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2019年5月の4件の記事

2019年5月26日 (日)

昭和58年/1983年・自分の小説の映画化をめぐって裁判所に訴えられた村松友視。

直木賞作家の村松友視氏原作の小説「泪橋(なみだばし)」の映画化をめぐり、独立プロ「にんじんくらぶ」(岩下和男代表取締役)が「映画製作のための脚本など流用された」として、村松氏、「泪橋」を映画化した「人間プロダクション」(加藤晃夫代表取締役)、作家・唐十郎氏らを相手取り三千五百二十万円の損害賠償を求める訴訟を四日までに東京地裁に起こした。

――『毎日新聞』昭和58年/1983年1月5日「村松友視氏らを訴え 「泪橋」映画化で独立プロ」より

 昭和57年/1982年7月、第87回(昭和57年/1982年・上半期)の直木賞は深田祐介さんと村松友視さんが受賞しました。村松さんといえば中央公論社で文芸編集者を務めたことがある業界人ちゅうの業界人でしたが、大好きなプロレスに関するマジメとおフザケの双方に重心をかけたような本を出したところから、突風に近い追い風が吹いたおかげで、ちょこちょこと小説を手がけるようになると、ものの2、3年で直木賞を受賞。軽い文体と言われながら、テレビメディアにもホイホイと顔を出すことになったのは、80年代の直木賞が芸能の世界とかなり蜜月の関係にあったことをうかがわせる一現象と言っていいかもしれません。

 それはともかく、村松さんに吹いた追い風がよほど強烈だったことを示すのが、受賞した翌年の昭和58年/1983年に早くも、受賞作の「時代屋の女房」と、第86回直木賞で候補になった「泪橋」、それぞれを原作とする2つの映画がたてつづけに公開されたことです。なかなかの勢いです。

 「時代屋の~」は松竹が製作、いっぽうの「泪橋」は俳優の長門裕之さん、本名・加藤晃夫さんが代表を務める人間プロダクションが手がけたもので、とくに両者リンクしていたわけではなく、公開が重なったり、どちらも主演俳優に渡瀬恒彦さんが起用されたのは、たまたまの偶然だそうです。「泪橋」は当初、松田優作さんを主演にしようということで、裏の交渉を続けましたが、どこからかスポーツ紙に情報が洩れてしまい、松田さんがそれに立腹して出演を断ってきたのだと、監督の黒木和雄さんが『映画作家黒木和雄の全貌』(平成9年/1997年10月・アテネ・フランセ文化センター、映画同人社刊、フィルムアート社発売、阿部嘉昭・日向寺太郎・編)で明かしています。

 しばらく同書の記述から製作過程を追ってみます。

 はじめに黒木監督に「泪橋」を映画にするのはどうだろうかと持ちかけてきたのは、プロダクション〈にんじんくらぶ〉の高木一臣さんだったといいます。もとより黒木さんは〈にんじんくらぶ〉の代表者格にあった若槻繁さんをずっと尊敬していたので、どうやら経営がうまく行っていないらしい同社の助けになればと思い、この企画を進めることにしました。昭和57年/1982年はじめごろのことです。

 原作者の村松さんに連絡をとったところ、かなり乗り気に快諾され、しかも自分でシナリオにしてみたい、という前のめりなご返事。まもなくその一稿ができあがってきますが、黒木さんからすると、うーん、と満足できる出来ではなかったので、村松さんと親しかった状況劇場の唐十郎さんに手伝ってもらうことになります。シナリオづくりに励む3人。すると、なんとまあ不思議なことに、唐さんの手によって見違えるようにムチャクチャな……いや、素晴らしい台本に仕上がります。

 スタッフも少しずつ集まってきて、主役の相手を務めるヒロインを誰にするか、ここは一般に募集してみようかと、募集案内もつくられます。そこではクランクイン8月中旬、完成10月初旬、公開は昭和57年/1982年の年内、との予定も発表されましたが、肝心の〈にんじんくらぶ〉が資金を調達できず、とうてい予定どおりに進みそうにありません。ヒロインは結局、人間プロ所属の新人で、愛川欽也さんの娘という触れこみの佳村萠さんで行く、ということまで決まっていたのですが、金が回らなければ映画はつくれない。黒木さんは仕方なく、人間プロの長門さんのもとに状況を報告しに足を運びます。

 すると長門さんは、その場で銀行から金を借りる算段をとりつけると、人間プロで製作をつづけようじゃないか、と黒木さん側に提案したものですから、一気に光明が差します。黒木さんが、〈にんじんくらぶ〉の高木さんに話をしたところ、うちで始めた企画をよそでやるのはちょっと……と難色を示されますが、病気がちだった若槻さんのところに相談に行ってみれば、いやいやうちが迷惑をかけたんだ、どうぞ人間プロのほうで完成させてほしい、と温かい言葉で対応してもらい、とくに契約書も結んでいなかったということもあって、製作は人間プロの仕切りで再開。完成にまでこぎつけました。

 この映画を製作している期間、昭和57年/1982年7月に村松さんが直木賞を受賞、半年たって昭和58年/1983年1月には今度は唐十郎さんが芥川賞を受賞と、共同脚本の2人がそれぞれ注目の作家としてジャーナリズムをにぎわせます。公開まえの映画の宣伝としては願ってもないほどの、これまた追い風が吹いた、と言っていいんでしょうが、この風に乗れなかった人たちがいることも忘れてはいけません。〈にんじんくらぶ〉の人たちです。

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2019年5月19日 (日)

昭和33年/1958年・小説の内容が名誉棄損だと告訴されて笑い飛ばした邱永漢。

「オール読物三月号に掲載された小説“韓非子(かんぴし)学校”の主人公は私をモデルにしたもので、事実と相反することをたくさん書いており、名誉を棄損された」―と十七日、徳大学芸学部法律政治学教室助教授、高橋正臣氏(五〇)(引用者中略)が作者の邱永漢(きゅう・えいかん)氏(引用者中略)とオール読物編集長小野詮造氏(引用者中略)を相手どって徳島地検に告訴した。

(引用者中略)

邱永漢氏の話 「徳島へ旅行中にちょっと耳にはさんだことを私の想像をおりこんで書いたもので、訴えている高橋さんという人も、名西高校という学校も知らない。想像と事実が一致する場合もあるが、これは偶然の一致だろう。あの小説は深刻な現在の教育問題を気軽に笑いながら書いたもので他意はない。告訴してくれれば私も有名になって小説もよく売れるだろうよ」

――『徳島新聞』昭和33年/1958年7月19日夕刊「“モデル助教授”大いに怒る 邱永漢氏らを告訴 徳大の高橋氏“小説は名誉棄損”」より

 たとえば何かの小説に、明らかに自分をモデルにしたとわかる人物が出てきたとしたら。しかも、読んだ人の多くが軽蔑するような人物として、かなり誇張して描かれている。……果たしてそれを読んだ自分はどう思うんでしょうか。

 ……ワタクシ自身はとくにそんな経験もないので、実感はよくわかりませんけど、いまから60年ほどまえの昭和33年/1958年、徳島の地でいきなりそれを体験させられた人がいます。高橋正臣さんです。

 さて、いきなり実名を挙げてしまいましたが、高橋さん、いったい何者でしょうか。

 きっと知っている人のほうが稀なんじゃないかと思うので、履歴に少し触れておきますと、生まれは明治41年/1908年5月12日。生家は徳島県の河崎家ですが、高橋家の養子に入って姓が変わり、長じて東京帝国大学法学部を卒業します。昭和9年/1934年に満洲国財政部に勤務したところから始まって、総務庁企画処の調査官、参事官、大同学院教官、法制処参事官などとして働きながら終戦まで満洲で暮らしたのち、戦後は故郷に戻って昭和24年/1949年4月から昭和26年/1951年3月まで、徳島県立名西高校の校長に就任。昭和28年/1953年には徳島大学に転じ、昭和33年/1958年当時は50歳で同大の助教授、その後に教授を歴任しました。専門はずっと法律学だったようですが、学生のころから洋楽、とくにバイオリン演奏にハマっていたといい、奥さんも国立音楽学校ピアノ科のご出身だと、『人事興信録』(昭和41年/1966年 第二十三版(下))に書かれています。

 それで高橋さんが言うには、『オール讀物』に載っている邱永漢の小説って、あなたのことを書いているようだけど、これってどうなの、と親類や知人などから何件も問い合わせがあったそうです。じっさい読んでみれば、その「韓非子学校」に登場する徳島県M高校の校長というのが、自分をモデルにしていることは明々白々。だけど、ずいぶん事実と相違して戯画的に書かれている。高橋さんカチンと来てしまいます。

 というところで、この「韓非子学校」なんですが、昭和31年/1956年に第34回直木賞(昭和30年/1955年下半期)を受賞した邱さんの、これから小説家として活躍していこうかという昭和33年/1958年に発表された一篇で、とうてい邱さんの代表作と呼べるものではありません。これはこれで知っている人のほうが稀なはずなので、あらすじをざっと書いておきます。

 語り手の「私」は、かつて一通の手紙を受け取ったことがあります。「私」がある雑誌に韓非子についての文章を発表したところ、送られてきた未知の読者からの手紙で、差出人は徳島県で高校の校長をしているらしい与田文平なる人物です。与田氏は書きます。学生はすべて不良少年で、教員はすべて怠け者だ。だから小生は、いまの教育に必要なのは鞭である、という信念を抱いている。貴殿の書かれた、道徳教育なんか無用で、目指すべきは法治教育だという道徳教育無用論に、心から賛同します、うんぬんと。たしかに韓非は、人間とは悪党であり、そういう悪党でもできるような政治機構を提唱したけれど、まさか本気でそんなことを教育の現場で実践している人がいるとは……と「私」はなかば驚き、なかばあきれ返ります。

 その後、たまたま徳島に行く機会を得た「私」は、同地で教育関係の役人をしている柴崎博志という友人に、与田校長のことを尋ねてみます。するとこれが、M高校に赴任して以来、相当に困った校長として知られている人物だ、ということが判明。たとえば、校舎の入口にはたいてい受付の事務室があるものですが、その部屋を校長室にして、生徒や教員が遅刻や早退をしないか目を光らせている。放課後はそこに残って趣味のバイオリンを弾き、教員たちを帰りづらくしている。職員室にある机と椅子を鎖でつないで、勝手に椅子を移動して無駄話をさせないようにしている。あるいは学生の本分は学問することだからと強硬に主張し、卓球で優勝した生徒がいるのに、国体への派遣を認めず、PTAの役員と揉める。と強烈な教育者ぶりをかまして、まわりからなかなか問題視されている様子です。

 しかし与田校長は自説をまげず、他校とスポーツで交流試合とかしている場合じゃないと、近隣のN高校に学力テストによる決戦を挑みます。結果は大惨敗となりますが、学校を挙げての学力向上に取り組みはじめ、思いきって野球部を廃止、そこにかかっていた費用を、成績の優秀な生徒たちに当てて、特別授業を受けさせ、東大の合格者を生もうと意気軒昂です。「私」はその様子を見学させてもらいますが、どうにも重苦しい気分になってくるのでした。

 これが書かれた昭和33年/1958年からもはや60数年が経っています。当時は、行きすぎた教育方針ではないか、と思われていたような、学力向上と受験と東大合格を結びつけての学校運営も、何ひとつ物珍しいものではなくなり、ちょっとイカれた校長として描かれた与田文平も、いまとなっては学業に熱心な素晴らしい教育者、と見られないともわかりません。そこが笑うに笑えない、邱さんの狙ったリアリティとデフォルメのギリギリのラインだったのでしょう。うまく成功しています。

 ところが、モデルにされた高橋さんにとっては不愉快このうえなかったらしく、昭和33年/1958年7月17日、邱さんと『オール讀物』編集長の小野詮造さんを相手取って徳島地検に名誉棄損の訴えを起こすにいたります。「どんなにまわりに迷惑がられようが自分の考えをまげない」という、与田文平校長のモデルになった人だけあって、なかなか高橋さんも意地っ張りな性格だったのかもしれませんが、さらに告訴にまで発展したと思われる大きな要因も見逃せません。

 高橋さん自身、自分は教育者であるだけでなく法律の専門家なのだ、という自負があったことです。

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2019年5月12日 (日)

昭和43年/1968年・掏摸というのは芸術家だ、と言い張る犯罪者のことを小説にした藤本義一。

四年ほど前に掏摸を主人公にした小説を書いたことがおます。(引用者中略)この小説の取材で、一人の老掏摸を追った時に、色々と面白い目にあいました。

「フジモトシャン、スリツウノハ、芸術家デッシェ」

と彼は胸を張ったもんだす。言葉が一寸けったいなのは、彼の歯が抜けているためだす。

(引用者中略)

この後、新入りスリの造反がおこり、組合は暴力団に半分が流れ、おっさんは関東で検挙されてまいました。

――昭和49年/1974年5月・いんなあとりっぷ刊 藤本義一・著『オモロおまっせ』所収「目玉のついたゴールドフィンガー」より

 劇作、脚本、放送台本など映像メディアで頭角を現わした藤本義一さんが、本気で小説を書こうと思ったのはいつごろなのか。子供の頃から、という回想も見かけたことがありますが、長年胸に秘めていたといったような、そういう夢のハナシは別として、具体的なきっかけとして記録に残っているのは、同じ関西エリアで放送業界にいた知り合いの田辺聖子さんが昭和39年/1964年にいきなり芥川賞を受賞。うわっやられた、と藤本さんはほぞを噛み、おれも芥川賞か直木賞をとったるで、と急激に小説執筆の意欲をふくらませ、とりあえず芥川賞と直木賞、二つ分の「受賞の言葉」を書いてみるところから始まった、と伝えられています。

 小説を書いてもいないのに、賞をとったときの晴れがましい我が身を想像して、受賞の言葉を考える。……当時はどうだったかよくわかりませんが、いまとなってはとくに珍しくない、よくあるタイプでしょう。

 しかし藤本さんが他と違っていたのは、執筆の依頼も企画もないのに、ひとりで原稿用紙のマス目を埋め、ほんとうに小説を書きはじめたことです。1960年代中盤、藤本さんが30歳をすぎたころのことで、ちょうど読売テレビの「11PM」のホストとして顔が売れはじめた時期に当たります。

 それで、どうしてここで藤本さんに触れているかといえば、直木賞を念頭に書きはじめた藤本さんの小説には「犯罪」が欠かせなかったからです。小説家としての藤本さんを見たときに、彼を推理小説家と区分けする人はまずいないはずですけど、少なくともワタクシは、初期の藤本さんのことを犯罪小説家と呼びたいと思います。

 もともと放送作家として飯を食っていたときから、藤本さんの書くものには犯罪の気配が漂っていました。本人の証言によると、昭和30年/1955年から昭和41年/1966年の11年間でテレビの30分ドラマを2500本ぐらい書いたそうで、その多くはペテン師、ポン引き、釜ヶ崎ものだったといいます(『週刊読売』昭和41年/1966年12月23日・30日合併号「やァこんにちは近藤日出造」)。犯罪というより、ひときわ一般庶民や経済的に貧しい人たちに関心を持っていた、と言ったほうがいいのかもしれません。ただ、

「本来、ぼく自身にそういった性癖があったのかわからないけれど、名もない、それも底辺に生きる人たち、ポン引、パン助、ヤクザにヒモに釘師にスリ、といった人とも仲がよくなる。」(『サンデー毎日』昭和44年/1969年1月4日号 藤本義一「テレビわが交遊珍録」より)

 と語っているのを見ても、藤本さん自身がおのずと、犯罪と背中合わせに生きている人たちの生態に親近感をもつ人であり、それが作品に投影されていた。というのはあながち間違いではないでしょう。

 そんななかで数多くの人と出会ううちに、まだ小説を書いたことのなった藤本さんに、おお、これは小説の素材になる! と思わせた人がいます。大阪で活動していた、ひとりの老掏摸です。この人物に「平平平平(ひらだいら・へっぺい)」という名前を付ける藤本さんのセンスもどうかと思うんですけど、人のものを勝手にくすねる犯罪行為に芸術性を見出す掏摸の、けったいな論理に目をつけると、ここに戦時中は中支戦線で戦友だったという掏摸係の刑事や、それぞれの家族を配し、いくつかの事実と、数多くの想像から生まれた嘘っぱちを混ぜ合わせて長編小説に仕立てます。じっさいこの老掏摸にはモデルがいて、大阪界隈の掏摸事情もなるべく事実に沿った背景をもとにしているそうです。

 これが『ちりめんじゃこ』(昭和43年/1968年11月・三一書房/さんいちぶっくす)というタイトルで刊行され、第61回(昭和44年/1969年・上半期)直木賞の候補作に残り、藤本さんが単なるビッグマウスの電波野郎でないことが明らかになったわけで、藤本さんと直木賞の結びつきを現実的なものにした作品が、現実の犯罪に依拠しているというのは、うちのブログとしては見過ごすことができません。

 いったい現実にはどんな掏摸だったのだろう。いちおう調べてはみたんですけど、平平平平(のモデルになった人物)のことは、よくわかりませんでした。ただじっさい、60年代の大阪では『ちりめんじゃこ』の主人公のような、指先の技術を誇る掏摸たちのグループよりも、いっそう組織的に金品の強奪をもくろむ集団暴力スリと呼ばれる人たちが猛威をふるっていたのは、たしかです。

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2019年5月 5日 (日)

昭和46年/1971年・建物の所有権をめぐる契約書偽造が疑われて逮捕された加賀淳子。

東京地検特捜部は六日夕、(引用者中略)歴史小説作家、加賀淳子(あつこ)=本名、吉村美名子(五一)と加賀の夫、会社役員、吉村益史郎(六二)を私文書偽造、同行使、詐欺未遂の疑いで逮捕した。二人は家の契約書を勝手に偽造した疑い。

――『毎日新聞』昭和46年/1971年9月7日夕刊「女流歴史作家 加賀淳子を逮捕 家の譲渡書偽造 乗っ取り図る」より

 直木賞というものは、日本の小説のなかのほんの一部にしか関係がありません。いちいち言うまでもありません。現に直木賞と無縁なマーケットで作家業を営む人はたくさんいますし、これまでも数えきれないほどにいました。じゃあどうして直木賞に関することだけでブログをやっているのか。それを話し始めると長くなるんですけど、「犯罪でたどる直木賞史」のテーマも始まってそろそろ1年、おしまいに差しかかる頃合いですから、ひさしぶりに直木賞(やもうひとつの文学賞)とあまり関係のない作家のことを取り上げたいと思います。

 戦後まもない昭和24年/1949年、どさくさまぎれのようにして29歳で文芸出版界にデビューした加賀淳子(あつこ)さんという人がいます。

 時代は直木賞や芥川賞が4年にわたる中断から復活したときと重なり、もちろん当時も加賀さんだけじゃなくいろんな人が数々の雑誌でデビューして、なかには横光利一賞や戦後文学賞、大衆雑誌懇話会賞など、そのときにしか存在しなかった賞をとった新人もいましたが、無名のまま商業誌に登場した加賀さんを有名にしたのはそういう文学賞ではなく、別のゴシップ的な話題でした。

 デビュー作の「処世」(『改造』昭和24年/1949年10月号)につづいて、「浮雲城」(同誌昭和25年/1950年1月号、第二部は同年12月号)を発表。するとこれが、没落した公爵家をモデルにしている、という素材の衝撃性で悪目立ちしたおかげで、いったい加賀淳子って何者だ、ということになり、加賀さん本人が自分の経歴をペラペラしゃべる人ではなかったことも好転して、どうやら島津忠重元公爵の養女らしいだの、いや加賀百万石の血をひく前田利為元侯爵のご落胤だのと、勝手なウワサ話が文壇を駆け巡ったと言われています。しかも、顔写真などをさらすことは、なぜかNGではなかったため、その顔立ちやたたずまいなどが喧伝され、美貌だ美貌だと、そちら方面でもずいぶんと名を挙げます。

 昭和31年/1956年『新潮』2月号に「雑役長官」を発表したときには、親しい作家仲間によるエッセイのようなかたちで、檀一雄さんが「加賀さんのこと」を寄せました。ほんの2ページの短い文章のなかに「美人」という単語が6回、「美貌」が4回も登場するという一種の異様さを漂わせたシロモノで、いまどきこんな作家紹介文を書いたらきっとあちこちから叩かれるでしょう。

 じっさいのところ〈加賀〉という筆名は、本名・吉村美名子さんの結婚した益史郎さんの母方の実家が、薩摩島津家忠宗の第六子資忠を始祖とする北郷加賀守三久なる武将だったことに由来しているそうです。要するに加賀さん本人には大名や皇室、華族の血は流れていないわけですが、「元華族にふさわしい貴族的な顔立ち」とかいう、どう考えても胡散くさい謂われが、加賀さんの文壇での活躍をやたらと後押しします。

 真偽のわからない、でもいかにもな経歴をもつ、美しい女性。……という、まあ言うなれば、キワモノ扱いの作家として登場したことは間違いありません。しかも、のちになって加賀さんに対する悪口が活発になったときに、このキワモノ感が改めて活きてくるのですから、人間という集団が形成する印象づけの恐ろしさを、まざまざと感じます。たとえば円地文子さんは「何か、初めから信用できない面が、作品の面からも感じられました」(『週刊サンケイ』昭和46年/1971年9月27日号)などと振り返り、林芙美子さんは「目次で加賀淳子と並ぶと「この女は何者か、こんな女と同じ号に書きたくない」と怒った」という証言が出てきたりしました(昭和52年/1977年5月・光和堂刊『雑誌『改造』の四十年』)。

 ともかく、デビュー以来20数年。純文芸雑誌から中間小説誌へと軸足を移しながら、女性の歴史小説家の先駆者として活躍をつづけ、当時の用語でいうところの〈自閉症〉の息子を抱えて婦人誌などにそういうテーマのエッセイを書くさなか、昭和42年/1967年、47歳のときには自身も喉頭がんを患って仕事に支障をきたすようになった折りも折り、ひさしぶりといってぐらいに加賀さんに強烈なスポットライトが当たります。それは夫の益史郎さんが経営していた日本橋通のレストランの、建物の所有権をめぐるトラブルが発展して、加賀さん夫妻が東京地検に逮捕されてしまったからです。

 地検の調べによれば、昭和40年/1965年春、東京・日本橋通の木造二階建て住宅を所有していた池田よしさんから、加賀さん夫妻がそれを借り受けてレストラン「サラ」を経営していましたが、池田さんに断りもなくこの建物を担保にして金を借りていたことが発覚、昭和42年/1967年6月にいたって池田さんは二人に対して建物明け渡しの訴訟を東京簡裁に起こします。ところが翌年1月に池田さんが亡くなると、加賀さんたちは池田さんから預かっていた印鑑を使って、自分たちに建物を譲渡するという内容の契約書を偽造し、11月、それを証拠として池田さんの長女敏子さんを相手に、建物所有権移転登記請求を提訴。これはけっきょく昭和45年/1970年5月に加賀さんたちの敗訴になりますが、どうも二人が契約書を偽造したらしいぞと知った敏子さんが激怒しないはずはなく、東京地検に告訴するに及んだ結果、昭和46年/1971年9月6日に二人は逮捕され、懲役2年執行猶予3年、という刑がくだります。

 まがりなりにもプロの小説家としてコツコツと商業誌に作品を発表し、それなりの地位を確保していたひとりの作家が、病気を患った影響はあるんでしょうけど、建物の所有権をあらそっての詐欺未遂という、小説の内容とは何の関係もない犯罪事件を起こして以降、ぴたりと表舞台から消えてしまった。光と闇のこのコントラストが、単に加賀淳子というひとりの作家の問題というよりも、文芸出版界を含めた世間一般の非情さを感じさせるところです。

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