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2019年8月18日 (日)

神崎武雄、南シナ海の洋上で沈没した戦艦に乗り合わせ、命を落とす。

 今年もまた8月がきました。毎日が暑いです。こんな季節に海外のことを書くとなれば、中国大陸や太平洋を舞台にした例の戦争に触れないわけにはいきません。直木賞にとっても無関係とは言えない戦争です。

 昭和10年/1935年に始まった直木賞は、戦中の第20回(昭和19年/1944年・下半期)までに15人の受賞者を出しました。そのなかにあって戦争で命を落とした人がひとりだけいます。神崎武雄さんです。

 明治39年/1906年生まれの神崎さんは、早稲田の文科で学びながら途中で退学、その後に『都新聞』に勤めます。もとより作文が大好きで、ゆくゆくは物を書く仕事に就きたいという希望があったらしく、青年のころには国柱会の『天業民報』に「おばあさんの話」と題する文章を発表したこともあったそうです(『真世界』昭和31年/1956年9月 星野武雄「神崎武雄よ、母も子供たちもこの通り元気だ」)。

 やがて長谷川伸さんと出会って、その勉強会に出入りするようになると、昭和15年/1940年から十五日会(のちの新鷹会)に参加。本格的に小説を書きはじめ、『大衆文藝』に発表しはじめたところ、いきなり直木賞の候補に挙がるなど、仲間うちのなかでも俄然注目される存在になります。『オール讀物』の香西昇さんが中心となった若手作家の集まり「礫々会」のメンバーにも選ばれて、大衆文芸作家への街道まっしぐら、という感じです。

 注目の新進作家となったことが、その後の神崎さんの運命を変えることにもなりますが、それはいまさら言っても仕方がない人生の綾というものでしょう。何度か直木賞の候補になるうちに、当時予選を担当していた小島政二郎さんに期待をかけられて、昭和18年/1943年2月、第16回(昭和17年/1942年・下半期)で受賞を果たします。このとき神崎さん36歳。同時に受賞した田岡典夫さんは34歳。のちに田岡さんが長く作家として食っていったことを考えると、神崎さんも同じくらいに活躍してもおかしくありませんでした。

 ところが神崎さんは、海軍の報道班員のひとりに任命され、南洋シンガポール付近へ派遣されます。おそらく昭和18年/1943年、直木賞を受賞してまもなくのタイミングです。日本には妻の愛子(よしこ)さんと、男1人女3人の子供を残していましたが、昭和19年/1944年には妻が第五子を出産。父親と対面することの叶わなかったその5番目の子が神崎東吉さんという人で、のちに自費出版の編集者となり、幻冬舎ルネッサンスや無双舎というところで編集業務に就いていたことが、いまもネット上などで確認することができます。

 その東吉さんを産み落としたあと、母の愛子さんは体調を崩してしまい、回復を見ることなく昭和19年/1944年6月17日に帰らぬ人となってしまいます。彼女を看取ったのは、神崎さんの母親の靖子さん。九州の門司で料亭を経営していたという人で、父も母もいない5人の孫をそのままにするわけにはいかず、東京に住まいを移して育てていくことになるのですが、その後も神崎一家は長谷川門下の新鷹会との縁を保ち、『大衆文芸』誌上や関係者たちのエッセイなどで折りに触れて、靖子ばあさんと孫たちの様子が書き残されています。

 それはそれとして、いっぽう南洋に派遣された武雄さんです。彼の最後の姿を見た、と証言する中満中佐という軍医がいます。ほんとに偶然、中満さんと山陽線の列車に乗り合わせた北村小松さんがその最後の様子を聞くことができたという話を、山岡荘八さん(『大衆文藝』昭和21年/1946年10月号「消えざる笑顔」)や村上元三さん(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊『思い出の時代作家たち』)などが紹介してくれていて、まとめてみると、こうなります。

 第五子の誕生と、妻・愛子さんの死を、どうにかして神崎さんに知らせたいと思った新鷹会の面々は、海軍省に掛け合って連絡をつけてほしい、早く帰還命令を出してほしい、と嘆願したそうです。シンガポール(当時の日本名で昭南)に駐在していた神崎さんは海軍からの電報を手にし、おそらく驚き、悲しみ、一刻も早く帰らなければと思って帰還の手続きをとりますが、昭和19年/1944年の夏、そうやすやすと日本に帰れるほど軍の体制が整っていたわけではなく、なかなか航空便の手配がとれません。

 すると、ちょうど内地へ向かう船団を護衛するために軍艦「雲鷹」が出港する、という情報が入り、海軍士官にすすめられて神崎さんもその船に乗せてもらうことになります。9月11日に昭南を出港。台湾南部の高雄を目指して北東に進路をとり、おおむね順調に航海をつづけました。

 というところで雲鷹は被雷、沈没することになりますが、さすがにその詳細は山岡さんや村上さんの筆からはわかりません。それについては当時、同艦の記録指揮官だった土田国保さんの「雲鷹被雷之記」(昭和43年/1968年2月・浴恩出版会刊『海軍主計科士官物語』所収)を参考にしてみます。

 そろそろ台湾も近づいてきて、9月17日中には高雄に入港できる、というところまで進んできた「雲鷹」。17日に入ったばかりの真夜中、00時05分ごろに突然爆発音のような轟音が艦内に響き渡ります。艦体は激しく横に揺れ、乗船者みな騒然。海上に見えている、護衛対象の一隻だった「あずさ丸」はといえば、どうやら雷撃を食らったらしく炎を上げてみるみるうちに沈没していきます。「雲鷹」も敵の潜水艦から爆撃をもらったことが判明し、艦内は応急の作業で夜どおしてんてこまい。やがて白々と夜があけて、海面の様子も目に入るころ、上甲板に総員集合せよとの命がかかります。被雷の跡いかんともしたがく、これ以上持ちこたえられないと見て、総員退去の判断がくだったのです。

          ○

 「雲鷹被雷之記」を書いた土田さんは、雲鷹を沈没させた潜水艦名はバーブ号(BARB(SS-220))で、地点は北緯19度18分、東経116度26分だったと「(後記)」にしるしています。アメリカ国防省戦史室の記録によるそうです。

 さて、総員退去、と言われた乗船者たちですが、具体的にどうしたかというと、全員が海に飛び込み、艦体から離れながら木材につかまったり泳いだりして、やがて救助の艦がやってくるのを待ったのだといいます。ところが船が沈没したそばから重油が海に広がって、これを頭からかぶって異臭がひどく、しかも冷たい海水に漂ううちに体温と体力が奪われて、ついに力尽きてしまう人も多かった、というのが土田さんによる記録です。

 救助作業は朝方から昼まで、午前中を通して行われますが、

「二時間立チ、三時間立チ既に水中ノ者ハ半分影ハ無シ。次第ニ力尽キル者アリ。皆側ニ寄リテ沈マントスルヲ励マス。

(引用者中略)

艦ノ上甲板ハ重油ノ塊ノウゴメク如ク黒坊右往左往シ皆生気ニ乏シ。負傷者モ多シ。舷ノ周囲ニハ漸ク舷側迄来タリテ残念乍ラ力尽キテ沈メル人々ウツブセニナリテ処々ニ見ユ。」(土田国保・著「雲鷹被雷之記」より)

 という悲惨なありさま。

 救われた人もいれば、救われなかった人もいる。両者のあいだに、いったい何の差があったのでしょう。そんなところに理由を求めはじめると、答えのないイカガワしい文章になるはずなので、さっさと切り上げますが、神崎さんは退去命令でみんなとともに海に飛び込み、しかしその後救助されずに死んだ側に含まれます。なぜなのか。理由はわかりませんし、あるいは理由なんかないでしょう。

 神崎さんが曲がりなりにも小説家として活動できたのは、昭和15年/1940年から昭和17年/1942年、ほんのわずかな期間でした。大衆文芸も純文芸も、みな一様に国威発揚を求められた時代です。そんな時代に先輩作家たちから「文芸的に(いや、大衆文芸的に)認められる」というのは、自由に何でもテーマにできる時代とはまた別種の困難があったのは言うまでもありません。その難所をくぐり抜けただけでも神崎武雄という人は貴重な存在ですが、しかも撃沈させられる戦艦にたまたま乗り合わせてしまって、直木賞受賞者のほかの誰ひとり経験していない戦没者の列に加わってしまいます。決して幸運だったとは口が裂けても言えません。ただ、ある種の「運をモッている」人だったことも、また否定できないところです。

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