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2019年6月16日 (日)

松坂忠則、出征した中国南部で、生まれてはじめて小説を書く。

 第10回(昭和14年/1939年・下半期)の直木賞は、芥川賞の選考委員が正式に(もしくは試しに)直木賞のほうにも混ざって選考する、という驚愕の制度がとられた、歴史的にも重要な回です。

 ざっくり言ってしまうと、直木賞の委員たちはだいたいみんなヤル気が低く、こんなんじゃ駄目だ、と小島政二郎さんが吠えたところから話が転がり、「大衆文芸の作家が純文学の賞を決めるのであれば確実に異論が出るが、その逆なら大丈夫」という、なかなか悲しい風潮を巧みに利用して、芥川賞の評議員だった宇野浩二、川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、谷崎潤一郎、室生犀星、山本有三、横光利一を名目上、直木賞の評議にも加わってもらうことにした一件です。現実には谷崎、山本の2人は芥川賞の評議にすら参加していなかったようなので除くとして、他の人たちは直木賞の候補作を読み、困惑した様子でいっとき直木賞に参加させられました。

 けっきょく第10回は議論がまとまらず、2期連続での授賞なし、というところに落ち着きます。最終的に残った候補は全5作、なかでもいちばんの変り種は、福岡で刊行されていた同人誌『九州文学』から、無名中の無名、岩下俊作さんの「富島松五郎伝」を、芥川賞評議員の瀧井さんが直木賞のほうの候補に持ってきたことです。あまりに変り種なので、うちのブログでも何度か触れたことがあります。

 それに次いでこの回に特異な候補者といえば、もうこの人しかいません。今週取り上げる松坂忠則さんです。

 明治35年/1902年生まれで、「火の赤十字」を発表したのが38歳。それまでの文学的履歴は皆無に近く、松坂さん自身もこれを小説として書いたとは、とうてい思われません。あるいは別の雑誌に発表されていたら、まず文学賞史上に現われることもなかったはずですが、たまたま文藝春秋社の月刊読物誌『話』に載ったおかげで、予選のひとつに含まれ、「直木賞を小説だけに限定することなかれ」という、初期の直木賞を貫いていた顕彰精神ともマッチして、ダークホースな候補作として議論に残ることになります。

 松坂さんの履歴を挙げると、秋田県小坂町の貧しい家に生まれ、高等小学一年を終えたところで退学、すぐに働きに出て小坂鉱山の鉱夫となります。しかし向学の心おさえがたく、能代港町にあった工業徒弟学校に入り、そこを卒業したあとは漆器工場、そして湯沢町の両関酒醸に職を見つけます。ここまでは、あまり国際的とか、海外に縁のある生活は見当たりません。

 時に大正9年/1920年11月、住友に勤める実業家の山下芳太郎さんが中心となって「仮名文字協会」が設立され、日本の文書を変形カタカナ・左横書きへと変えていこうと主張。住友総本店理事の職を退いた大正11年/1922年には「カナモジカイ」と改組して、けっこう多くの人が賛同していましたが、上京した松坂さんはそこの事務員となって、国語国字の改良(見方によっては改悪)に一生を捧げることを決意します。

 その活動のひとつが、新聞でどれだけの種類の漢字が使われているか、また学童たちがどれだけの種類の漢字が書けるか、その両方を調査した結果に生み出した「漢字500字制限案」というシロモノです。難しい漢字で書くのをやめて、制定されたもの以外の漢字は、すべてカナで書こうじゃないか……という、まあ聞いただけでも批判・異論が集中しそうな意見ではあったんですが、これが戦後日本で国語審議会が主導して採用することになった「当用漢字」、昭和56年/1981年に公布された「常用漢字」へとつながっていくので、いまのワタクシたちに無縁というわけではありません。

 しかし、これまで使っていた漢字を一斉に廃止するなんて、とうてい無理に違いない。だいいちそれでは実用文は書けても文学作品は書けないだろう。という猛反発を受けた松坂さんは、信念を貫こうと決めたら簡単には折れない、頼もしさがあった反面、融通の利かなさを兼ね備えていたらしく、くそお、制限された数の漢字しか使わずとも何かまとまった物語は書けるはずだ、と思いを募らせます。昭和12年/1937年、そんな折りに自分の身に振りかかってきたのが、松坂さんの運命を変えたといってもいい召集令状でした。

 この年の7月に盧溝橋事件によって、ついに戦火を交えることになった中国と日本。日本ではまもなく特設師団として第百一師団が編成され、師団長には柏原兵三さんの「徳山道助の帰郷」のモデルとして知られる伊東政喜さんが就きます。9月には中国本土に上陸、上海攻略戦に参加することになりますが、ここに召集されていよいよ海を渡ったのが、衛生曹長の肩書を受けた松坂さんその人です。大場鎮、南京、南昌、漢口へと転戦する合間に、死ぬまえにひとつでいいから、500字制限の漢字とカナで小説を書いてみたい、との熱意を抑えることができずに、海外の地で書き上げたのが「火の赤十字」でした。

 

          ○

 「火の赤十字」は、『話』の目次では「戦争実記」と書かれ、本文の作者の肩書に「陸軍衛生曹長」と謳われています。名もないひとりの出征兵が自分の目でみた野戦病院の実態を、内地の読者に興味をもって読んでもらうための体裁です。体裁というか、これを文学作品と呼ぶのは、けっこう勇気が要ります。

 しかし、当時の出版界で求められる種類の読み物だったことは間違いありません。中国本土での戦いが始まって1年、2年。「文学」と畏まらずに、もう少し平易に身近なものとして読める作品として、棟田博さんの『分隊長の手記』(昭和14年/1939年11月・新小説社刊)が広く好意的に読まれてベストセラーとなったのもこの頃のことです。

 松坂さんもやはりチヤホヤされたらしいです。自身で回想しています。

「処女作は「火の赤十字」という題名で文芸春秋社の「話」という雑誌に掲げられ、ついで単行本にもなったし、ラジオでも数日にわたって朗読された。そして、当時の評論界でも、ある程度の話題になった。

帰還すると、わたしは急に、出版界から新進作家のBクラスだかCクラスだかの扱いも受けるようになった。方々から原稿を依頼されるままに、つぎつぎとくだらぬ作品を書きなぐって、いい気になっていた。」(『教育手帖』102号[昭和35年/1960年1月] 松坂忠則「「山本有三国語」とわたし」より)

 松坂さんに作家として一人立ちしようという気がなく、この作品が書かれた背景については『話』でも断りが載っていますし、単行本になった際にも長い「あとがき」がついていますが、とにかく撤廃に向けて使用する漢字の種類は減らしていこう、カナで書けるものはカナにしよう、という一念がすべてのような作品でした。直木賞もよく候補に残したな、と思ういっぽうで、並々ならぬ気合のこもった作品があると、なぜか放っておけない直木賞の伝統のようなものが垣間見えるのも、またたしかです。

 その後、戦後にいたって松坂さんは国語審議会の委員に就き、日本の伝統文化を壊すとんでもない連中のひとりとして槍玉に上げられながら、自身が一兵として召集されたときの、中国での漢字体験を語りながら、中国と日本の漢字はたしかに同じ字かもしれないが、違う意味をもつことはたくさんあるんだから旧来の漢字に固執することはないし、日本語を学ぶうえで漢字が多種にわたることの弊害は、絶対になくさなきゃいけないんだ! と数十年来の自説をえんえんと繰り返します(『政界往来』昭和47年/1972年6月号「日中関係と漢字の功罪」)。もはや直木賞とは離れすぎた話題なので、これ以上追うのはあきらめますが、カナ文字に執着するあまり常に漢字のことを考える人生だった、という意味では、松坂さんも「海を越えたもの」に縁の深い人だった、と言えると思います。

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