江國香織、アメリカ・デラウェア大学への留学を経て小説を書き出す。
いまから15年前、平成16年/2004年は文学賞の当たり年と言われています。
1月15日に選考会が開かれた第130回芥川賞(平成15年/2003年下半期)では、20歳前後の女性作家が3人も候補に挙がっていたことで話題が過熱。しかも結果的に19歳と20歳の二人が同時に受賞したものですから大変なにぎわいで、文芸関係の雑誌だけじゃなく、テレビからウェブ記事から、社会現象を扱う多くのメディアに取り上げられ、いっぽうは100万部、他方は50万部を突破するという、商売的にもおいしい受賞模様を生み出します。この辺はみなさんご存じのとおり……と言いたいところですが、それも15年前ですから、リアルタイムの印象がない世代もいるかもしれません。おじさんおばさんが何年たっても「あのときはさあ」と悦に入って語り継ぐ、そういう類いの騒ぎだった、ということにしておいてください。
この騒ぎが続いているさなか、新たな文学賞コンテンツとして誕生した大森望・豊崎由美両氏の企画「文学賞メッタ斬り!」が単行本として発売され、何万部だかを売り上げたのもこの年のことです。どっちがきっかけで、どっちが結果なのか、もはやよくわかりませんが、文学賞というものが新局面を迎えたこの年に、直木賞・芥川賞だけじゃなくおよその文学賞をガイドする同書が刊行されたのは、この企画を通した人たちの感覚の鋭さも讃えられるべきだと思います。
1月15日は、まったく何モノの企画かも定かではなかった生まれたばかりの「本屋大賞」が、最初のノミネート作10作を発表した日でもあります。その年の4月に2次投票の結果が発表され、発表会で本の雑誌社社長浜本茂さんが「打倒、直木賞」と叫び、大賞を受賞した小川洋子『博士の愛した数式』がまたたく間に書店の店頭から売り切れて、直木賞以上の売上げ効果を叩き出します。
7月15日に決定した第131回(平成16年/2004年上半期)の直木賞では、先に山本周五郎賞を受賞していた熊谷達也さんの『邂逅の森』が、こちらも合わせてダブル受賞。一般的に、直木賞&山周賞のダブル、と言っても購買意欲に響いたのはほんの一部で、けっきょく「売れない受賞作」の部類に入る惨澹たる売上げしか残せませんでしたが、両賞をたてつづけにとる作品が生まれたことは、文学賞史に貴重な刻印を残したことに間違いありません。売れ行きでいうと、同じく直木賞をとった奥田英朗さんの『空中ブランコ』が、ぐんぐん足を伸ばして最終的に30万部を超える大ヒット。直木賞の面目を保ちます。
その他、垣根涼介『ワイルド・ソウル』の3冠達成とか、新しいかたちの公募型新人賞「ボイルドエッグズ新人賞」の創設とか、50回の歴史を刻んだ「江戸川乱歩賞」で史上最年少の受賞者が生まれたとか、「らいらっく文学賞」が終了したとか、ポロポロと文学賞の話題はあるんですけど、強烈なスポットライトが当たった第130回芥川賞のかげで、このとき直木賞を受賞したひとりが江國香織さんです。前置きが長くなりすぎました。
ついこないだ、江國さんの新刊『彼女たちの場合は』(令和1年/2019年5月・集英社刊)を読みました。日本での場面も少し入ってきますが、大半が海外、アメリカを舞台にした小説です。それで「直木賞、海を越える」というブログテーマを考えたときに、真っ先に浮かんだのが江國さんのことでした。
直木賞を受賞した『号泣する準備はできていた』は、12篇の短篇から成る作品集ですが、とくに海外を舞台にしたものはありません。その1年半前、第127回(平成14年/2002年・上半期)で候補に挙がり、これでとってもよかったんじゃないかと思われる『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』のほうも、やはり10個の独立した短篇が収められたもので、こちらのほうは多少、海外に関係する話はあるけれど、やはり多くは日本が舞台です。しかし、だいたいどれを読んでも江國さんの小説に、そこはかとない海外感が漂っていることは否めません。根っからのコスモポリタン……というか根なし草の旅びと、って感じです。
短大を卒業後、アルバイトでお金を貯めて友達とヨーロッパ・北アフリカを旅行する、というところから、詩を学ぶために(もしくは英語を学ぶために)1年間、アメリカのデラウェア大学に留学してみる、という発想に、天然の自由人の一端が垣間見えています。
○
少しずつ童話を書いて投稿生活を送りながら、昭和62年/1987年、23歳で単身、アメリカのデラウェアに渡った江國さんにとって、そこでの留学体験が大きな意識の変化をもたらしたらしいです。児玉清さんとの対談で、書くことを職業にしようと意識したのはいつからか聞かれたとき、江國さんが挙げたのがこの留学です。英語を勉強にしに行っているのですから、当然まわりはみんな違う言葉をしゃべる人ばかりの環境のなかで、猛烈に日本語が書きたい、詩や小説を書きたいんだ、と強く思ったと答えています(平成21年/2009年7月・PHP研究所刊、児玉清・著『児玉清の「あの作家に会いたい」 人と作品をめぐる25の対話』)。
昭和63年/1988年に帰国してまもなく仕上げた「409ラドクリフ」という小説を、創設されたばかりの公募新人賞「フェミナ賞」(学習研究社主催)に応募したところ、応募総数1098編の難関を次々勝ち上がり、けっきょく受賞することになってしまうのですから、出来すぎと言いますか何と言いますか、何か影で大きな力でも動いたんじゃないかと臆測する人がいてもおかしくないくらいに、順調な小説家デビューを果たします。
じっさい文学賞がある日本という環境のなかで、ここまで賞を引き寄せた人も珍しく、フェミナ賞(平成1年/1989年)のあとは、産経児童出版文化賞(平成3年/1991年)、坪田譲治文学賞(平成4年/1992年)、紫式部文学賞(平成4年/1992年)、路傍の石文学賞(平成11年/1999年)と受賞がつづくあいだに、結婚し、30代を迎え、山周賞の候補に何度か挙がるうちには読者から根強い人気を得る小説家としてよく知られるようになっていきます。この間、平成14年/2002年になるまで一切、直木賞が手出しをしなかったのは、もはやそれが直木賞おなじみのやり口なので、いちいち批判する気も起きませんが、このときの直木賞が「人気、実力ともに高い作家に授賞できた」と無邪気に喜んでいたことはたしかです。とりあえずチャレンジ精神の薄い文学賞を見るのは、哀しみしか沸いてきません。
話がズレてきたので、もう一度、江國さんの海外性に戻します。
直木賞を受賞したとき、『オール讀物』に記念インタビューが載りました。そこに『きらきらひかる』が翻訳された話題に触れる段で、こんなことを語っています。
「私は英語があまりうまくないけれど、書いているときにはどこかで頭が英語的構造になります。英語で考えて、それを日本語に直しながら書いているような感じ(笑)。それぐらい英語は好きなので、自分の本が翻訳されたときにはうれしかったんです。」(『オール讀物』平成16年/2004年3月号「直木賞受賞インタビュー 恋愛は無敵だと書きたい私としては」より ―インタビュー・構成/編集部)
江國さんの小説の一部分に、どうにも拭いがたいバタくささ……いや洗練された海外風味が滲んでいるのも、多少はその執筆上の思考が影響しているのでしょう。
じっさい直木賞が海を越えたわけじゃありません。だけど江國さんに賞を贈れたことで、その受賞者とともにおのずと直木賞も世界に連れていってもらえる(気がする)。直木賞は直木賞が偉いわけではなく、いつだって受賞者さまさまです。
| 固定リンク
「直木賞、海を越える」カテゴリの記事
- 五木寛之、旅行先のモスクワで小説の素材に出会い、そこから一気にスターダム。(2020.05.31)
- 藤本泉、西ドイツのケルンで生活を送り、最後に確認された場所がフランス。(2020.05.24)
- 木村荘十、中国を舞台にした「日本人が出てこない」小説で初めて直木賞を受賞する。(2020.05.17)
- 深緑野分、「日本人が出てこない」小説に対する直木賞の議論に新地平を切り開く。(2020.05.10)
- 伊藤桂一、中国での戦場体験をプラスに変えて直木賞を受賞する。(2020.05.03)
コメント