昭和46年/1971年・建物の所有権をめぐる契約書偽造が疑われて逮捕された加賀淳子。
東京地検特捜部は六日夕、(引用者中略)歴史小説作家、加賀淳子(あつこ)=本名、吉村美名子(五一)と加賀の夫、会社役員、吉村益史郎(六二)を私文書偽造、同行使、詐欺未遂の疑いで逮捕した。二人は家の契約書を勝手に偽造した疑い。
――『毎日新聞』昭和46年/1971年9月7日夕刊「女流歴史作家 加賀淳子を逮捕 家の譲渡書偽造 乗っ取り図る」より
直木賞というものは、日本の小説のなかのほんの一部にしか関係がありません。いちいち言うまでもありません。現に直木賞と無縁なマーケットで作家業を営む人はたくさんいますし、これまでも数えきれないほどにいました。じゃあどうして直木賞に関することだけでブログをやっているのか。それを話し始めると長くなるんですけど、「犯罪でたどる直木賞史」のテーマも始まってそろそろ1年、おしまいに差しかかる頃合いですから、ひさしぶりに直木賞(やもうひとつの文学賞)とあまり関係のない作家のことを取り上げたいと思います。
戦後まもない昭和24年/1949年、どさくさまぎれのようにして29歳で文芸出版界にデビューした加賀淳子(あつこ)さんという人がいます。
時代は直木賞や芥川賞が4年にわたる中断から復活したときと重なり、もちろん当時も加賀さんだけじゃなくいろんな人が数々の雑誌でデビューして、なかには横光利一賞や戦後文学賞、大衆雑誌懇話会賞など、そのときにしか存在しなかった賞をとった新人もいましたが、無名のまま商業誌に登場した加賀さんを有名にしたのはそういう文学賞ではなく、別のゴシップ的な話題でした。
デビュー作の「処世」(『改造』昭和24年/1949年10月号)につづいて、「浮雲城」(同誌昭和25年/1950年1月号、第二部は同年12月号)を発表。するとこれが、没落した公爵家をモデルにしている、という素材の衝撃性で悪目立ちしたおかげで、いったい加賀淳子って何者だ、ということになり、加賀さん本人が自分の経歴をペラペラしゃべる人ではなかったことも好転して、どうやら島津忠重元公爵の養女らしいだの、いや加賀百万石の血をひく前田利為元侯爵のご落胤だのと、勝手なウワサ話が文壇を駆け巡ったと言われています。しかも、顔写真などをさらすことは、なぜかNGではなかったため、その顔立ちやたたずまいなどが喧伝され、美貌だ美貌だと、そちら方面でもずいぶんと名を挙げます。
昭和31年/1956年『新潮』2月号に「雑役長官」を発表したときには、親しい作家仲間によるエッセイのようなかたちで、檀一雄さんが「加賀さんのこと」を寄せました。ほんの2ページの短い文章のなかに「美人」という単語が6回、「美貌」が4回も登場するという一種の異様さを漂わせたシロモノで、いまどきこんな作家紹介文を書いたらきっとあちこちから叩かれるでしょう。
じっさいのところ〈加賀〉という筆名は、本名・吉村美名子さんの結婚した益史郎さんの母方の実家が、薩摩島津家忠宗の第六子資忠を始祖とする北郷加賀守三久なる武将だったことに由来しているそうです。要するに加賀さん本人には大名や皇室、華族の血は流れていないわけですが、「元華族にふさわしい貴族的な顔立ち」とかいう、どう考えても胡散くさい謂われが、加賀さんの文壇での活躍をやたらと後押しします。
真偽のわからない、でもいかにもな経歴をもつ、美しい女性。……という、まあ言うなれば、キワモノ扱いの作家として登場したことは間違いありません。しかも、のちになって加賀さんに対する悪口が活発になったときに、このキワモノ感が改めて活きてくるのですから、人間という集団が形成する印象づけの恐ろしさを、まざまざと感じます。たとえば円地文子さんは「何か、初めから信用できない面が、作品の面からも感じられました」(『週刊サンケイ』昭和46年/1971年9月27日号)などと振り返り、林芙美子さんは「目次で加賀淳子と並ぶと「この女は何者か、こんな女と同じ号に書きたくない」と怒った」という証言が出てきたりしました(昭和52年/1977年5月・光和堂刊『雑誌『改造』の四十年』)。
ともかく、デビュー以来20数年。純文芸雑誌から中間小説誌へと軸足を移しながら、女性の歴史小説家の先駆者として活躍をつづけ、当時の用語でいうところの〈自閉症〉の息子を抱えて婦人誌などにそういうテーマのエッセイを書くさなか、昭和42年/1967年、47歳のときには自身も喉頭がんを患って仕事に支障をきたすようになった折りも折り、ひさしぶりといってぐらいに加賀さんに強烈なスポットライトが当たります。それは夫の益史郎さんが経営していた日本橋通のレストランの、建物の所有権をめぐるトラブルが発展して、加賀さん夫妻が東京地検に逮捕されてしまったからです。
地検の調べによれば、昭和40年/1965年春、東京・日本橋通の木造二階建て住宅を所有していた池田よしさんから、加賀さん夫妻がそれを借り受けてレストラン「サラ」を経営していましたが、池田さんに断りもなくこの建物を担保にして金を借りていたことが発覚、昭和42年/1967年6月にいたって池田さんは二人に対して建物明け渡しの訴訟を東京簡裁に起こします。ところが翌年1月に池田さんが亡くなると、加賀さんたちは池田さんから預かっていた印鑑を使って、自分たちに建物を譲渡するという内容の契約書を偽造し、11月、それを証拠として池田さんの長女敏子さんを相手に、建物所有権移転登記請求を提訴。これはけっきょく昭和45年/1970年5月に加賀さんたちの敗訴になりますが、どうも二人が契約書を偽造したらしいぞと知った敏子さんが激怒しないはずはなく、東京地検に告訴するに及んだ結果、昭和46年/1971年9月6日に二人は逮捕され、懲役2年執行猶予3年、という刑がくだります。
まがりなりにもプロの小説家としてコツコツと商業誌に作品を発表し、それなりの地位を確保していたひとりの作家が、病気を患った影響はあるんでしょうけど、建物の所有権をあらそっての詐欺未遂という、小説の内容とは何の関係もない犯罪事件を起こして以降、ぴたりと表舞台から消えてしまった。光と闇のこのコントラストが、単に加賀淳子というひとりの作家の問題というよりも、文芸出版界を含めた世間一般の非情さを感じさせるところです。
○
加賀さんたちが起こしたか、あるいは巻き込まれてしまったいざこざは、日常的にはよくある類いの事件だった、と言われます。68歳になった加賀さんを取材した『週刊新潮』昭和64年/1989年1月5日号の「躓いた女流作家「加賀淳子」のどん底自伝」で、加賀さんはこの事件についてくわしくは語っていませんが、それでも加賀夫妻が騙したわけではないと証言してくれる人もいたといい、昭和60年/1985年に亡くなった夫の益史郎さんも「怒りは神の前で述べる」と、犯罪者にされたことを怒っていたそうですから、建物の所有者だった池田さんとのあいだに、お互いの立場で何か意見の食い違いがあったのかもしれません。
加賀さんをひどい罪人だとか、人間として信用できないとか、そういう面から罵倒してもどうしようもないのは明らかです。いちおうここは「直木賞のすべて」のブログでもありますし、強引に直木賞の方向へ持っていきたいと思います。
加賀さんが逮捕されたとき、いったいこの作家はどういう活躍をしてきたのかと、紹介するような文章がいくつか書かれました。そのなかのひとつ『週刊サンケイ』の記事に載った日本文芸家協会事務局のコメントのなかに、唐突に「賞」のことが出てきます。
「彼女の所属する日本文芸家協会でも、当然、ショックの色は隠せない。
「加賀さんが入会したのは昭和二十七年だったと記憶しています。別に“賞”はとっていない人なんですがね。(引用者中略)会員権をハク奪することは、いまのところ考えてはいませんが」(事務局)」(『週刊サンケイ』昭和46年/1971年9月27日号「女天一坊!作家加賀淳子の華麗な前歴」より)
賞をとっていないことに、わざわざ触れています。そうしないと作家の来歴を示せないというのは、悲しいのか楽しいのか、よくわかりませんけど、とりあえずひとつの現実のようです。
そもそも加賀さんが作家として生活することになったきっかけは、文壇の領袖のひとりだった佐藤春夫さんが、彼女の原稿を『改造』編集者の富重義人さんに紹介したところにありました。佐藤さんというと、長年芥川賞の選考委員を務め、純文芸の人だったことは間違いありませんが、その門下の幅広さが領袖の領袖たるゆえんでもあります。おのずと直木賞に関連する何人かの人たちも佐藤さんを慕い、毎年4月9日の「春の日の会」に参加していました。柴田錬三郎さん、渡辺喜恵子さん、邱永漢さんなどのほか、先に挙げた檀一雄さんも佐藤一門「五奉行」格のひとりに数えられ、加賀さんとは「春の日の会」で顔を合わせるだけでなく、加賀夫妻が主催する「ゴンドラ会」にも何度も参加した……ということで、直木賞のなかでもより純文壇に近い側に、加賀さんの交友関係があったものと思われます。
しかし、その佐藤さんも昭和39年/1964年5月に66歳で亡くなり、昭和42年/1967年には加賀さん自身が病気にかかる。昭和46年/1971年に逮捕が大々的に報じられ、『週刊新潮』昭和64年/1989年のインタビューで加賀さんは、それで原稿の依頼がどこからも来なくなった、と言っています。
それこそ直木賞のような文学賞でも受賞していたら、ここまでパタリと相手にされなくなることもなく、犯罪事件など乗り越えられたかもしれない……と思うのは、基本文学賞というのは、文学の内容がどうこうよりも、商業出版のなかでの人と人とのつながり、という極めて世俗的な部分で馬鹿にできないものだからです。だから文学賞はくだらないんだ、とも言えるんですが、しかし人間たちがある種のくだらなさを持っているかぎり、それは仕方ありません。加賀さんは、人から依頼されないと小説を書きつづける意欲がわかないタイプの人だったようなので、よけいに文学賞のような誰にもわかりやすい勲章がなかったことは、残念でなりません。
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