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2019年8月25日 (日)

醍醐麻沙夫、表現欲が高まった末に、ブラジルから日本の新人賞に小説を応募する。

 海外に渡り、海外で小説を書きはじめ、海外在住のまま直木賞の候補になった人がいます。醍醐麻沙夫さんです。

 それで受賞していれば確実に「直木賞、海を越えた」ということで、世を挙げての大騒ぎになったと思いますが、世を挙げようがそうでなかろうが、文春社員の予選委員たちがこの人を予選通過させた段階で、直木賞はもう海を越えています。今回はブラジル日系作家の雄、醍醐さんのおハナシです。

 昭和10年/1935年に生まれた醍醐さんは学生のころから音楽にハマり、クラリネットを吹いたりしていましたが、いっぽうで学生運動にも参加。学習院大学に通っていたちょうど最後のほうは、日本では60年安保をめぐる、何が善で何が悪なのか、誰が味方で誰が敵なのか、混然とした状態に多くの若者たちが刹那的に熱狂していたころに当たります。醍醐さんもその運動に加わり、国会議事堂前のデモに身を投じたりしたそうです。

 そんな頃合いの昭和35年/1960年に大学を卒業、ほぼすぐに醍醐さんは単身、おそらく未来の展望など何もないままでブラジルに渡ります。たしかに深い未来像などなかったんでしょう。横浜で生まれ育ち、港を行き来する外国船が目の前にあった、つねに身近に外国の風を感じていたわけだから、学校を出たら外国に行ってみる、というのはなかば自然な行動だった、と醍醐さんは書いています(平成8年/1996年4月・つり人社刊『アマゾンの巨魚釣り』)。あるいは『「銀座」と南十字星』(昭和60年/1985年8月・無明舎出版刊)の「あとがき」では、別にブラジルに長くとどまるつもりはなかった、とも述懐しています。

 ところが人生というのは恐ろしいです。何気なく渡ったブラジル、そこで出会ったアマゾンの風物や、日系移民を含めたさまざまな人たちに関心が深まるままにズブズブと、醍醐さん自身、移民となってブラジルに住みつきます。のちに醍醐さんが、現地のことを現地の人間の感覚で語れる日本人の書き手、という得がたい立場になっていくのは、多少は狙ったところもあったかもしれませんが、おおよそは偶然の産物でしょう。

 さて20代でブラジルにやってきた醍醐さんですが、最初はやはり自分の得意とする音楽の世界に入ります。ナイトクラブでピアノを弾くという職をゲットし、数年間働くうちに、サンバやボサノバを身につけます。しかしどうやら、このままやっても駄目だな、と夢を追うことをあきらめたのが、だいたい30歳を迎えるか迎えないかのころ。きちんとした職に就こうと、玩具輸入商会に外交員として就職しました。ここでの見聞が、のちにオール讀物新人賞に応募した「「銀座」と南十字星」という小説に活かされている、といいます。

 しかし、おそらく人に使われる会社員生活に馴染めなかったものか、1年ももたずに辞めて、自前で画廊をオープン。経営が立ち行かず火の車。若者向けファッションの店をオープン。こちらは成功してようやく収入に恵まれた生活を手に入れることになります。

 金は稼げるようになった。高級住宅街にも住めるようになった。だけど、それがいったい何なんだ。……と、どうにも満たされない思いを抱えてしまったところに、醍醐さんの人となりが現われているんでしょう。そんな折りにサンパウロの日系社会のあいだで『コロニア文学』という同人誌が創刊されたことを知り、なるほど小説か、それなら自分の表現欲を満たせるかもしれない、と思ったそうです。昭和41年/1966年。醍醐さんが31歳のときでした。

 おれの青春放浪もひと区切りだ、自分の経験をもとに小説としてまとめて発表してみよう。ということで、醍醐さんが『コロニア文学』に参加したのは創刊2年後の昭和43年/1968年7月刊(第7号)から。処女作が存外の好評を得たことで醍醐さん自身も、背を押されたところがあったはずです。表現欲もぐんぐん高まり、成功して儲かっていたはずの事業を思い切って放棄。これからも小説を書き続けるために自由な時間と環境を求めて、海辺の村に日本語教師の職を見つけます。

          ○

 表現欲がぐんぐん高まり、というのはいいとしましょう。地元の日系人社会で読まれるための同人誌に、日本語で小説を発表する。強烈な表現欲のたまものです。しかし、そこから『群像』とか『オール讀物』とか、日本で刊行されている商業的な雑誌の新人賞に、わざわざ応募しようという気持ちになって、実際に行動を移すまでには格段の飛躍があります。

 ブラジルのサンパウロで日本語教師をしていた昭和49年/1974年、醍醐さんはオール讀物新人賞を受賞しました。これが翌年『オール讀物』に「夜の標的」の掲載につながり、文春の人たちの期待を受けて第74回直木賞の予選を通過することになる、大事なきっかけですが、新人賞の受賞のことばを読み返すと、行間に記されていないものが多すぎて、すんなり理解するのが厳しいです。

 こういう文章です。

「外国に長く住んでいると、文字でないと表現できないものが躰にたまる。いつの間にか小説を書きだした。それを、日本の片隅でひっそりと発表できたら、と希った。しかし、ここからは新人賞しか作品を送る手段はない。応募したくせに、受賞ときいてむしろ呆然とした。」(『オール讀物』昭和49年/1974年12月号「第45回オール讀物新人賞決定発表」醍醐麻沙夫「受賞のことば」より)

 醍醐さんの受賞のことばは、このあともう少し続きます。ただ、ここまでの5つの文章によく現われています。それぞれの文章の連関というか、一文から一文に移るときの飛躍のすごさ。「小説を書きだした」までは理解できても、どうしてそれを日本の片隅で発表できたらと願うのか。新人賞しか作品を送る手段がない、なんてことはいくら何でもないですし、「呆然」という表現もにわかに信じがたい。

 しかしもちろん、これが醍醐さんの当時の心境であることに間違いはないでしょう。そこを信じないと前に進めません。

 直木賞が候補作の選出というかたちで、このときはるか海を渡ることができたのは、じっさい醍醐さんが小説作品のかたちで逆にブラジルから日本に渡ってきてくれたおかげです。なぜサンパウロ近辺の日系人社会向けの同人誌では飽き足らずに、日本語が読める日本の多くの読者に読まれることを願ったのか、そこにこそ表現欲のもつ偉大なるパワーが現われているのだ、と理解しておきたいと思います。

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