平田敬、コロラドあたりの峡谷をイメージして小説を書き下ろす。
だいたい40年まえの昭和52年/1977年。平田敬さんが『喝采の谷』(昭和52年/1977年4月・講談社刊)という題名の長篇小説を書き下ろしました。舞台はアメリカのサスカラン峡谷。ということになっていますが、そんな場所はじっさいには存在しません。
単行本には、城山三郎さんと平田さんの対談「生涯を賭ける充実感」という差し込みの付録が入っていて、平田さん自身がその峡谷のことを語っています。「風景としてはコロラドですが、ニューヨークからの距離としてはシカゴから少し南、という感じ」だそうです。
小説の視点人物は越永四郎という男で、日本のテレビ局の報道局に勤めているという設定ですが、たまたま観光旅行の途中で、そのサスカラン峡谷を綱渡りしようとしているアルバート・シロニーという老人と出会います。おお、これはドキュメンタリー番組に仕立てたらきっと面白いぞとひらめいて、旅行先でありながらカメラマンを手配したり、老人夫妻に取材したり。当時、TBSの敏腕局員だった平田さんお得意の素材と言いましょうか、「テレビをつくる側の人間」と「撮られる対象」、その関わり合いのなかで話が組み上げられていきます。
第62回(昭和44年/1969年・下半期)の「ダイビング」につづいて『喝采の谷』は第77回(昭和52年/1977年・上半期)の直木賞候補に上がりました。60年から70年代といえばまさに、放送業界の人たちが続々と文芸の畑で評価されていく時期に当たります。明らかに平田さんなどはその中核をなす一人で、本来直木賞のなかでもそういった側面からとらえたほうがいいはずですけど、うちのブログではずっと触れる機会がありませんでした。正直いって、どうにも取り上げづらいというか、パッとした業績のない作家なのはたしかです。
デビューの経緯からしてもう、かなりパッとしていません。
……パッとしていないと言うと、また語弊がありますが、平田さんはTBSに入るまえ、化学工業の会社に勤めていた時期があり、そのころに書いた小説「平和の日々」を群像新人文学賞に応募、最終候補にまで残ります。しかし、この回は当選作がなく、最優秀作に成相夏男(上田三四二)さんの「逆縁」が選ばれて、平田さんの作品はあえなく落選します。
後年平田さんは『昭和の子どもよ ぼくたちは』(平成18年/2006年8月・文藝春秋刊)という小説で、ここらあたりの経緯と似通った場面を描いています。それによると四人の選考委員のうち、強く推してくれたのが作家の〈村岡利平〉。対して文芸評論家の〈野平慎一〉は強く否定、文芸評論家の〈河野卓郎〉はどちらとも決めかねて、過半の票は得られず、結局受賞作なしということで新聞発表をしてしまったが、遅れて滞米中だった作家の〈加藤精〉から手紙が届きます。そこにあったのは、主人公の応募作を大絶賛する文面。選考会の日までにその手紙がちゃんと到着していれば、確実に受賞作になったはずだが、マスコミ発表をしてしまっているので、応分の原稿料を支払って雑誌に掲載する、というかたちで納得していただけないか、と主人公は編集部の人に言われた、ということです。
現実の群像新人文学賞を見ると、この回の委員は、作家の〈大岡昇平〉、文芸評論家の〈平野謙〉と〈中村光夫〉、外遊中で選考会に欠席した作家の〈伊藤整〉という4人です。ほんとうに『昭和の子どもよぼくたちは』で書かれたように、平田さんの応募作がぎりぎりで当選を逃して雑誌掲載となったのか。その可能性は高そうなんですけど、ともかく平田さんは「最終落選作」でデビューを果たし、そして無冠のまま作家人生を送ることになります。文学賞を「当選か落選か」の軸だけで見れば、パッとしない業績の持ち主です。
直木賞のほうでも候補に挙がった二度とも、やはり選考会ではさんざんな評価を受けました。二度目の『喝采の谷』のときには、選考委員の源氏鶏太さんや村上元三さんが、単に一人の男が綱のうえを歩いて谷を渡る、というそれだけのことを書くために、余計な枝葉を足しすぎている……とか何とか言い、他の委員はみな黙殺するという仕打ちです。
当時は、どうということのない候補作は、こぞって委員から黙殺される風潮があり、その面でも現在の直木賞とはまるで構えが違いますが、ここで平田さんが直木賞でももらっていたら、もう少し違うタイプの「海を渡った作家」になったかもしれません。
直木賞の候補になって落選してから約2~3年。昭和54年/1979年に平田さんはTBSを辞め、翌年、家族とともにハワイに移住します。50歳を前にした40代終盤のころです。以来、平成12年/2000年までの20年間、日本の出版界のなかでの平田さんは、ハワイに住んでいる強みを生かした当地での見聞や、海外に住んでいることでわかる日本人たちの生態論など、80年代以降現在にいたるまで、無数の人間によって無数に書かれたような記事を、ときどき発表する海外在住ライターとなりました。
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ハワイに移るまえに平田さんが書いていたエッセイなどを読むと、好奇心が旺盛で、行動力にあふれ、世界各国さまざまな土地を旅しています。サーカスの綱渡り師の話も、パリに滞在中、ぶらりと入ったナイトクラブでたまたま知り合ったドイツ人から聞いた話が着想のヒントになったと言います。それでコロラドの深い峡谷をイメージして、すべてアメリカで始まってアメリカで終わる小説を書くぐらいですから、日本の土地に縛られない感覚の持ち主だったことと思います。
『喝采の谷』の折り込みで対談している城山三郎さんもそうですが、平田さんが小説家として徐々にキそうになっていた60年代から70年代、日本ではなく海を越えた土地の視点で小説を書ける人材が、多分に出版界で求められていました。平田さんが帰国する2000年までの20年間、日本人が海外で何を見て、どう感じ、どう暮らしているのか、といった情報はもはや世間に氾濫してしまい、ハワイ在住の作家、といったところで大した珍しさもなくなります。平田さんひとりが切り開いた道じゃないですけど、でもそういう「海外に移り住んでしまう物書き」の礎を築いたひとりであることは、否定できないところでしょう。
ということで、昭和55年/1980年、まだまだこれからが働きざかりという49歳のときに、どうして平田さんは日本を離れたのか。そんなこと、理由をひとつに絞れるはずもなく、平田さんの『ニッポン脱出 ハワイに住んで 子ぼんのうオヤジの子育て奮戦記』のなかにも、「このときの私の心情を精確に語ることは、いまでもむずかしい」と書いてあるんですが、ここにちょうど、平田さんが『喝采の谷』で直木賞の候補になったころのエピソードがポロリと出てきます。
「そうした時期に、コロラド州デンバーにある大学から、日本文学の講師にならないかという誘いがきた。どうしてきたのか、これは今でもわからない。私にはコロラドにはまったく知縁がない。私の友人たちもそうだ。
「デンバーには“マイル・ハイ・シティ”というニックネームがある。つまり、海抜一マイルの高原にあって、あそこに行くとぜんそくが治る」と言ったぜんそく持ちの新聞記者M君が、私の友人のなかで唯一人のコロラド通? であった。
ぜんそくの持病のない私はこの話を辞退したが、東京から逃げ出したい、いまの東京とは別の生活文化のなかで暮らしてみたいという考えが私の心のなかに萌(ルビ:きざ)したのは、このときであった。私はすでに四十六歳だった。」(平成1年/1989年6月・ネスコ刊、文藝春秋発売、平田敬・著『ニッポン脱出 ハワイに住んで 子ぼんのうオヤジの子育て奮戦記』より)
本人が「今でもわからない」と書いていることを、他人がわかるはずありませんが、平田さんが46歳ということは『喝采の谷』が刊行されてまもなくです。コロラドの風景を思い浮かべて自然の描写も堂に入った小説を書いてからじきに、縁もゆかりもないコロラドのデンバーの大学から誘いがくる、というのは何とも奇縁です。
だけど、ちょうど『喝采の谷』を出したころに、平田さんの心のなかに東京を出たい! 一家で海外に移り住みたい! という感情が芽生えはじめた、ということですので、ここはひとつ『喝采の谷』は、日本人一家が海を越える、そのかたわらにあった直木賞候補作、と言っておきたいと思います。
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