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2019年7月 7日 (日)

西木正明、大学時代にベーリング海峡徒歩横断を計画してアラスカに渡る。

 もうじき選考会が開かれる第161回(平成31年・令和1年/2019年・上半期)直木賞では、候補作に窪美澄さんの『トリニティ』(新潮社刊)が選ばれています。

 1950年代、60年代ごろからの出版社、とくに雑誌業界で出会ったイラストレーター、フリーライター、編集部の事務員という3人の女性と、それから2世代あとに生まれた編集者(もしくはライター)志望の1人の女性が、主要な登場人物になっています。これはこれで中高年ないし高齢の方々の、かつての雑誌というものに対する、引くぐらいの愛着や関心をそそる設定だと思いますが、モデルとなっているのは、昔の平凡出版、いまでいうマガジンハウスの、『平凡パンチ』とか『an・an』とかそのあたりのことです。

 『トリニティ』に関しては、各自、興味があれば読んでいただければいいんですが、そういえば昔、平凡出版の社員として雑誌づくりに携わり、のちに直木賞を受賞した人がいましたよね。ということで、今週は西木正明さんにフォーカスしたいと思います。

 何ひとつ『トリニティ』と関係がありません。ブログテーマが「直木賞、海を越える」なので、強引に西木さんに結びつけるために、話のマクラにさせてもらいました。すみません。

 西木さんのデビュー作『オホーツク諜報船』(昭和55年/1980年7月・角川書店刊)が直木賞の候補になった第84回を振り返ってみると、受賞作が中村正䡄さんの『元首の謀叛』、候補には「アラスカの喇叭」の深田祐介さんがいる、というふうに日航コンビが候補になって多少の話題になった回ですが、その作品内容からしても、はるか海を越えています。直木賞のなかに着実に、海外の風土がひそんでいる、というそのなかに新たに現われた国際派作家が、西木さんでした。

 西木さんの国際的な身上は、どこから来たものなのか。それは若いころから続く好奇心と探究心の表われ、ということのようです。

 子供のころから秋田県で育った西木さんは、高校時代にトール・ヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記』に出会い、ビビッと衝撃に打たれます。南太平洋の島々で暮らすポリネシア人たち。彼らはいったいどこからやってきたのか。きっと南米大陸から流れてきたにちがいない。しかし文明がそれほど発達していないはずの太古の大昔、大陸からあの大海原を渡って、果たして無事にポリネシアにたどりつけるものだろうか。よし。じっさいにやってみよう。ということで、当時の資料をもとに筏を組み、ヘイエルダールが実地で航海、検証に乗り出すというその一部始終を著した『コン・ティキ号探検記』。西木さん、これを読んで大興奮します。

 高校卒業後に上京して、早稲田大学に入った西木さんが「探検部」というクラブに入ったのも、ひとつに未知の世界への憧れだったでしょう。おれもヘイエンダールみたいなことがしたいぜ。ということで友人たちと語らって盛り上がるうちに、立てた計画が、ユーラシア大陸とアメリカ大陸のあいだにあるベーリング海峡を徒歩で横断し、モンゴル系のインディアンやエスキモーたちが、大昔にここを渡って移動したことを実証しようというものです。

 西木さんが単なる口先だけの夢追い人と違っていたのは、この先でした。

 どうやったら実現できるか、そこに向けてからだを動かし、行動したことです。当時クラウドファンディングがあったら、そういうところに登録し、さんざん世間から叩かれたかもしれませんが、西木さんの青春時代にそういうものはありません。100社近くの企業をまわり、支援を訴え、9割がた何を計画性のない若者が無茶を言っとるんだと説教をくらいながら、残りの数パーセントの企業からありがたく支援金を頂戴し、昭和39年/1964年から翌年にかけて、早稲田大学探検部の仲間たちと3人で、まじでアラスカ入り。このときは海峡を渡った先のソ連から、どうしても許可がおりず、泣く泣く海峡横断はあきらめますが、ベーリング海峡の氷の具合や気象の様子を調査するという名目で、ウェールズ岬のエスキモー村で半年間、越冬生活を送ります。

 ああ、青春の何と愚かで美しいことよ。という感じかもしれません。そのあとで一緒にアラスカに行った大学探検部の後輩、原田建司さんもまた、後年小説家になって「船戸与一」の名で大活躍、同じく直木賞をとることになるのですから、直木賞も狭いといますか、世界は広いといいますか、よくわかりませんが、とりあえず船戸さんのことも「直木賞、海を越える」のテーマをやっているあいだに、いつか取り上げたいところです。

 ひ弱さ、あるいは臆病な内弁慶、といったこととは無縁な、活発で行動的な西木さんの本領は、学生のころの甘酸っぱい思い出だけでは終わりません。以来、アラスカには毎年のように足を運び、何十回も行くうちにホテル代も馬鹿にならず面倒くさい、となって現地に家まで買ってしまいます。最初の結婚相手は、その学生時代にアラスカで知り合ったエスキモーの女性で、あいだに一女一男をもうけた(『週刊文春』昭和63年/1988年9月8日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」)ということです。直木賞受賞者のなかでも「海を越えた」度は、もうケタ違いの人物です。

          ○

 探検部の活動に相当なエネルギーを費やし、モラトリアムな10代から20代までの時間を謳歌。けっきょく大学は留年留年の連続で中退することになりますが、26歳のときに平凡出版に入り、『平凡パンチ』『週刊平凡』『ポパイ』などの編集部で、雑誌記者として活動します。そのくそ忙しいなかでもフライフィッシングに熱中し、仕事だか遊びだかわからない毎日を送っては、企画を立て、原稿を書きつづけました。

 とにかく自分で動いていたい。そういうタイプの人なのはたしからしいです。昭和55年/1980年春に平凡出版を辞めることになった動機も、やはりそこだった、と語っています。

「まず僕が自分で本を執筆するに至った理由なんだけど、僕が三十半ばで組織の中のいわゆる末端管理職になったとき、現場を離れたら途端に仕事がつまらなくなったというのがあって。自分の部下が取材して書き上げた原稿をチェックする、整理デスクっていうものが僕の所属していた平凡出版(現・マガジンハウス)の「平凡パンチ」にもあったから、そのポジションに就いたんだけど、どうしても面白くないわけよ。どうしたって自分で外に出て取材して書いていた方が面白いんだから。それで段々とつまらなくなって、仕事を辞めようと思った。」(平成26年/2014年3月・文藝春秋/文春新書『作家の決断 人生を見極めた19人の証言』所収「西木正明 物書きなんて一つ間違えればホームレスですから」より)

 『オホーツク諜報船』は、根室・知床といった北海道東海岸から海を越えてソ連にまで話題が及ぶ内容でしたが、「夜の運河(クロン)」(第90回直木賞候補)では日本とタイ・バンコク、「ユーコン・ジャック」(第98回同候補)では日本からカナダ・アメリカのアラスカ地方と、まさに海を越えていくような構成をもつ小説で、数年おきに直木賞の候補にあがります。しかし結局、第99回(昭和63年/1988年・上半期)受賞作の「凍れる瞳」も「端島の女」も、日本を舞台にしたものだった。というここら辺が、直木賞がいま一歩、国際的な風合いを帯びていない賞だと思われてしまう欠点には違いありません。

 そもそもアラスカに行ったことなんて、西木さんにとっては序の口だったでしょう。取材と称する旅行も含めてアジア、ヨーロッパ、北米、南米、オセアニアにアフリカ、もうひまさえあれば(ひまなんかなくても出かけていく)西木さんのスタイルは、その後も変わりません。

 直木賞という大きな賞をとれたことが、その環境を後押しした面はあったでしょうが、いや、きっと西木さんならそんなことがなくても、海を越えて世界各国とびまわったと思います。編集者が記録を調べて数えたところ、訪れた国は160か国ほどだそうです(平成24年/2012年3月・ベストセラーズ/ベスト新書『人生、お楽しみはこれからだ』)。この行動力。直木賞なんかが、とうてい真似できるところではありません。

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