豊田穣、イラク・バグダッドのホテルで、直木賞の受賞を知る。
いま、うちのブログは「直木賞、海を越える」というテーマでやっています。毎週だれを取り上げるかは、だいたい適当な思いつきなんですが、直木賞が決まった直後の週には豊田穣さんのことを書きたいなあ、と以前から思っていました。
そしたら、こないだ発表された第161回の受賞者が、名古屋の出身で中京地域に縁の深い大島真寿美さんだ! ということになったので、二重の意味で今週は、海を越えてしまった中京地域の直木賞受賞者、豊田さんのことで行くしかありません。
さかのぼっていまから約50年ほどまえのことです。
一回芥川賞の候補に挙がったあと、あらためて二度ほど直木賞の候補になった豊田穣さんは、昭和45年/1970年6月、一冊の本を刊行します。同人誌『作家』に断続的に発表していた連作をまとめて、その同人誌の発行元、名古屋の「作家社」から出した『長良川』です。つくったのは500部。たったの500部。当時だってこの数字は、商業的に全国の書店に配本するのはとうてい難しいぐらいの小ロットでしたが、じっさい豊田さんの自費出版だった、と言われています。
これが第64回直木賞(昭和45年/1970年・下半期)の候補に挙がったところで開かれた、翌昭和46年/1971年1月18日の最終選考会。このときの芥川賞は、古井由吉さんの作品が他を圧して、選考会もほんの1時間そこそこで終わったというスピード選考だったんですが、受賞発表が出されるとすぐに、都内のホテルに受賞者を呼び、その夜のうちに記者会見を行うという習慣が、もうすでにそのころにはあったので、古井さんも会見場に誘導されて、そのときの会見模様は翌日の新聞紙面に大きく載りました。
ところが同時に直木賞に決まった豊田さんは、この日、受賞会見場に現われた形跡がありません。なぜでしょう。選考会のあった1月18日、遠く海を越えて中東イラクのバクダッドにいたからです。
豊田さん、このとき50歳。同人誌界隈で名は知られてはいましたが、当然ほかに職がありました。肩書きでいうと東京新聞文化部次長(中日新聞勤務)です。
本人の書くところによると、かなりの閑職で自分の自由になる時間がたくさんある。しかも「特派記者」というかたちで旅行に出かけ、見聞を広めることもできる。ということで、何度かシルクロード、ソ連、中東といった旅行を自ら企てて、じっさいに外国に行っていたそうですが、昭和45年/1970年12月から翌1月にかけて、再びソビエトから中東諸国をめぐる行程を組み、12月22日、羽田発モスクワ行のアエロフロートに搭乗して日本をあとにします。
旅立つ前には日本文学振興会からの連絡で、自分の『長良川』が直木賞の候補に残ったことは知っていたそうですけど、モスクワからソ連国内に2週間滞在、そこからトルコ、レバノン、エジプト、シリア、イラク、イラン、アフガニスタンと回る予定があり、イラクでは短期間のあいだにメソポタミア文明の遺跡などをめぐろうと考えていたものですから、基本的に文学賞どころではありません。ときに昭和46年/1971年、メールもインターネットもなく、通信手段だって限られています。
1月18日夜、選考会で『長良川』の受賞が決まったあと、いったいどういうルートを経て日本文学振興会は豊田さんの居場所を突き止めたのでしょう。まあ、おそらく東京新聞経由だったとは思いますが、かなり苦労したことと思います。東京での決定が夜9時ごろだとしてバグダッドは同日の午後3時です。それ以降のどこかのタイミングで、異国の地にいる豊田さんが受賞の報を受け取った、というわけです。
「バグダッドの酒合戦」(『酒』昭和56年/1981年6月号、平成28年/2016年11月・中央公論新社/中公文庫『私の酒――「酒」と作家たちII』所収)には、バグダッドに到着したのが18日、午前中に用事を済ませてホテルに戻り、ビールを飲みはじめたところで日本大使館からホテルに電話が入り、受賞の知らせを受けた、とあります。ただ、受賞してまもない『作家』昭和46年/1971年4月号「長良川始末記」では、これが全部翌日19日のこととして書かれていて、たしかに昼すぎにランチの最中で知ったということであれば、19日でなければ時間の関係が合いません。おそらくそちらのほうが正確な記述なんでしょう。
受賞の決定からだいたい20時間程度。日本大使館には電報で、豊田穣受賞、の知らせが送られてきたと言いますから、時代も時代です。べつに豊田さんの例が最初だった、というわけではありませんが、海外滞在中の受賞者を追っかけるというかたちで、直木賞に海を越えさせたひとりとして、豊田さんの名前を刻んでおきたいと思います。
○
当り前ですけど、なにも豊田さんは、よし直木賞をとってやろうと思って、500部程度の本をつくったわけじゃありません。むしろ逆に、もうおれに文学賞のチャンスはないだろうと自覚し、ほとんど思い出づくりのように一冊にまとめたのだ、と2年後に語っています。
「文学賞の可能性がなく、自費で本にまとめておかなければ、旅先で死んだとき、何も残すべき作品がない、そういう理由で、刊行を考えたのである。
逆説的に言えば、文学賞をあきらめて、自費で作品集を出し、旅行に出たところ、文学賞が与えられたのである。」(『作家』昭和48年/1973年1月号 豊田穣「「作家」二十五年と私」より)
次の冬がきたら海外をまわろうと計画したのはいいものの、心のなかではもしかしたら、おれ冬のソ連で死ぬかもしれない、という予感にさいなまれた豊田さん。その前にこれが最後という覚悟で作品を一冊にまとめておきたい、文学賞でもとれれば本になるだろうが、そんなことはもうないから、自分でつくろうと決心して自費出版したのが『長良川』です。そういう一冊に、よくまあ直木賞も運よく賞を与えることができたなあ、とほとほと感嘆してしまいます。芥川賞はもちろん、他の賞ではまずこの技は繰り出せないからです。『長良川』への授賞は、確実に直木賞にとっても輝ける一ページになった、と見ていいと思います。
ところで豊田さんといえば、満鉄に働いていた父の仕事の関係で、生まれたのは満洲の四平街。長じて海軍兵学校に進み、ピッカピカの軍国青年として職業軍人になると、昭和18年/1943年には、ガダルカナル島ルンガ泊地攻撃のためにラバウルの基地から九九式船上爆撃機に乗って洋上を飛行中、ソロモン群島のあたりでグラマン戦闘機に狙撃されて、あえなく墜落。漂流すること数日、その後、ニュージーランド哨戒艇に捕えられて捕虜して収容所を転々とさせられる、という貴重すぎる経験が、戦後の豊田さんに、軍人として戦争に参加した人間のことを小説で書かせることにつながっていきます。そういう履歴的なことは、いつも便利なニコニコWikipediaにざざっと書かれているので、ここでは省略します。
文学賞のことなんて、この世の中ではささいな話だ。という常識の線に沿っていけば、べつに海外まで直木賞が追いかけてきたからといって、騒ぎ立てるまでもないかもしれません。ただ、豊田さんは生まれた場所も日本列島ではなく海の向こうですし、作家というものを意識し、自分もこれに一生を賭けようと踏み出すきっかけがまた、日本の外にあった。……というのですから、よくよく豊田さんの作家人生は、海を越えています。
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