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2019年6月23日 (日)

森瑤子、シンガポール旅行に出かけた日本人妻・英国人夫の小説で直木賞候補。

 来月に決まる第161回(平成31年・令和1年/2019年・上半期)直木賞では、候補者全員が女性になった、と先日発表されました。

 「作家が女性か男性かなんて関係ないじゃないか、そんなことで話題にするマスコミ、クソ」というような意見が、早くもそこかしこで飛び交っています。とりあえず世間が盛り上がっていることには何か文句をつけておきたい、という病気を患った人たちが、こんなふうにたくさんいるおかげで、今回もまた、賛否を含めてみんなが騒ぐ催しを定期的に繰り返す、という主催者の日本文学振興会の狙いどおりに、順調に行っているようです。

 さて、次の直木賞のことはひとまず忘れるとして、今年上半期には、島崎今日子さんの『森瑤子の帽子』(平成31年/2019年2月・幻冬舎刊、『小説幻冬』平成29年/2017年11月号~平成30年/2018年12月号を加筆修正)という本が出ました。21世紀もそろそろ20年が経とうとしているいまこの状況で、およそ1970年代~90年代の日本社会の時代性を振り返りながら、森瑤子という作家の実像と虚飾をとらえ直す、という貴重な仕事としか言いようのない一冊になっています。

 デビューのすばる文学賞の他には、文学賞の受賞がなかった森さんのことです。文学賞について詳細な話が出てくるわけじゃないんですけど、芥川賞の候補に2回なって、今度は直木賞の候補にも2度なった森さんが、もうそのころには各社、各編集者が原稿をとりたがる注目度ナンバーワンの作家に躍り出ていた……というかたちで、直木賞もほんの少し、ご相伴に預からせてもらっています。

 とにかく森さんが候補になった第88回(昭和57年/1982年・下半期)、第89回(昭和58年/1983年・上半期)のころの直木賞というのは、ジャーナリズムのなかでもとくに扇情的で享楽的な芸能方面のゴシップ報道にもみくちゃにされている真っ最中の時代です。80年代の10年間は、直木賞にとってもそれまでの歴史と一線を画す激動の流れがあり、芸能人に小説を書かせて本を売るとか、ミステリーやファンタジー、冒険活劇も当然のように候補の一角を占めるとか、現在にまで息づく直木賞のなかの、いくつかの性格のはじまりが、その時代にあったと強弁しても、だいたい許されるだろうと思います。

 しかし、森さんがはじめて直木賞の候補になった「熱い風」は、昭和57年/1982年9月に集英社から刊行された『熱い風』ではなく、『すばる』同年9月号に掲載された「熱い風」だとされています。単行本のほうは、同年『すばる』に発表された「Oh Dad,Please……」と「サウスランド・ホテルにて」が収められて、全体で『熱い風』という作品になっており、いまから絶対にこちらの体裁のものが候補に挙げられるはずですが、どうして当時の直木賞は、わざわざ不完全な雑誌掲載のほうを候補にしたのか。もはやわかりません。この、何だかよくわからない候補選出基準に、往年の直木賞っぽさが残っている、ある意味では、はざかい期です。

 雑誌に載った「熱い風」は、「ある破綻」「メイシェン・ソテのこと」「熱風」の3つの章に分かれていますが、いずれも舞台は同じシンガポールです。リゾート・ホテルのブレックファースト・ルームで、日本人の妻シナと、イギリス人の夫フィルが朝食をとる場面から始まります。二人のあいだにあるすきま風、セックスの回数の話題を朝食から持ち出す妻にうんざりする夫、離婚寸前まで行っていると思われるシナの友人サトコの話、などなどシナとフィルを中心に、彼らをとりまく男女のあいだの、気持ちのかけ違い、いざこざ、それでも進む時の流れが描かれていきます。あまりになにげないことを書いているようなので、うっかりどうしてこれが直木賞の候補作なのかわからなくなるくらいです。

 「どうして直木賞の候補作なのか」と思わせてしまうところが、この作品の直木賞にふさわしい点だということはたしかなんですけど、やはり最終選考会まで進んだときに、これを受賞に推す人はかなりの少数派。というか、「選考委員会の異物」こと阿川弘之さんただひとりしか授賞を主張せず、他は胡桃沢耕史『天山を越えて』、赤瀬川隼「捕手はまだか」、高橋治『絢爛たる影絵』あたりに票が割れて、この回は受賞作なしに終わりました。

 森さんの「熱い風」に対して、最も素晴らしい選評を残したのが、源氏鶏太さん70歳です。

「阿川委員のみが唯一の授賞作として頑張ったが、私にはこの作品のよさが、どうしても理解出来なかった。私の老いのせいだろうか。」(『オール讀物』昭和58年/1983年4月号より)

 「~だろうか」などと白々しく他人に投げかけるところが、源氏さんの腰が引けた感じが出ていて素晴らしいんですけど、仮に老いたことが理由で何かを理解できなくなったとしても、何の問題もありません。たかだか直木賞のことで目くじらを立てるほうが、「何かを理解していない」ことより問題があると思います。森さんの生み出す作品が、時の直木賞の風合いに合っていなかった、ということで、それはそれで仕方ありません。

          ○

 それで、「直木賞、海を越える」のテーマで、どうして森瑤子さんが出てくるのかといえば、「熱い風」の舞台設定からも明らかに伝わってきますが、森さんの存在そのものがインターナショナルで、ボーダーレスで、海だけじゃなく、いろんなものを越えてしまっているからです。

 最初の海外体験は、日中戦争のさなか、1、2歳のときから終戦で引き上げる7歳ぐらいのときまで、父親の仕事の関係で中国の張家口で暮らしたことだそうです。この父親というのが、森さんの没後に3冊の本を出した伊藤三男さん、もとは作家志望で昭和9年/1934年の第14回『サンデー毎日』大衆文芸では井上靖(筆名・沢木信乃)「初恋物語」などとともに入選5作に入った、「伝蔵脱走」の藤川省自のことだ、というのですからなかなかの驚きです。源氏鶏太さんもその1年半後、この懸賞で佳作に入っている世代ですけど、三男さんは「熱い風」のよさ、理解できたんでしょうか。

 それはともかく、何といっても森さんの作家デビューで騒がれたのは、イギリス人の夫がいて、あいだに3人の子どもを持つ主婦だった……という、いま現在がんがん叩かれている銀座の呉服店「銀座いせよし」がポスターに採用したコピー「ハーフの子を産みたい方に」を地で行く、とうてい古風なイメージとは言いがたい来歴でした。文芸的な評価もさることながら、結婚している男や女の、恋愛感情もしくは生活感情を、子育てを一段落したばかりの30代の女性が書いて話題になる、というのは当時でいえば、新しい作家像です。残念ながら直木賞は、新しいものに対してはしばらく様子を見る性質があります。そういうの担当は芥川賞のほうなんだから、森瑤子が直木賞も芥川賞をとっていないのは、100パーセント芥川賞の責任だ! と、ここは人のせいにしておきたいと思います。

 文学賞の世界で「ボーダーレス」というと、直木賞を看板とするエンタメ小説と、芥川賞が対象にする純文芸のあいだを乗り越え、飛び越えることを指す場合があります。森さんの存在そのものが、国の境界、ないしは小説ジャンルの境界を、おのずと越える人だったことは、すばる文学賞を受賞して間もないエッセイに、早くも現われています。

「日本人は分類し、差別し、レッテルを貼るのが好きだ。私も既にその洗礼を受けた。

人々は、早くもサガンのような、あるいは翻訳文のような、と分類し、レッテルを貼ると、安心してしまったが、私は、誰々のような、又は何々のような、と言われた瞬間から、安心などしていられないのである。」(『青春と読書』昭和54年/1979年1月号 森瑤子「半分外人」より)

 日本人だけが分類好き、差別好き、レッテル貼り好き、なのかどうかはワタクシにはわかりませんが、貼られるのが嫌な人は、どこの国であろうが等しくいるでしょう。純文芸誌だと見なされる『すばる』に掲載された小説を、エンタメ小説にしかあげないと思われがちなこちらの賞の候補に残そう、という当時の直木賞予選委員の行動も、多少はそのレッテル貼りに反抗しようという試みだったのかもしれず、そう思えば森さんも直木賞も、つねにレッテルに囲まれた似たもの同士。

 森さんはもういませんが、直木賞には、今日も明日もえんえんと洗礼を受けつづけながら、頑張って反抗していってほしいと思います。

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