジが外れたような人たちに熱く推される作家として、注目を集める人になっていたのはたしかです。とくに平成6年/1994年11月刊行の『鋼鉄の騎士』(新潮社/新潮ミステリー倶楽部)は、「長いことはいいことだ」の風潮にもうまく乗って、藤田さんの代名詞的な作品となり、山本周五郎賞の候補にまでなりますが、帚木蓬生さんの『閉鎖病棟』に負けてけっきょく受賞にいたらなかったのは、まだ文学賞が、ごった煮の熱いエンタメに手放しで熱狂するほどの事業になり切れていなかったからです。

 そのままの作風を守っていたら、藤田さんが直木賞のなかで語られる場面もなかったと思います。もしくは直木賞の舞台に現われるにしても、ずっと遅れていたかもしれません。これがそうはならなかったのは、ひとえに藤田さんが誰かに決められた路線に行くような人ではなかったからです。

          ○

 さかのぼって藤田さんが福井から上京して入った高校では、まわりはみんなシュールリアリズムだとかジャン・ジュネだとか小難しいことを言いたがり、大江健三郎や高橋和巳を読んで論争するような連中ばかり。いまでもだいたい若者が純文学にカブれるとキモち悪い空気感を漂わせるものですが、当時もやはりそういうところがあって、男と女のことを書く吉行淳之介の小説が好きだった藤田さんは、さんざん馬鹿にされたそうです。吉行好きで馬鹿にされるとは、それも相当かわいそうな環境です。

 いつかは恋愛小説を書きたいと思って、しかし最初のうちは技量も経験も足りず、好きなハードボイルド、私立探偵、冒険小説といった系統のものを書いていましたが、結果としてだからこそうまく受け入れられた、というのは否定できません。当時の「ミステリーにあらずんば小説にあらず」の潮流は誰かひとりの力で抗えるようなものでもなく、そのおかげで藤田さんも徐々に小説家として注目され、発表の場も広がっていきます。

 そんなところで『オール讀物』から注文を受けて書きはじめたのが、1970年代後半のパリを舞台に、日本での職を捨ててパリに渡った語り手が、昭和のはじめごろにパリに滞在したという祖父の跡を追いながら、当地のさまざまな人間たちの過去と現在に触れていくという『巴里からの遺言』です。これをミステリーなどと呼んだらミステリー原理主義者から確実に怒られる、言葉を変えれば、これまでよりも文学賞向きですね、というような連作集に仕上がり、晴れて第114回(平成7年/1995年・下半期)の直木賞の候補に挙がります。

 そこから、冒険小説作家の鎧を脱ぎ、かねてから書きたいと思って腕がうずうずしていた現代恋愛小説を多く手掛けるようになって、はじめての候補から5年半、第125回(平成13年/2001年・上半期)直木賞を『愛の領分』で受賞しますが、このいかにも狙ったような作家生活の動きが、まったくたまたまだった、というところが直木賞史における藤田さんの特徴でしょう。

「作家になってから行き詰まりを感じたことはもちろんあるよ。かみさんと露骨に比べられたりしたしね。あいつの方は、暮らし始めたときから小説家をめざすとか考えてたし、テレビで直木賞のニュース見ながら私たちだって可能性あるのよね、と言ったこともあります。俺は考えたこともなかったね。食えればいいから。(引用者中略)

転機というのは特になくて、ハードボイルドから恋愛小説に移行したと言われたけれど、男と女の話を書きたいっていうのは昔から思ってたことだからね。日本推理作家協会賞をもらった直後に恋愛小説を書いたのは、読者が二つに分かれるから戦略上まずいんだけど。そのときそのとき好きなものを書いてきたから。」(平成26年/2014年2月・KADOKAWA刊『作家の履歴書 21人の人気作家が語るプロになるための方法』「藤田宜永」より ―構成:佐久間文子)

 こういう発言が単なる強がりに見えないのは、ほんとうに未来の人生に対して設計図を描かず、そのときそのとき自分のアンテナが向いたほうに行き先を決めてやってきた人だ、という藤田さんの来し方が背景に見えているからです。

 作家生活を送るうちに、なぜか直木賞の候補の対象に含まれるようになって、なぜか受賞に選ばれてしまった藤田宜永。その行程を見たところで、とうてい真似できるわけではありません。たしかに何の役にも立ちませんけど、こういう不思議な授賞をやらかすから直木賞は見ていて面白いんだと思います。

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