三橋一夫、ヨーロッパに留学して酒ばっかり飲んでいた経験を、小説に発展させる。
日本人が海を渡る理由は千差万別、人それぞれの事情があると思います。そのなかでも数多くの人たちによって連綿と書き継がれてきたのが、「海外留学」を題材にした小説です。近代の世が明けた明治から現代にいたるまで100年以上、ひとつのジャンルを形成していると言っていいくらいに、着実に日本に根づいています。
留学関係の小説がどのように発生し、どう進化して、どれほどの山脈を構築することになったのか。おそらくこれまでもいろんな人たちが研究課題に挙げて調べ上げているでしょうから、わざわざうちのブログが付け加えることはないんですけど、とりあえず文学史のほんの一部分しか占めていない我らが直木賞にさえ、その流れを見て取ることができます。ぜひ少しでも多く触れていきたいところです。
第27回(昭和27年/1952年・上半期)の直木賞で、ただ一度候補に挙がった三橋一夫さんも、慶應義塾大学を卒業するまぎわに、留学という名目でヨーロッパに派遣された経験の持ち主です。帰ってきたのが、中国本土でちょうど土肥原部隊が奉天を占領した時期だった、ということなので、昭和6年/1931年までの2年間、ヨーロッパに行っていたことになります。年齢でいうと20代前半。三橋さんの、おそらく血気盛んだったころです。
学校とのあいだには、帰国したら助教授にしてくれる、という約束があったそうですから、少なくとも将来を嘱望された学生だったんでしょう。しかし、遊学中に何をどれだけ学んだのか、けっきょくのところよくわからず、とりあえず先にベルリンに住んでいた日本人たちには、海外で勉強ばかりしていると神経衰弱になるぞ、学業もほどほどにしておけ、とアドバイスされたそうです。精神を病むほどの環境。留学小説が数多く生まれる素地は、そういうところにもあるのかもしれません。
人には娯楽としてダンスをすすめられますが、三橋さん自身はダンスなんて性に合わないぜ、と相手にせず、結果、学業そっちのけでのめり込んだのが酒を飲むことでした。……ベルリンから、ミュンヘン、ウイーン、ジュネーブ、モンブラン、パリ、ニース、ロンドン、ローマ、ミラノ、ゼノア、ナポリと、行く先々で当地の酒場に出向き、酒をくらい、酩酊して、いろいろな失敗をやらかします。いや、「やらかします」などと断定してはいけませんね。おれは失敗をやらかしつづけたのだ、というのは、あくまで三橋さんが主張するところです。
この小説のいったいどこからどこまでが創作なのか、皆目見当もつきません。ただ、2年にわたる自身の留学経験を「酒と失敗の連続だった」と位置づけるところに、三橋作品のおおらかさ、ないしは懐の深さが醸し出されていることは、たしかでしょう。将来作家になってやろうとか文学で生きていこうとか、まず考えていなかったこの時期の経験が、めぐりめぐってかたちになり、『天国は盃の中に』という作品に結実します。けっきょくこれが、三橋さんのほぼ唯一と言っていい文学賞との縁をつなぐのですから、失敗でも何でも、経験ほど大切なものはありません。
それと三橋さんの履歴を追っていて、もうひとつ驚かされるのは、作家として活躍しはじめるまでの、あるいは商業誌に書きはじめてからの、他の作家との付き合いが、異様に幅広くて脈絡なく、多方面にわたっているところです。
戦後、たまたま近所に住んでいた志賀直哉さんと仲良くなった、とサラッと回想してみせています。その志賀さんから、仕事がないなら何か書いてみなよ、ぼくが読んであげるから、とか乗せられて、久しぶりに筆をとって書いてみたら、その小説が志賀さんに褒められたものですから、三橋さんが自信をもったのも当然です。しかし志賀さんの付き合いのあった雑誌社は、どこも真面目で硬派なところばかり。それじゃあということで、戦前、『三田文学』に習作を載せたときに感想の手紙をもらったことのある林房雄さんに、出来上がった作品を送ってみたところ、そのつてで『新青年』の高森栄次さんの手にわたって、商業誌デビューを果たすことになるという、なかなかの幸運ぶりです。
さらには、雑誌に載ったその作品を読んで、これは面白い! と編集部に手紙を送ってきたのが山本周五郎さんで、それを縁に山本さんともお付き合いが始まります。そうなると、山本さんと仲のよかった売れない読み物作家、日吉早苗さんとも打ち解けて交流を深め合った、ということです。
と、少し先に行きすぎましたが、『新青年』の常連執筆者になるより前に、人に誘われて長谷川伸さん門下の新鷹会という集まりに、客分の扱いで出入りするようになっていたのも、三橋さんの脈絡なき交遊関係のひとつです。新鷹会の機関雑誌といってもいい『大衆文芸』は、当時は商業誌でもあったので、多少の稿料は出たはずですが、そこに連載というかたちで自分の留学体験を掘り起こし、ユーモアチックにこつこつと書きつづけます。それが「天国は盃の中に」です。
掲載された雑誌が何だったかによって、その作品の運命が変わることがあります。文学的な評価とは大して関係がなかったりしますが、文学賞の界隈では日常的によく見かける出来事です。三橋さんの小説も、ずっと『新青年』にだけ載っていたら、昭和20年代の直木賞に拾われることはなかったかもしれません。これが『大衆文芸』に連載され、新小説社で本になったところに、直木賞とのつながりが生まれた、と見てまず間違いなく、どこに掲載されたとか、どこの会社から出たとか、そういうことで候補になりやすかったり、なりにくかったりするという馬鹿バカしさが、また直木賞の面白いところです。
○
いまの直木賞とは同じ基準で比べられませんけど、昭和27年/1952年当時、この賞の候補になることに、何ほどの意味があったのでしょうか。かなりナゾです。
8年以上はつづける、という約束で定期的に寄稿していた『新青年』が、昭和25年/1950年、2年足らずの段階でつぶれてしまい、その後、貸本作家として食いつなぐようになる三橋さんに、直木賞の候補という事実が役に立ったようにはとうてい見えません。
この直木賞の候補入りについて、後年、三橋さん自身はこんなふうに書いています。ヨーロッパでやらかした酒のさまざまな逸話は、文学賞の候補にまではなる、だけどけっきょく受賞はできない類いの内容だ、ということです。
「私は後年(終戦後、今から三十年ほど前)私の若い頃の、欧州各地での、お酒の失敗談を、小説風に『天国は盃の中に』という題名で本にした。
今は絶版になっているが、この本が青木賞候補と、それから一、二年して夕日新聞社の文学賞候補になったが、ともに二位だった。
夕日新聞社の方は、その年は、文学賞の「該当者ナシ」の年である。
いつも二位のものを、いまさら、繰り返し書く気にもならない。」(『総合教育技術』昭和58年/1983年8月号 三橋一夫「新 転々丸漂流記 5《大暴風(シケ)の巻》」より)
「青木賞」というのが直木賞だとすると、「夕日新聞社の文学賞」というのは朝日新聞社の文学賞だと思います。これはいったい何の賞のことでしょう。識者の研究を待ちたいと思います。
ともかく直木賞でいうと、選考委員の吉川英治さんが臆測するところでは、「つかい古された題材という点に難があったものとおもう。」(『オール讀物』昭和27年/1952年10月号)と言っています。なるほどヨーロッパ留学とか、あるいはそこでの酒の失敗談というのは、題材としては古くさく見られたらしいです。
ありがちな留学の話を、すべて酒の魅力、魔力の逸話に結びつけ、見知らぬ土地で生活することの不安、プレッシャー、その他もろもろの精神的な浮き沈みを吹き飛ばすかのような豪放さを、いかにも軽々しい文体で書き切っているところが、この小説のよさだと思います。深刻ぶったものが大好きな直木賞には、とうてい水が合わなくて当然でしょう。絶対的な文学基準でない以上、こういうとりこぼしがあるのはもう、仕方がありません。
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