昭和43年/1968年・掏摸というのは芸術家だ、と言い張る犯罪者のことを小説にした藤本義一。
四年ほど前に掏摸を主人公にした小説を書いたことがおます。(引用者中略)この小説の取材で、一人の老掏摸を追った時に、色々と面白い目にあいました。
「フジモトシャン、スリツウノハ、芸術家デッシェ」
と彼は胸を張ったもんだす。言葉が一寸けったいなのは、彼の歯が抜けているためだす。
(引用者中略)
この後、新入りスリの造反がおこり、組合は暴力団に半分が流れ、おっさんは関東で検挙されてまいました。
――昭和49年/1974年5月・いんなあとりっぷ刊 藤本義一・著『オモロおまっせ』所収「目玉のついたゴールドフィンガー」より
劇作、脚本、放送台本など映像メディアで頭角を現わした藤本義一さんが、本気で小説を書こうと思ったのはいつごろなのか。子供の頃から、という回想も見かけたことがありますが、長年胸に秘めていたといったような、そういう夢のハナシは別として、具体的なきっかけとして記録に残っているのは、同じ関西エリアで放送業界にいた知り合いの田辺聖子さんが昭和39年/1964年にいきなり芥川賞を受賞。うわっやられた、と藤本さんはほぞを噛み、おれも芥川賞か直木賞をとったるで、と急激に小説執筆の意欲をふくらませ、とりあえず芥川賞と直木賞、二つ分の「受賞の言葉」を書いてみるところから始まった、と伝えられています。
小説を書いてもいないのに、賞をとったときの晴れがましい我が身を想像して、受賞の言葉を考える。……当時はどうだったかよくわかりませんが、いまとなってはとくに珍しくない、よくあるタイプでしょう。
しかし藤本さんが他と違っていたのは、執筆の依頼も企画もないのに、ひとりで原稿用紙のマス目を埋め、ほんとうに小説を書きはじめたことです。1960年代中盤、藤本さんが30歳をすぎたころのことで、ちょうど読売テレビの「11PM」のホストとして顔が売れはじめた時期に当たります。
それで、どうしてここで藤本さんに触れているかといえば、直木賞を念頭に書きはじめた藤本さんの小説には「犯罪」が欠かせなかったからです。小説家としての藤本さんを見たときに、彼を推理小説家と区分けする人はまずいないはずですけど、少なくともワタクシは、初期の藤本さんのことを犯罪小説家と呼びたいと思います。
もともと放送作家として飯を食っていたときから、藤本さんの書くものには犯罪の気配が漂っていました。本人の証言によると、昭和30年/1955年から昭和41年/1966年の11年間でテレビの30分ドラマを2500本ぐらい書いたそうで、その多くはペテン師、ポン引き、釜ヶ崎ものだったといいます(『週刊読売』昭和41年/1966年12月23日・30日合併号「やァこんにちは近藤日出造」)。犯罪というより、ひときわ一般庶民や経済的に貧しい人たちに関心を持っていた、と言ったほうがいいのかもしれません。ただ、
「本来、ぼく自身にそういった性癖があったのかわからないけれど、名もない、それも底辺に生きる人たち、ポン引、パン助、ヤクザにヒモに釘師にスリ、といった人とも仲がよくなる。」(『サンデー毎日』昭和44年/1969年1月4日号 藤本義一「テレビわが交遊珍録」より)
と語っているのを見ても、藤本さん自身がおのずと、犯罪と背中合わせに生きている人たちの生態に親近感をもつ人であり、それが作品に投影されていた。というのはあながち間違いではないでしょう。
そんななかで数多くの人と出会ううちに、まだ小説を書いたことのなった藤本さんに、おお、これは小説の素材になる! と思わせた人がいます。大阪で活動していた、ひとりの老掏摸です。この人物に「平平平平(ひらだいら・へっぺい)」という名前を付ける藤本さんのセンスもどうかと思うんですけど、人のものを勝手にくすねる犯罪行為に芸術性を見出す掏摸の、けったいな論理に目をつけると、ここに戦時中は中支戦線で戦友だったという掏摸係の刑事や、それぞれの家族を配し、いくつかの事実と、数多くの想像から生まれた嘘っぱちを混ぜ合わせて長編小説に仕立てます。じっさいこの老掏摸にはモデルがいて、大阪界隈の掏摸事情もなるべく事実に沿った背景をもとにしているそうです。
これが『ちりめんじゃこ』(昭和43年/1968年11月・三一書房/さんいちぶっくす)というタイトルで刊行され、第61回(昭和44年/1969年・上半期)直木賞の候補作に残り、藤本さんが単なるビッグマウスの電波野郎でないことが明らかになったわけで、藤本さんと直木賞の結びつきを現実的なものにした作品が、現実の犯罪に依拠しているというのは、うちのブログとしては見過ごすことができません。
いったい現実にはどんな掏摸だったのだろう。いちおう調べてはみたんですけど、平平平平(のモデルになった人物)のことは、よくわかりませんでした。ただじっさい、60年代の大阪では『ちりめんじゃこ』の主人公のような、指先の技術を誇る掏摸たちのグループよりも、いっそう組織的に金品の強奪をもくろむ集団暴力スリと呼ばれる人たちが猛威をふるっていたのは、たしかです。
○
戦後、大阪を根城に集団的に金目のものをかっさらう人たちのうち、朝鮮を出自とする掏摸グループが勢力を拡大、「アリラン・グループ」という名前でしばしばマスコミを賑わせました。彼らには彼らの、汗と涙の物語があるはずですが、藤本さんの創作の筆は、芸術的な掏摸技術とか、女房子供に迷惑をかけないように犯罪をつづける家庭人としての掏摸の悲哀とか、そういう方向にむかったものなので、暴力を行使したかっぱらいが基本の、そういう集団スリのことは割愛します。
だいたい同じ犯罪でも、やはり藤本さんが掏摸に興味をもったのは、そこにひとつの掏摸哲学……他人のものをこっそり盗む悪事を働きながら、これは芸術なんだとプライドをもつ独特の倫理観を感じたからでしょう。小説家デビュー当時のエッセイ集に、『ちりめんじゃこ』執筆に当たって取材した老掏摸のことを語っています。
「「えへへ、わいの指先には目玉がついてましてなあ」
といい、こういうゴールドフィンガーをもってるさかいに若い女を嫁はんに出来ますのやと自慢しました。たしかに四十歳ぐらい離れた嫁はんをもってました。
「あの女、困ったことがひとつありましてなあ……」
おっさんが、しみじみと困った顔をするので、浮気でもしよるんかと聞くと、
「いやいや、あいつ、盗癖がありまんねンがな。わしが目を離したら万引しよるんで困りますわ」
と、自分のことは棚にあげて、悩んでましたもんだす。それとも、おっさんにとっては、掏摸は芸術であって、犯罪ではないかのようでおました。ま、信念をもってワガ道ヲ行クわけでっしゃろなあ。」(昭和49年/1974年5月・いんなあとりっぷ刊 藤本義一・著『オモロおまっせ』所収「目玉のついたゴールドフィンガー」より)
こういう考えかたを面白がりながら、なかば感心している藤本さんの姿が垣間見えるところです。
『ちりめんじゃこ』で手応えをつかんだか、藤本さんは世間で「奇人」と見なされる人物を好んで小説に書きました。一見まっとうではないと思われる人物を題材にして、そのけったいさの裏に、人間として共感できる側面を浮かび上がらせる。犯罪者の姿を数多く書いたのも、その一環ではあったと思いますし、だからこそ藤本さんを犯罪小説家と呼びたくなるわけですが、次第にこういう路線のなかで犯罪者だけでなく、有名無名を問わず「奇」に属する人間たちを手当たり次第に小説化。奇才と名高い川島雄三監督だったり、奇抜な芸で人気を博した上方の落語家だったりを小説のなかに落とし込み、いくどか直木賞の候補になるうちに、昭和49年/1974年、ついに受賞するにいたります。
田辺聖子さんの芥川賞受賞を目の当たりにしてから10年。まさか現実に直木賞を受賞するとは、藤本さん本人か、まわりの人ぐらいしか信じていなかったと思いますが、犯罪者の奇妙な哲学を描くところからスタートした直木賞までの道程でした。
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