昭和33年/1958年・小説の内容が名誉棄損だと告訴されて笑い飛ばした邱永漢。
「オール読物三月号に掲載された小説“韓非子(かんぴし)学校”の主人公は私をモデルにしたもので、事実と相反することをたくさん書いており、名誉を棄損された」―と十七日、徳大学芸学部法律政治学教室助教授、高橋正臣氏(五〇)(引用者中略)が作者の邱永漢(きゅう・えいかん)氏(引用者中略)とオール読物編集長小野詮造氏(引用者中略)を相手どって徳島地検に告訴した。
(引用者中略)
邱永漢氏の話 「徳島へ旅行中にちょっと耳にはさんだことを私の想像をおりこんで書いたもので、訴えている高橋さんという人も、名西高校という学校も知らない。想像と事実が一致する場合もあるが、これは偶然の一致だろう。あの小説は深刻な現在の教育問題を気軽に笑いながら書いたもので他意はない。告訴してくれれば私も有名になって小説もよく売れるだろうよ」
――『徳島新聞』昭和33年/1958年7月19日夕刊「“モデル助教授”大いに怒る 邱永漢氏らを告訴 徳大の高橋氏“小説は名誉棄損”」より
たとえば何かの小説に、明らかに自分をモデルにしたとわかる人物が出てきたとしたら。しかも、読んだ人の多くが軽蔑するような人物として、かなり誇張して描かれている。……果たしてそれを読んだ自分はどう思うんでしょうか。
……ワタクシ自身はとくにそんな経験もないので、実感はよくわかりませんけど、いまから60年ほどまえの昭和33年/1958年、徳島の地でいきなりそれを体験させられた人がいます。高橋正臣さんです。
さて、いきなり実名を挙げてしまいましたが、高橋さん、いったい何者でしょうか。
きっと知っている人のほうが稀なんじゃないかと思うので、履歴に少し触れておきますと、生まれは明治41年/1908年5月12日。生家は徳島県の河崎家ですが、高橋家の養子に入って姓が変わり、長じて東京帝国大学法学部を卒業します。昭和9年/1934年に満洲国財政部に勤務したところから始まって、総務庁企画処の調査官、参事官、大同学院教官、法制処参事官などとして働きながら終戦まで満洲で暮らしたのち、戦後は故郷に戻って昭和24年/1949年4月から昭和26年/1951年3月まで、徳島県立名西高校の校長に就任。昭和28年/1953年には徳島大学に転じ、昭和33年/1958年当時は50歳で同大の助教授、その後に教授を歴任しました。専門はずっと法律学だったようですが、学生のころから洋楽、とくにバイオリン演奏にハマっていたといい、奥さんも国立音楽学校ピアノ科のご出身だと、『人事興信録』(昭和41年/1966年 第二十三版(下))に書かれています。
それで高橋さんが言うには、『オール讀物』に載っている邱永漢の小説って、あなたのことを書いているようだけど、これってどうなの、と親類や知人などから何件も問い合わせがあったそうです。じっさい読んでみれば、その「韓非子学校」に登場する徳島県M高校の校長というのが、自分をモデルにしていることは明々白々。だけど、ずいぶん事実と相違して戯画的に書かれている。高橋さんカチンと来てしまいます。
というところで、この「韓非子学校」なんですが、昭和31年/1956年に第34回直木賞(昭和30年/1955年下半期)を受賞した邱さんの、これから小説家として活躍していこうかという昭和33年/1958年に発表された一篇で、とうてい邱さんの代表作と呼べるものではありません。これはこれで知っている人のほうが稀なはずなので、あらすじをざっと書いておきます。
語り手の「私」は、かつて一通の手紙を受け取ったことがあります。「私」がある雑誌に韓非子についての文章を発表したところ、送られてきた未知の読者からの手紙で、差出人は徳島県で高校の校長をしているらしい与田文平なる人物です。与田氏は書きます。学生はすべて不良少年で、教員はすべて怠け者だ。だから小生は、いまの教育に必要なのは鞭である、という信念を抱いている。貴殿の書かれた、道徳教育なんか無用で、目指すべきは法治教育だという道徳教育無用論に、心から賛同します、うんぬんと。たしかに韓非は、人間とは悪党であり、そういう悪党でもできるような政治機構を提唱したけれど、まさか本気でそんなことを教育の現場で実践している人がいるとは……と「私」はなかば驚き、なかばあきれ返ります。
その後、たまたま徳島に行く機会を得た「私」は、同地で教育関係の役人をしている柴崎博志という友人に、与田校長のことを尋ねてみます。するとこれが、M高校に赴任して以来、相当に困った校長として知られている人物だ、ということが判明。たとえば、校舎の入口にはたいてい受付の事務室があるものですが、その部屋を校長室にして、生徒や教員が遅刻や早退をしないか目を光らせている。放課後はそこに残って趣味のバイオリンを弾き、教員たちを帰りづらくしている。職員室にある机と椅子を鎖でつないで、勝手に椅子を移動して無駄話をさせないようにしている。あるいは学生の本分は学問することだからと強硬に主張し、卓球で優勝した生徒がいるのに、国体への派遣を認めず、PTAの役員と揉める。と強烈な教育者ぶりをかまして、まわりからなかなか問題視されている様子です。
しかし与田校長は自説をまげず、他校とスポーツで交流試合とかしている場合じゃないと、近隣のN高校に学力テストによる決戦を挑みます。結果は大惨敗となりますが、学校を挙げての学力向上に取り組みはじめ、思いきって野球部を廃止、そこにかかっていた費用を、成績の優秀な生徒たちに当てて、特別授業を受けさせ、東大の合格者を生もうと意気軒昂です。「私」はその様子を見学させてもらいますが、どうにも重苦しい気分になってくるのでした。
これが書かれた昭和33年/1958年からもはや60数年が経っています。当時は、行きすぎた教育方針ではないか、と思われていたような、学力向上と受験と東大合格を結びつけての学校運営も、何ひとつ物珍しいものではなくなり、ちょっとイカれた校長として描かれた与田文平も、いまとなっては学業に熱心な素晴らしい教育者、と見られないともわかりません。そこが笑うに笑えない、邱さんの狙ったリアリティとデフォルメのギリギリのラインだったのでしょう。うまく成功しています。
ところが、モデルにされた高橋さんにとっては不愉快このうえなかったらしく、昭和33年/1958年7月17日、邱さんと『オール讀物』編集長の小野詮造さんを相手取って徳島地検に名誉棄損の訴えを起こすにいたります。「どんなにまわりに迷惑がられようが自分の考えをまげない」という、与田文平校長のモデルになった人だけあって、なかなか高橋さんも意地っ張りな性格だったのかもしれませんが、さらに告訴にまで発展したと思われる大きな要因も見逃せません。
高橋さん自身、自分は教育者であるだけでなく法律の専門家なのだ、という自負があったことです。
○
地元の『徳島新聞』に告訴の記事が載るに当たって、高橋さんはコメントを寄せていますが、
「自分が法律専門だから言論の自由も認めるべきことはわかるが、明らかに私を主人公にしたとしか思えない書き方をしたうえ、事実に反する点も多いし事実あったことでも非常に曲解した描写で、私の名誉を傷つけている。」(『徳島新聞』昭和33年/1958年7月19日夕刊「“モデル助教授”大いに怒る 邱永漢氏らを告訴 徳大の高橋氏“小説は名誉棄損”」より)
と言っています。わざわざ法律を専門にしている自分の立場を語っているところに、そのプライドが見え隠れしていることは否めません。
このとき、同じ記事には邱さんのコメントも載りました。当エントリーの冒頭で紹介したとおりのものです。どんなに叩かれても、まったく応えていないふりをしながら、これで私も有名になるし小説も売れるだろうよ、と余裕の姿勢。直球の批判があっても、いつも受け流しつづける邱さんらしい泰然さが、よく現われています。そしてこういう態度の作家に、イラッとする人がいるのは不思議ではありません。高橋さんが訴えを取り下げることはありませんでした。
じっさいのところ、与田文平のモデルが高橋さんだというのは、まず間違いないようです。小説で描かれている表現でいうと、当時、県下でMのイニシャルをもつ高校は名西と撫養の2校しかなく、かつて満洲で役人を務め、バイオリンに親しみ、国家公務員の試験にパスし、運動部を偏重しすぎる風潮に異を唱えて国体の卓球選手派遣に反対したことがあり、歯が煙草のヤニだらけという特徴をもった校長といえば、どう見てもおれのことだと高橋さんは主張します。地検の検事も、この主人公が高橋さんをモデルにしたことは明らかだと認めたんですが、作者側に悪意をもって中傷しようという犯意が認められないとして、昭和33年/1958年12月31日、不起訴処分に決まりました。
ところが、ここからが高橋さんのしぶとさの真骨頂です。いやいや、そんな処分はあり得ないと、翌昭和34年/1959年5月22日、徳島検察審査会に審査を請求。審議された結果、昭和35年/1960年1月22日に至って、この案件は十分に違法性が認められるという検察審査会の判断をもぎ取り、地検に対して「起訴相当勧告」が出されることになったのです。
高橋さん、語ります。
「私を知っている人があの小説を読めば、私をモデルにしたことはすぐわかるはずで、著しく名誉を傷つけられた。名誉というものは各個人の職業、地位によって異なることを、地検側も知ってほしいものだ」(『徳島新聞』昭和35年/1960年1月22日夕刊「検察審査会 起訴相当と結論 「韓非子学校」モデル事件」より)
何が名誉とされるのか、それは職業や地位によって異なる……つまり、高校から大学で教える高橋正臣の教育者としての名誉を、この小説は棄損しているのだ、と言っています。法律学的にとらえればそういう心情に帰結するのかもしれません。専門家の意見ですから尊重する他ありませんけど、しかし客観的に見て、この一篇の小説にそこまで固執して違法性を問おうとする感覚は、何だか少し怖いです。
あまり関わり合いになりたくないな。……と邱さんも思ったのかどうなのか、それは調べ切れていませんが、改めて法的な決着がつけられたという報道は見当たりません。いや、高橋さんどころか、小説や文芸というものからも、その後の邱さんはどんどん距離を置くようになり、「韓非子学校」という小説も、もはや埋もれた作品としてこんなブログで触れられるぐらいの扱いを受けることになってしまっています。
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