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2019年7月28日 (日)

瓜生卓造、南極・北極・アルプス・ヒマラヤと、極地を描いてニート脱出。

 直木賞の候補になったのに、その件についてあまり語られない人がいます。その人が直木賞だけじゃなく芥川賞のほうでも候補になったことがある場合は、とくにそうです。珍しくない、あるあるの、ノスタルジックな風景に溶け込んでしまう、日本の伝統的ななりゆきと言っていいんでしょうが、瓜生卓造さんなどもやはりそのひとりです。

 親の転勤の関係で、たまたま神戸で生まれた瓜生さんは、生後まもなく引っ越して東京育ち。さらに転じた札幌でスキーの魅力に取り憑かれます。大学は早稲田に学び、日本の山と文学を愛することになっていくその過程で、どうして瓜生さんは海外モノの作家として有名になったのか。……いや、そんな言うほど有名でもないぞ、という説も有力ですけど、それはともかく、何といっても無視できないことがあります。瓜生家の家庭環境です。

 父親の名は、瓜生卓爾さんと言います。おそらくその道では有名な人物です。

 いや、そんな言うほど有名でもないぞ、という説がこちらにもあり、じっさいにワタクシもよく知らないんですが、自分が知らなくても有名な人はいくらでもいます。気にせず進めましょう。

 父の卓爾さんは明治時代の、日本における鉄道界の黎明期に活躍した人だそうです。いわゆる宮仕えの官吏ということで、ひとつの地域にとどまることなく、任地を転々とします。息子の卓造さんが少年時代を札幌で過ごせたのも、親の仕事があったからで、父が昭和10年/1935年に退官してからは、一家挙げて東京に戻ってきたそうですから、卓造さんは15歳まで札幌に暮らしたことになります。大人たちの山登りに付いていってはスキー、スキー、はてまたスキーに明け暮れた、ということです。

 親父さんは息子のことには口出しはせず、終生、息子とは他人行儀な関係を貫きました。息子のことを「君」とか「卓造君」としか呼ばず、そのあまりのよそよそしさに、卓造さんの奥さんなどは、この親子は馬鹿じゃなかろうかと思った、と「父のこと」(昭和56年/1981年2月・木耳社刊 瓜生卓造・著『欅の冬』所収)に書かれています。大正生まれで戦前育ちの卓造さんにとって、やはり父親は多分に距離のある存在だったとも言えるでしょう。となると問題は母親です。

 このお母さんが、とにかく教育熱心な人で、勉強しろ勉強しろと口酸っぱく卓造さんをけしかける。末は卓爾さんのような優秀な官僚になってくれることが、彼女の望みでした。しかし、これに卓造さんは猛反発を覚え、うるせえな、おれはおれで好きな道を行くんだと、ある意味お決まりのような反抗期の姿勢で応戦。後年、吉村昭さんとの対談で「子供というのは、英才教育したりなんかすることは悪いんだろうけれども、めんどう見てやっていればそんなに変なものにはならないと思います。」(『小説宝石』昭和47年/1972年7月号「巻頭対談出会いのころ ひねた学生、ひねたおとな……」)と、英才教育=悪い、という文脈でポロッと語っているのは、多少は自分が子供のころの、頭ごなしな教育方針への反感が残っていたのかもしれません。

 ともかく子供のころから家庭教師がついていた、といいますから、経済的に恵まれた家庭だったことはたしかです。父親は退官後に、北海道の私鉄の社長に就任、家族は東京の目黒駅近くに邸宅を構えて、そこに住むことになります。戦後、丹羽文雄さんが中心となって結集した同人誌『文学者』は、昭和25年/1950年~昭和30年/1955年の6年間、64号を出したところでいったん休刊しており、その時期を「第一次」と呼んだりしますが、途中の一時期に『文学者』の編集室が置かれたのが、その瓜生邸です。以前取り上げた中村八朗さんの『文壇資料 十五日会と「文学者」』(昭和56年/1981年1月・講談社刊)にもそのあたりの話が出てきますが、瓜生さんも「札幌詣で」(昭和48年/1973年12月・山と溪谷社刊『冬の旅』所収)でじっくり回想しています。

 鉄道の実業界で活躍する卓爾さんは、当然顔も広く、正月などになれば多くのお客さんがやってくる。そういう人たちの集まりに顔を出すのが、卓造さんは嫌で嫌で仕方ありません。向こうは人生の成功街道を驀進中のリア充たち。こっちは、金にもならない原稿を書いて、親のスネをかじるだけの無名作家。いまも、こんな風景は日本のそこかしこで展開されている気がします。瓜生卓造、お先まっくらな、いわゆるニートです。

 というところで、なかなか外国の話題が出てきませんけど、瓜生さんが30代後半に差しかかる昭和30年/1955年前後から、他に類を見ない文筆稼業を切り開いていくことになる、その礎となったひとりの家族に、そろそろ触れなければいけない頃合いです。卓造さんの姉、文子さんのことです。

          ○

 瓜生さんのエッセイを読んでいると、ほんの時おりお姉さんのことに触れた記述に出会います。官僚から天下って鉄道会社の経営者になった、富裕な父をもつ良家の娘さん。家ではピアノを弾き、短歌を詠み、絵画の筆もとる、多趣味というか多才な女性だったようですが、昭和18年/1943年夏、粟粒性結核で亡くなります。それが28歳のときだった、ということなので、生まれは大正4年/1915年ごろ。卓造さんより4歳ほど年長です。

 姉の文子さんから受けた影響が、ほとんど瓜生さんの少年時代から後年の物書きとしての特徴を形成することになる、という話は瓜生さん渾身の名著『日本山岳文学史』の「序章――筆をおこすまで」に触れられています。

 まだ女性が登山を趣味にするなんてことが珍しかった時代、文子さんはとにかく山が大好きで、自分の登った山のことをはじめ、さまざまな山の話を弟に語って聞かせます。しかも彼女は読書も大好き。日本のもの、外国のもの、山岳紀行や探検記の本が書棚にずらっと揃っていた、というのですから、なかなかどエラい女性です。

「私には読書という習慣がまったくなかった。本を読むことはただ苦痛であった。

(引用者中略)

そんな私が、あるとき、どういう風の吹きまわしか、姉の書棚から一冊の本を取り出してみた。スコットの南極探検記である。私は以前に彼女から南極探検の悲劇について聞かされていた。そんなことが頭の片隅にあったのかもしれない。私は寝そべったままページをくっていたが、しだいに夢中になってしまった。心がたかぶって、頬に血が昇っていくのがわかった。私はいつしかスコットと一心同体の気持でいた。」(昭和54年/1979年8月・東京新聞出版局刊 瓜生卓造・著『日本山岳文学史』「序章――筆をおこすまで」より)

 人類初の南極点到達をめざして、互いに争うことになったイギリスのスコットと、ノルウェーのアムンゼン。姉の書棚から見つけた極地でのスコットの悲劇、もしくは勝者のはずのアムンゼンのその後の人生などを知って、読者や文学(のことを小ざかしく語る同級生)が大嫌いでスキーが大好きだった瓜生さんが、むくむくと冒険心や読書欲をかき立てられたのは、自然のなりゆきのようでもありますが、明らかに姉の影響だったと言っていいでしょう。

 大人になっても定職という定職に就かず、物書きとしての展望も開けないなか、瓜生さんは山登りやスキーをする人たちに材をとった、私小説にほど近い小説を書きはじめ、多少は『文学者』の界隈で認められ出します。決定打となったのは、『文學者』昭和29年/1954年12月号[53号])に発表した「南緯八十度」。まさに南極点を目指しながら志半ばで斃れたスコットのことを描いた小説です。これがはじめて第32回芥川賞の候補に選ばれると、つづいて「北極海流」(『文學者』昭和30年/1955年6月号[59号])では北極探検で知られるフリチョフ・ナンセンの苦難の足跡をこつこつと書き、今度は第33回直木賞の候補に挙がります。

 南極だの北極だのという辺地モノに止まりません。瓜生さん自身、長年培ってきたスキーヤーとしての、あるいは山男としての経験をぞんぶんに活かし、登山家ヘルマン・ブールの、アルプスやヒマラヤ登頂の模様を記録した『単独登攀』でも、第38回直木賞の候補に挙がります。いずれも「文学的」と見なされる題材や書き方からあまりに遠すぎて、選考会では芳しい評価は得られませんでしたが、そのことはまあ、大した話ではありません。

 山やスキーのことが書ける作家として一躍名を挙げ、文筆業を職業にしてさまざまなメディアから原稿を注文を受けるまでになったのは、海外の極地に目をつけて小説を書いたことが功を奏した結果、と言って間違いではないでしょう。その後、お父さんほどの裕福さはつくれず、家庭経済上にいろいろ苦労はあったと思いますが、自分の好きな道を貫くことになったのですから、卓造さんもまた、立派なものです。

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