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2019年6月の6件の記事

2019年6月30日 (日)

三橋一夫、ヨーロッパに留学して酒ばっかり飲んでいた経験を、小説に発展させる。

 日本人が海を渡る理由は千差万別、人それぞれの事情があると思います。そのなかでも数多くの人たちによって連綿と書き継がれてきたのが、「海外留学」を題材にした小説です。近代の世が明けた明治から現代にいたるまで100年以上、ひとつのジャンルを形成していると言っていいくらいに、着実に日本に根づいています。

 留学関係の小説がどのように発生し、どう進化して、どれほどの山脈を構築することになったのか。おそらくこれまでもいろんな人たちが研究課題に挙げて調べ上げているでしょうから、わざわざうちのブログが付け加えることはないんですけど、とりあえず文学史のほんの一部分しか占めていない我らが直木賞にさえ、その流れを見て取ることができます。ぜひ少しでも多く触れていきたいところです。

 第27回(昭和27年/1952年・上半期)の直木賞で、ただ一度候補に挙がった三橋一夫さんも、慶應義塾大学を卒業するまぎわに、留学という名目でヨーロッパに派遣された経験の持ち主です。帰ってきたのが、中国本土でちょうど土肥原部隊が奉天を占領した時期だった、ということなので、昭和6年/1931年までの2年間、ヨーロッパに行っていたことになります。年齢でいうと20代前半。三橋さんの、おそらく血気盛んだったころです。

 学校とのあいだには、帰国したら助教授にしてくれる、という約束があったそうですから、少なくとも将来を嘱望された学生だったんでしょう。しかし、遊学中に何をどれだけ学んだのか、けっきょくのところよくわからず、とりあえず先にベルリンに住んでいた日本人たちには、海外で勉強ばかりしていると神経衰弱になるぞ、学業もほどほどにしておけ、とアドバイスされたそうです。精神を病むほどの環境。留学小説が数多く生まれる素地は、そういうところにもあるのかもしれません。

 人には娯楽としてダンスをすすめられますが、三橋さん自身はダンスなんて性に合わないぜ、と相手にせず、結果、学業そっちのけでのめり込んだのが酒を飲むことでした。……ベルリンから、ミュンヘン、ウイーン、ジュネーブ、モンブラン、パリ、ニース、ロンドン、ローマ、ミラノ、ゼノア、ナポリと、行く先々で当地の酒場に出向き、酒をくらい、酩酊して、いろいろな失敗をやらかします。いや、「やらかします」などと断定してはいけませんね。おれは失敗をやらかしつづけたのだ、というのは、あくまで三橋さんが主張するところです。

 この小説のいったいどこからどこまでが創作なのか、皆目見当もつきません。ただ、2年にわたる自身の留学経験を「酒と失敗の連続だった」と位置づけるところに、三橋作品のおおらかさ、ないしは懐の深さが醸し出されていることは、たしかでしょう。将来作家になってやろうとか文学で生きていこうとか、まず考えていなかったこの時期の経験が、めぐりめぐってかたちになり、『天国は盃の中に』という作品に結実します。けっきょくこれが、三橋さんのほぼ唯一と言っていい文学賞との縁をつなぐのですから、失敗でも何でも、経験ほど大切なものはありません。

 それと三橋さんの履歴を追っていて、もうひとつ驚かされるのは、作家として活躍しはじめるまでの、あるいは商業誌に書きはじめてからの、他の作家との付き合いが、異様に幅広くて脈絡なく、多方面にわたっているところです。

 戦後、たまたま近所に住んでいた志賀直哉さんと仲良くなった、とサラッと回想してみせています。その志賀さんから、仕事がないなら何か書いてみなよ、ぼくが読んであげるから、とか乗せられて、久しぶりに筆をとって書いてみたら、その小説が志賀さんに褒められたものですから、三橋さんが自信をもったのも当然です。しかし志賀さんの付き合いのあった雑誌社は、どこも真面目で硬派なところばかり。それじゃあということで、戦前、『三田文学』に習作を載せたときに感想の手紙をもらったことのある林房雄さんに、出来上がった作品を送ってみたところ、そのつてで『新青年』の高森栄次さんの手にわたって、商業誌デビューを果たすことになるという、なかなかの幸運ぶりです。

 さらには、雑誌に載ったその作品を読んで、これは面白い! と編集部に手紙を送ってきたのが山本周五郎さんで、それを縁に山本さんともお付き合いが始まります。そうなると、山本さんと仲のよかった売れない読み物作家、日吉早苗さんとも打ち解けて交流を深め合った、ということです。

 と、少し先に行きすぎましたが、『新青年』の常連執筆者になるより前に、人に誘われて長谷川伸さん門下の新鷹会という集まりに、客分の扱いで出入りするようになっていたのも、三橋さんの脈絡なき交遊関係のひとつです。新鷹会の機関雑誌といってもいい『大衆文芸』は、当時は商業誌でもあったので、多少の稿料は出たはずですが、そこに連載というかたちで自分の留学体験を掘り起こし、ユーモアチックにこつこつと書きつづけます。それが「天国は盃の中に」です。

 掲載された雑誌が何だったかによって、その作品の運命が変わることがあります。文学的な評価とは大して関係がなかったりしますが、文学賞の界隈では日常的によく見かける出来事です。三橋さんの小説も、ずっと『新青年』にだけ載っていたら、昭和20年代の直木賞に拾われることはなかったかもしれません。これが『大衆文芸』に連載され、新小説社で本になったところに、直木賞とのつながりが生まれた、と見てまず間違いなく、どこに掲載されたとか、どこの会社から出たとか、そういうことで候補になりやすかったり、なりにくかったりするという馬鹿バカしさが、また直木賞の面白いところです。

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2019年6月23日 (日)

森瑤子、シンガポール旅行に出かけた日本人妻・英国人夫の小説で直木賞候補。

 来月に決まる第161回(平成31年・令和1年/2019年・上半期)直木賞では、候補者全員が女性になった、と先日発表されました。

 「作家が女性か男性かなんて関係ないじゃないか、そんなことで話題にするマスコミ、クソ」というような意見が、早くもそこかしこで飛び交っています。とりあえず世間が盛り上がっていることには何か文句をつけておきたい、という病気を患った人たちが、こんなふうにたくさんいるおかげで、今回もまた、賛否を含めてみんなが騒ぐ催しを定期的に繰り返す、という主催者の日本文学振興会の狙いどおりに、順調に行っているようです。

 さて、次の直木賞のことはひとまず忘れるとして、今年上半期には、島崎今日子さんの『森瑤子の帽子』(平成31年/2019年2月・幻冬舎刊、『小説幻冬』平成29年/2017年11月号~平成30年/2018年12月号を加筆修正)という本が出ました。21世紀もそろそろ20年が経とうとしているいまこの状況で、およそ1970年代~90年代の日本社会の時代性を振り返りながら、森瑤子という作家の実像と虚飾をとらえ直す、という貴重な仕事としか言いようのない一冊になっています。

 デビューのすばる文学賞の他には、文学賞の受賞がなかった森さんのことです。文学賞について詳細な話が出てくるわけじゃないんですけど、芥川賞の候補に2回なって、今度は直木賞の候補にも2度なった森さんが、もうそのころには各社、各編集者が原稿をとりたがる注目度ナンバーワンの作家に躍り出ていた……というかたちで、直木賞もほんの少し、ご相伴に預からせてもらっています。

 とにかく森さんが候補になった第88回(昭和57年/1982年・下半期)、第89回(昭和58年/1983年・上半期)のころの直木賞というのは、ジャーナリズムのなかでもとくに扇情的で享楽的な芸能方面のゴシップ報道にもみくちゃにされている真っ最中の時代です。80年代の10年間は、直木賞にとってもそれまでの歴史と一線を画す激動の流れがあり、芸能人に小説を書かせて本を売るとか、ミステリーやファンタジー、冒険活劇も当然のように候補の一角を占めるとか、現在にまで息づく直木賞のなかの、いくつかの性格のはじまりが、その時代にあったと強弁しても、だいたい許されるだろうと思います。

 しかし、森さんがはじめて直木賞の候補になった「熱い風」は、昭和57年/1982年9月に集英社から刊行された『熱い風』ではなく、『すばる』同年9月号に掲載された「熱い風」だとされています。単行本のほうは、同年『すばる』に発表された「Oh Dad,Please……」と「サウスランド・ホテルにて」が収められて、全体で『熱い風』という作品になっており、いまから絶対にこちらの体裁のものが候補に挙げられるはずですが、どうして当時の直木賞は、わざわざ不完全な雑誌掲載のほうを候補にしたのか。もはやわかりません。この、何だかよくわからない候補選出基準に、往年の直木賞っぽさが残っている、ある意味では、はざかい期です。

 雑誌に載った「熱い風」は、「ある破綻」「メイシェン・ソテのこと」「熱風」の3つの章に分かれていますが、いずれも舞台は同じシンガポールです。リゾート・ホテルのブレックファースト・ルームで、日本人の妻シナと、イギリス人の夫フィルが朝食をとる場面から始まります。二人のあいだにあるすきま風、セックスの回数の話題を朝食から持ち出す妻にうんざりする夫、離婚寸前まで行っていると思われるシナの友人サトコの話、などなどシナとフィルを中心に、彼らをとりまく男女のあいだの、気持ちのかけ違い、いざこざ、それでも進む時の流れが描かれていきます。あまりになにげないことを書いているようなので、うっかりどうしてこれが直木賞の候補作なのかわからなくなるくらいです。

 「どうして直木賞の候補作なのか」と思わせてしまうところが、この作品の直木賞にふさわしい点だということはたしかなんですけど、やはり最終選考会まで進んだときに、これを受賞に推す人はかなりの少数派。というか、「選考委員会の異物」こと阿川弘之さんただひとりしか授賞を主張せず、他は胡桃沢耕史『天山を越えて』、赤瀬川隼「捕手はまだか」、高橋治『絢爛たる影絵』あたりに票が割れて、この回は受賞作なしに終わりました。

 森さんの「熱い風」に対して、最も素晴らしい選評を残したのが、源氏鶏太さん70歳です。

「阿川委員のみが唯一の授賞作として頑張ったが、私にはこの作品のよさが、どうしても理解出来なかった。私の老いのせいだろうか。」(『オール讀物』昭和58年/1983年4月号より)

 「~だろうか」などと白々しく他人に投げかけるところが、源氏さんの腰が引けた感じが出ていて素晴らしいんですけど、仮に老いたことが理由で何かを理解できなくなったとしても、何の問題もありません。たかだか直木賞のことで目くじらを立てるほうが、「何かを理解していない」ことより問題があると思います。森さんの生み出す作品が、時の直木賞の風合いに合っていなかった、ということで、それはそれで仕方ありません。

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2019年6月16日 (日)

松坂忠則、出征した中国南部で、生まれてはじめて小説を書く。

 第10回(昭和14年/1939年・下半期)の直木賞は、芥川賞の選考委員が正式に(もしくは試しに)直木賞のほうにも混ざって選考する、という驚愕の制度がとられた、歴史的にも重要な回です。

 ざっくり言ってしまうと、直木賞の委員たちはだいたいみんなヤル気が低く、こんなんじゃ駄目だ、と小島政二郎さんが吠えたところから話が転がり、「大衆文芸の作家が純文学の賞を決めるのであれば確実に異論が出るが、その逆なら大丈夫」という、なかなか悲しい風潮を巧みに利用して、芥川賞の評議員だった宇野浩二、川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、谷崎潤一郎、室生犀星、山本有三、横光利一を名目上、直木賞の評議にも加わってもらうことにした一件です。現実には谷崎、山本の2人は芥川賞の評議にすら参加していなかったようなので除くとして、他の人たちは直木賞の候補作を読み、困惑した様子でいっとき直木賞に参加させられました。

 けっきょく第10回は議論がまとまらず、2期連続での授賞なし、というところに落ち着きます。最終的に残った候補は全5作、なかでもいちばんの変り種は、福岡で刊行されていた同人誌『九州文学』から、無名中の無名、岩下俊作さんの「富島松五郎伝」を、芥川賞評議員の瀧井さんが直木賞のほうの候補に持ってきたことです。あまりに変り種なので、うちのブログでも何度か触れたことがあります。

 それに次いでこの回に特異な候補者といえば、もうこの人しかいません。今週取り上げる松坂忠則さんです。

 明治35年/1902年生まれで、「火の赤十字」を発表したのが38歳。それまでの文学的履歴は皆無に近く、松坂さん自身もこれを小説として書いたとは、とうてい思われません。あるいは別の雑誌に発表されていたら、まず文学賞史上に現われることもなかったはずですが、たまたま文藝春秋社の月刊読物誌『話』に載ったおかげで、予選のひとつに含まれ、「直木賞を小説だけに限定することなかれ」という、初期の直木賞を貫いていた顕彰精神ともマッチして、ダークホースな候補作として議論に残ることになります。

 松坂さんの履歴を挙げると、秋田県小坂町の貧しい家に生まれ、高等小学一年を終えたところで退学、すぐに働きに出て小坂鉱山の鉱夫となります。しかし向学の心おさえがたく、能代港町にあった工業徒弟学校に入り、そこを卒業したあとは漆器工場、そして湯沢町の両関酒醸に職を見つけます。ここまでは、あまり国際的とか、海外に縁のある生活は見当たりません。

 時に大正9年/1920年11月、住友に勤める実業家の山下芳太郎さんが中心となって「仮名文字協会」が設立され、日本の文書を変形カタカナ・左横書きへと変えていこうと主張。住友総本店理事の職を退いた大正11年/1922年には「カナモジカイ」と改組して、けっこう多くの人が賛同していましたが、上京した松坂さんはそこの事務員となって、国語国字の改良(見方によっては改悪)に一生を捧げることを決意します。

 その活動のひとつが、新聞でどれだけの種類の漢字が使われているか、また学童たちがどれだけの種類の漢字が書けるか、その両方を調査した結果に生み出した「漢字500字制限案」というシロモノです。難しい漢字で書くのをやめて、制定されたもの以外の漢字は、すべてカナで書こうじゃないか……という、まあ聞いただけでも批判・異論が集中しそうな意見ではあったんですが、これが戦後日本で国語審議会が主導して採用することになった「当用漢字」、昭和56年/1981年に公布された「常用漢字」へとつながっていくので、いまのワタクシたちに無縁というわけではありません。

 しかし、これまで使っていた漢字を一斉に廃止するなんて、とうてい無理に違いない。だいいちそれでは実用文は書けても文学作品は書けないだろう。という猛反発を受けた松坂さんは、信念を貫こうと決めたら簡単には折れない、頼もしさがあった反面、融通の利かなさを兼ね備えていたらしく、くそお、制限された数の漢字しか使わずとも何かまとまった物語は書けるはずだ、と思いを募らせます。昭和12年/1937年、そんな折りに自分の身に振りかかってきたのが、松坂さんの運命を変えたといってもいい召集令状でした。

 この年の7月に盧溝橋事件によって、ついに戦火を交えることになった中国と日本。日本ではまもなく特設師団として第百一師団が編成され、師団長には柏原兵三さんの「徳山道助の帰郷」のモデルとして知られる伊東政喜さんが就きます。9月には中国本土に上陸、上海攻略戦に参加することになりますが、ここに召集されていよいよ海を渡ったのが、衛生曹長の肩書を受けた松坂さんその人です。大場鎮、南京、南昌、漢口へと転戦する合間に、死ぬまえにひとつでいいから、500字制限の漢字とカナで小説を書いてみたい、との熱意を抑えることができずに、海外の地で書き上げたのが「火の赤十字」でした。

 

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2019年6月 9日 (日)

江國香織、アメリカ・デラウェア大学への留学を経て小説を書き出す。

 いまから15年前、平成16年/2004年は文学賞の当たり年と言われています。

 1月15日に選考会が開かれた第130回芥川賞(平成15年/2003年下半期)では、20歳前後の女性作家が3人も候補に挙がっていたことで話題が過熱。しかも結果的に19歳と20歳の二人が同時に受賞したものですから大変なにぎわいで、文芸関係の雑誌だけじゃなく、テレビからウェブ記事から、社会現象を扱う多くのメディアに取り上げられ、いっぽうは100万部、他方は50万部を突破するという、商売的にもおいしい受賞模様を生み出します。この辺はみなさんご存じのとおり……と言いたいところですが、それも15年前ですから、リアルタイムの印象がない世代もいるかもしれません。おじさんおばさんが何年たっても「あのときはさあ」と悦に入って語り継ぐ、そういう類いの騒ぎだった、ということにしておいてください。

 この騒ぎが続いているさなか、新たな文学賞コンテンツとして誕生した大森望・豊崎由美両氏の企画「文学賞メッタ斬り!」が単行本として発売され、何万部だかを売り上げたのもこの年のことです。どっちがきっかけで、どっちが結果なのか、もはやよくわかりませんが、文学賞というものが新局面を迎えたこの年に、直木賞・芥川賞だけじゃなくおよその文学賞をガイドする同書が刊行されたのは、この企画を通した人たちの感覚の鋭さも讃えられるべきだと思います。

 1月15日は、まったく何モノの企画かも定かではなかった生まれたばかりの「本屋大賞」が、最初のノミネート作10作を発表した日でもあります。その年の4月に2次投票の結果が発表され、発表会で本の雑誌社社長浜本茂さんが「打倒、直木賞」と叫び、大賞を受賞した小川洋子『博士の愛した数式』がまたたく間に書店の店頭から売り切れて、直木賞以上の売上げ効果を叩き出します。

 7月15日に決定した第131回(平成16年/2004年上半期)の直木賞では、先に山本周五郎賞を受賞していた熊谷達也さんの『邂逅の森』が、こちらも合わせてダブル受賞。一般的に、直木賞&山周賞のダブル、と言っても購買意欲に響いたのはほんの一部で、けっきょく「売れない受賞作」の部類に入る惨澹たる売上げしか残せませんでしたが、両賞をたてつづけにとる作品が生まれたことは、文学賞史に貴重な刻印を残したことに間違いありません。売れ行きでいうと、同じく直木賞をとった奥田英朗さんの『空中ブランコ』が、ぐんぐん足を伸ばして最終的に30万部を超える大ヒット。直木賞の面目を保ちます。

 その他、垣根涼介『ワイルド・ソウル』の3冠達成とか、新しいかたちの公募型新人賞「ボイルドエッグズ新人賞」の創設とか、50回の歴史を刻んだ「江戸川乱歩賞」で史上最年少の受賞者が生まれたとか、「らいらっく文学賞」が終了したとか、ポロポロと文学賞の話題はあるんですけど、強烈なスポットライトが当たった第130回芥川賞のかげで、このとき直木賞を受賞したひとりが江國香織さんです。前置きが長くなりすぎました。

 ついこないだ、江國さんの新刊『彼女たちの場合は』(令和1年/2019年5月・集英社刊)を読みました。日本での場面も少し入ってきますが、大半が海外、アメリカを舞台にした小説です。それで「直木賞、海を越える」というブログテーマを考えたときに、真っ先に浮かんだのが江國さんのことでした。

 直木賞を受賞した『号泣する準備はできていた』は、12篇の短篇から成る作品集ですが、とくに海外を舞台にしたものはありません。その1年半前、第127回(平成14年/2002年・上半期)で候補に挙がり、これでとってもよかったんじゃないかと思われる『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』のほうも、やはり10個の独立した短篇が収められたもので、こちらのほうは多少、海外に関係する話はあるけれど、やはり多くは日本が舞台です。しかし、だいたいどれを読んでも江國さんの小説に、そこはかとない海外感が漂っていることは否めません。根っからのコスモポリタン……というか根なし草の旅びと、って感じです。

 短大を卒業後、アルバイトでお金を貯めて友達とヨーロッパ・北アフリカを旅行する、というところから、詩を学ぶために(もしくは英語を学ぶために)1年間、アメリカのデラウェア大学に留学してみる、という発想に、天然の自由人の一端が垣間見えています。

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第13期のテーマは「海外」。直木賞には似合わない(かもしれない)、国際的な一面に光を当てます。

 沈みゆく巨艦、と直木賞が言われはじめて、もう何年たつのでしょうか。もしかして言われていないかもしれませんが、出版市場の規模縮小は止まりません。そんななかで「昔ながらの古くさい仕組みでよくやっているよ」と今後も言われつづけることがほぼ決定している、歴史的な遺物、直木三十五賞。この賞があまりに面白いせいで、ブログを書くのがやめられず、この5月で13年目を迎えました。

 13年間、毎週直木賞のことを考えていると、次はどういう切り口でブログを書こうかと、いろいろ頭に浮かんできます。いっぽうで、直木賞に関わった受賞者や候補者、その人たちの作品のことをもっと数多く取り上げていきたい、という思いもあります。なるべくこれまで触れたことのある作家は避け、しかも1年間50週ぐらいは続くようなテーマ。何かないだろうか。……こんな何ひとつ社会の役に立たない無益なことを考える時間が、だいたいいちばん楽しいです。

 というところで、令和1年/2019年6月から始める13年目のテーマは、「直木賞、海を越える」というものに決めました。

 直木賞は日本で刊行された、日本語で書かれた小説のために運営されている日本の文学賞です。しかし80年以上もやっていれば、日本以外の国籍の人が候補になったり、海外に縁の深い人が注目されたり、海を越えた土地が舞台となった小説が議論されたり、日本という国のなかの話にとどまらないエピソードが山のように積み重なっていきます。

 しかし、どう見積もってもこの賞を「国際的な賞」とは言いがたいです。日本人が登場しない候補作に対して、それを理由に批判的な論評をくだす選考委員がいる。というような直木賞を構成する微々たる性質だけをことさら大仰に取り出して、何だかんだと直木賞を批判する人がいるくらいです。そういう様子を眺めていると、よほど直木賞が気に食わない人が、この世には一定数いるんだな、ということがわかりますが、それと同時に、直木賞のなかにだって海外のことや国際事情、日本以外の土地や人びとを尊ぶ伝統が流れているはずなんだけど……と調べたくなる衝動を抑えることができません。

 相変らず物好きにもほどがあるようなテーマ設定ですけど、来年は2020年、多少はわれわれの日常生活にも海外の風が吹くのではないか、と推測される頃合いです。直木賞を通して海外を感じるのも悪くないかもしれません。悪いかもしれません。よくわかりませんが、これでやろうと決めてしまったからには愚図愚図いわず、直木賞と海外との関連性をあれこれ考えて、ひきつづき楽しんでいきたいと思います。

 まず第1週目は、自身の海外留学の経験をきっかけに小説を職業として書く意識が芽生え、いまなお海を越えた作品をぞくぞくと生み出している、直木賞受賞者の話から始めます。

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2019年6月 2日 (日)

平成27年/2015年・妻に対する傷害容疑で逮捕、不起訴となった冲方丁。

妻に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された作家の冲方丁(引用者中略)さん(38)について、東京地検は15日、不起訴処分にしたと発表した。地検は処分理由について「夫婦間で問題は解決されており、妻も処罰を望んでいないため」と説明している。

――『朝日新聞』平成27年/2015年10月16日「冲方丁さん、不起訴処分に」より

 昨年平成30年/2018年の6月から始めた「犯罪でたどる直木賞史」のテーマも、今回で何とか50回目です。相変らず当初の想定どおりには進まず、無理やり感のあるエントリーを適当に差し挟んでお茶を濁してきましたが、とりあえず今週でこのテーマは最後にしたいと思います。

 それで毎週、次は何の話題を取り上げようかと物色するのは、意外と楽しい時間だったんですが、そのあいだ、このニュースに触れるかどうかはかなり悩みました。悩んだすえにけっきょく書いてみることにしたのは、直木賞や直木賞候補者がからみ合った話として、これだけ知れ渡ったニュースを無視するのも変だなと思ったからです。いまから4年弱まえ、冲方丁さんが妻への傷害容疑で逮捕された、ということで大きく報道された一連の騒動についてです。

 そのとき誰が何をして、どんな発言をし、どう騒ぎになったのか。いまでもネット上に無数の痕跡が残っています。といいますか、本人や関係者以外よくわからないことを、単なる臆測で物語っても仕方ありません。経緯だけ簡単にまとめます。

 平成27年/2015年8月21日夜7時ごろ、冲方さんが事務所として使用していたマンションの、エントランス付近で冲方夫妻が口論となり、冲方さんが妻の顔を殴って前歯を折るなどの怪我をさせた、という内容で、翌22日妻が警察に相談した結果、警察が動きます。その日の夜に「冲方サミット」というイベントを秋葉原で開いていた冲方さんが、無事終わって打ち上げをしていたところ、警察がやってきて「奥様のことでうかがいたいことがあるので、署までご同行願います」と、それだけ言って冲方さんを渋谷署に連行。妻に対する傷害の容疑で勾留されることになります。連日、取り調べが行われますが、冲方さんは容疑を否認、けっきょくそのまま8月31日に釈放され、その後10月15日に、東京地検が不起訴処分とすることに決定しました。

 この騒ぎが、冲方さんやそのまわりの人たちに大きな影響を与えたことは明らかでしょう。あるいはいまも影響を残しているのかもしれません。ということで、ここでは時系列上、文学賞とくに直木賞との関係性を中心に、流れを追ってみます。

 冲方さんがデビュー13年にして初めての歴史小説『天地明察』を刊行し、吉川新人賞、本屋大賞をたてつづけに受賞、そのまま鳴り物入りで直木賞の候補に挙げられたのが、平成22年/2010年7月決定の第143回(平成22年/2010年・上半期)のときでした。その鳴り物もずいぶんうるさいものがありましたが、人と違ったことをするプロデュース力に長けた冲方さんは、自宅で待つ、行きつけの店で待つ、というのが一般的な、結果発表を受けるための「待ち会」を一般公開にし、パーティー形式の「大・待ち会」と称して、観衆にもいっしょに楽しんでもらえるようなイベントに仕立てます。受賞すれば大盛り上がり、落選すればおのずと湿っぽくなる、というのが一般的な固定観念としてありますが、そこから少しでも足を踏み出す行動を模索してみる。尊いことだと思います。

 「大・待ち会」にも姿を見せて仲睦まじいと称される関係に見えていたその妻と、それから5年後の平成27年/2015年8月にいざこざが起こり、DVだ、勾留だ、不起訴だ、不当逮捕だと、大騒動。不起訴となってわずか1か月少しで、『週刊プレイボーイ』で「冲方丁のこち留 こちら渋谷警察署留置場」(平成27年/2015年12月14日号~平成28年/2016年3月21日号)の連載を始めると、加筆修正のうえ平成28年/2016年8月に集英社インターナショナルから単行本として刊行します。

 「作家だから、そういう話題でも何でも仕事に還元してしまう」という説があります。たしかにそうなのかもしれないな、と思わないでもありません。だけど、そのやり方に冲方さんの独自性が出ていると言いますか、直木賞の候補になったときの待ち会とか、逮捕騒動の後処理とか、できるだけ直接的な還元方法を選んでしまうところが、並の作家とは違う冲方さんの個性です。そんなことやらなければ、静かに執筆活動に専念できるのに……。と思うようなことでも、あえて積極的に顔をさらして、やってしまいます。演者でもあり仕掛け人、プロデューサーでもある冲方さんの真骨頂でしょう。

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