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2019年4月の4件の記事

2019年4月28日 (日)

昭和45年/1970年・大麻パーティーの記事に名前を出されて名誉棄損で告訴した山口洋子。

東京・銀座のクラブ「姫」の経営者、山口洋子さん(三三)(引用者中略)は、二十三日女性週刊誌「ヤングレデイ」の平賀純男編集長と、出版元の講談社野間省一社長を東京地検に名誉棄損で告訴した。

――『読売新聞』昭和45年/1970年3月24日「女性週刊誌を告訴 「姫」の山口洋子さん」より

 数か月まえ、なかにし礼さんが若いころに見舞われた昭和46年/1971年の犯罪事件を取り上げました。直木賞という行事には受賞者や候補者を通してこういう芸能ニュースの血が脈々と流れていたりします。正真正銘の事実です。そういうありようを抜きにしてこの賞のことを単なる文芸の話題として切り出すのは、ずいぶんもったいないことだし味気ないと思います。

 ということで、今週の主役の山口洋子さんも、なかにしさんと同様に右肩上がりの歌謡ビジネスのなかで作詞家として重宝され、やがて物書きとして小説を執筆、第93回(昭和60年/1985年・上半期)の直木賞を受賞した人なんですが、この人も直木賞を受賞した段階で、もはやかなりの有名人でした。ヒット曲の多い作詞家としての顔は言うまでもありません。そのうえ、東映第四期のニューフェイスとしていっとき女優を志しながら、すぐに見切りをつけて夜の世界に飛び込み、昭和31年/1956年8月、19歳の若さで銀座に「姫」という酒場をオープン、以後数多くのプロ野球選手や芸能人、作家たちの集まる店へと育て上げた、という売りもありました。

 夜の銀座にしても芸能界にしても、世間の生活とは離れた特殊な世界、というのが一般的に存在していた昭和の時代の共通認識でしょう。カタギに対するところのヤクザな世界。とでも言いますか、けっきょく同じ人間ですからやっていることは大して変わらないはずですが、特殊な世界として切り取られ、ときに彼らの言動が市場価値を持ち、テレビ、ラジオ、雑誌、スポーツ紙などでは花形の話題として流通したりします。警察沙汰や裁判沙汰ともなれば、マーケットは一般紙にも広がり、購読者の興味・関心の欲をかきたてるために、何ということもない事件が紙面の一角を占めて報道されることも、しばしばです。

 何ということもない、などと決めつけちゃいけませんね。これが些細なことなのかどうなのか、ワタクシには判断できませんけど、当時〈銀座のクラブのママであり作詞家〉として知られていた山口さんが講談社の『ヤングレディ』の記事に怒り、これを名誉棄損だとして東京地検に告訴した事件があります。昭和45年/1970年3月のことです。

 話の発端は、芸能界をまきこんだ大麻汚染の話題です。はっきり言って極めてよくある話題です。

 昭和45年/1970年2月に発生したのは、前衛ミュージカルとして評判をとっていた「ヘアー」の関係者や出演俳優たちが都内各所で何度もハシシュ(マリファナとする報道もあり)・パーティーと称する集まりを開いていたとして、ぞくぞくと逮捕者を出した一件です。自宅を提供してパーティーを開いていたとされたのが、「ヘアー」プロデューサーの〈象多郎〉こと川添象郎さん当時28歳のほか、バンドマンのフォルツノ・エドモンドさん、俳優の寺田稔さん、元ザ・タイガースの〈加橋かつみ〉こと本名・高橋克己さんが2月26日、大麻取締法違反で警視庁保安二課に逮捕されると、その後作詞家の安井かずみさんなども同じ容疑で警察にしょっ引かれます。

 川添さんという人は、その後にわたってある種の方面ではしたたかに力を発揮した著名な人だということでWikipediaにも立項されています。経歴はそちらを参照してもらえればいいんですが、逮捕が報じられると、犯罪者につらく当たるのがオレたちの使命だとばかりに、週刊誌では「親の七光り」だの「口八丁手八丁」だのさんざん叩かれたうえに、

「ひと言でいうとまるで頼りない男でね。頭がいつもボーとしていた。約束を平気でスッポかすし、右からいったことはすぐ左にぬける感じだな。頭はいいし、たしかに音楽的才能はあるけど、オヤジさんとおなじように、まるで行政手腕がない男ですよ。いまから思うと、ボーとしてたのはマリファナのせいなんだな。ボクらは二日酔いとばかり思ってましたがねえ」(『週刊文春』昭和45年/1970年3月16日号「お粗末「ヘアー」の七光りプロデューサー リッチマン川添一家の息子」より)

 と、「ヘアー」を主催した松竹の製作室、寺川知男プロデューサーによる忌憚のない月旦評まで紹介されるありさま。

 なかなか山口洋子さんと結びつきませんが、とりあえず川添といえば怪しい犯罪者、という認識のなかでゴシップジャーナリズム界で盛り上がっていたところに、講談社の『ヤングレディ』誌も、じゃあ我われもご相伴に預からせていただこうかと、さらっと川添パーティーネタを取り上げた状況があったわけです。

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2019年4月21日 (日)

昭和38年/1963年から翌年・〈草加次郎〉を名乗る男からたびたび脅迫電話を受けた木々高太郎。

二十六日午後八時十分ごろ、(引用者中略)慶大教授、林髞さん(六七)方に、若い男の声で「おれは草加次郎だ」と電話があった。応対に出たお手伝いの仙葉昭子さん(二〇)が「なんですか」と聞きただすと「爆弾だ」といって電話を切った。

林教授の家には昨年九月からこれまでに三回も“草加次郎”と名のる若い男から電話がかかり、そのたびに爆弾を仕掛けてやるとおどしている。

――『読売新聞』昭和39年/1964年6月27日「「草加次郎だ」とまた怪電話 林教授宅」より

 昭和37年/1962年からにわかに発生した〈爆弾魔・草加次郎〉の一連の事件は、昭和の未解決事件として名高く、これと関連する小説もさまざまに書かれてきました。とりあえずここは直木賞専門ブログですから、直木賞の候補者や受賞者の作品だけに絞りますけど、佐野洋さんの『華麗なる醜聞』(昭和39年/1964年)、桐野夏生さんの『水の眠り 灰の夢』(平成7年/1995年)、奥田英朗さんの『オリンピックの身代金』(平成20年/2008年)などを挙げてみます。そういう作品を読み比べてこの犯罪事件をとらえてみたら、きっと面白い試みになるでしょう。

 ……とか何とか言いながら、すぐに作家ゴシップに走るのがこのブログの悪いクセなんですが、だらだらと前置きせず速やかに今日の本題に進みたいと思います。

 〈草加次郎〉の犯行というと、ひとつの大きなあらすじがあります。昭和37年/1962年11月4日、東京・北品川の島倉千代子後援会事務所に届いた一通の郵便小包。中には開けると発火するような仕掛けを施した黒色火薬が詰めてあり、後援会の幹事が火傷を負う、という被害が発生します。その仕掛けのところには〈K〉〈祝〉〈呪〉などの文字とともに〈草加次郎〉という四つの漢字が記載されていました。

 その後、爆弾を仕込んだ石川啄木詩歌集とかエラリー・クイーンの小説、ボール箱などが都内各所で発見されたり、翌昭和38年/1963年には、上野公園で起きた発砲事件と同一と思われる弾痕をもつピストルの弾丸が、〈草加次郎〉の名前で警察に送られてきたり、姿を見せぬ犯行者の名前が徐々に世間をにぎわせはじめますが、ついには9月5日夜8時すぎ、地下鉄銀座線の京橋駅で、停車したばかりの車両で突然の爆発が発生。現場に残っていた乾電池に「次」「郎」といった文字が発見されたところから、爆弾魔〈草加次郎〉による狂気の犯罪が一般市民の生活を脅かすものとして大きく報道されるにいたります。

 爆弾を使うその手口とは別に、芸能人たちに金を要求する脅迫状を何通も送っていたのも〈草加次郎〉の名を有名に押し上げたひとつです。先の島倉千代子さんをはじめ、映画スターの吉永小百合さん、鰐淵晴子さんと、いわゆる世間で「清純派」と呼ばれる女性芸能人ばかりを標的にしていたことが、おそらく若い男の犯行ではないかとか、不遇感を抱きながら晴れがましい世界に憧れや妬みをもっている者のしわざではないかとか、硬から軟まであらゆるジャーナリズムが食いつき、世をあげた犯人推理ゲームを過熱させることになります。

 ときに〈草加次郎〉とはひとりの異常者ではない、いまの社会には草加次郎的な憤懣をかかえる人たちが無数にいて、あくまでそれが爆発魔というかたちで噴き出したにすぎない、これは日本全体の、日本人全体の問題なのだ、と大上段に解説する意見も現われます。社会的な犯罪事件を対象に、有識者というか有名人というか、そういう人たちが自分たちの意見を交わし合う、その様子を遠巻きに眺めている一般の人たちが納得したり楽しんだりする……というのは、いまを生きるワタクシにも非常に馴染みのある構造です。50数年前の昭和38年/1963年当時も、もちろんそういう光景が展開されたわけですが、そこにお声がかかったひとりが、われらが直木賞の選考委員、木々高太郎さんでした。

 木々さんといえば、直木賞の選評でもなかなかの高圧的な発言を繰り返し、候補作家の神経を逆撫でしてきた人でもあります。『読売新聞』紙上に掲載された〈草加次郎〉事件に関する座談会でも、その特徴がいかんなく発揮され、のっけから犯人を無意味な精神病質者、と切り捨てます。

本社 草加次郎の目的、動機をどうお考えになりますか。

 特定の意思、目的はありませんね。意味のない反社会的行為です。たとえば電車のなかで女性のスカートを切るようなものです。知っている女なら憎しみという動機があるかもしれませんが、この場合相手が女性であればいいのです。したがってこのような事件をくりかえしてやる以上、精神病質者といえましょう。

(引用者中略)

多くの女性歌手、女優がいるのに、島倉、吉永の二人を選んでいるし、凶器に爆弾を使っている。殺す相手にも好みがあるのは変質的な傾向を裏づけているのですが、私の推定では四十歳ぐらいで、インテリだと思う。

(引用者中略)

日本の法律はやさしいところからこんな事件がおきるんじゃないかね。他人の生命をあやうくするようなものは厳罰にすべきだ。」(『読売新聞』昭和38年/1963年9月11日号「“社会の敵”を葬れ 「草加次郎」紙上捜査会議」より ―参加者:警視庁刑事部長・本多丕道、慶大教授・林髞〈推理作家 木々高太郎〉、推理作家・佐賀潜〈弁護士 松下幸徳〉、東大助教授・樋口幸吉)

 草加次郎のような精神異常は社会から隔離すべきだ、というのが林=木々さんの持論だったそうです。あるいはそういう身も蓋もない威張りくさった発言が、誰かの癇に障ったものでしょうか。木々さんの自宅に不審な電話がかかってくるようになります。

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2019年4月14日 (日)

昭和41年/1966年・怪しいパーティを開き、ブルーフィルムを上映したことで逮捕された松本孝。

東京戸塚署は警視庁捜査四課の協力で新宿を根城にする暴力団極東組の摘発を行なったところ、一味の自供から(引用者中略)ルポライター、松本孝(三三)と妻、佳子(三二)が小説の材料にするため少女二人と少年一人に自宅で、睡眠薬を飲ませ、ブルーフィルムを見せて反応を観察するという“生体実験”をしたことをつきとめ、このほど松本夫妻をわいせつ物公然陳列の疑いで逮捕した。

(引用者中略)

松本は週刊新潮の「黒い報告書」などに事件をアレンジしたドキュメンタリーふうの小説を書いており、同事件の少年、少女のことは八月二十二日号の週刊誌「平凡パンチ」に書いた。

――『毎日新聞』昭和41年/1966年9月12日「とんでもないルポライター夫婦 薬のませ、不良映画 少年少女の反応を材料に」より

 うちのブログで約1年にわたって「同人誌と直木賞」を書いたとき、『断絶』とからめて松本孝さんのことにも触れました。松本さんの出世作といえば、第45回(昭和36年/1961年・上半期)の直木賞候補になった「夜の顔ぶれ」と言っていいんでしょうが、じっさいにはそれより早いタイミングで『週刊新潮』「黒い報告書」シリーズの第1号ライターに起用されたことが大きかった……みたいな流れで紹介したものです。いずれにしても〈エロス!〉および〈犯罪性!〉という、刺激的な題材をぬきにしては語れない物書きだったことは間違いありません。

 ということで、直木賞の候補作家とはいえ、いまとなっては文芸方面から顧みられることもない売文ライターのひとり、と言ってもいいはずですけど、その松本さんが現実の犯罪に巻き込まれ、いや、犯罪を起こした張本人だと糾弾されて、『毎日新聞』紙面に「とんでもないルポライター」だとデカデカと書かれたことがあります。直木賞の候補になってからわずか5年しか経っていない昭和41年/1966年9月の話です。

 事の起こりは、松本さんが小説を書きはじめた時期に当たる、1960年代の前半ごろにさかのぼります。

 その当時、都内の盛り場、とくに新宿あたりでは放埓で無気力で刹那的な生活を送る、いわゆる「フーテン」と呼ばれる10代、20代の若者たちが増え始めた、と言われています。一部は60年代安保の学生運動に打ちやぶれ、政治や社会制度に対する反抗心の行き場をなくした人たちが、そういうかたちで既成のモラルをぶち破ろうとしたのだ、という分析を信じていいのかどうなのか、それはともかくとして、家出して定宿のないまま、着の身着のまま、働きもせず、享楽にうつつを抜かし、睡眠薬を摂取することで混濁した意識にふける「ラリパッパ」なる遊びがじわじわと流行。こういう人たちの発生が社会的な現象として一気にマスコミの注目を集め、俗にいう「フーテン族ブーム」が訪れるのは昭和42年/1967年夏のことですが、それより前から松本さんは彼らの生態に密着し、妻とともに自分も新宿フーテン族の仲間というか兄貴分として過ごしていました。

 とくに松本さんを有名にしたのが、新宿区下落合の自宅を開放して若者たちとともに遊ぶ、プライベート・パーティの主催者としての顔です。

 自然発生的にパーティを開催するようになったのは、まさに60年代初期の昭和36年/1961年ごろからだといいます。参加者たちにはとにかくパートナーを独占しないというルールが課せられ、松本さんの準備した下着類を、男女の別なく自由に身にまとい、酒や睡眠薬を飲んでは、夜どおし踊ったり騒いだりする……という、人によってはおそらくこのうえないほどに楽しい催しを繰り広げ、いつの間にやら松本さんは、まわりから「教祖」と呼ばれるようにまでなります。

 ところが、昭和41年/1966年3月、いつものように開催されたパーティに、15歳と14歳の女子2人と、17歳の男子1人が新顔として参加したところから話はダークな方向に向かいはじめます。彼らが参加したきっかけは、松本さんの妻、佳子さんと新宿のジャズ喫茶で知り合ってパーティに誘われたから、と言われていますが、どうやら暴力団組織〈極東組〉のチンピラとつながっていたらしく、8月23日の深夜、突然松本さんの家に、前科二犯のバーテンダー新井元久さんと19歳の見知らぬ青年の二人がやってきます。

 19歳の青年は、パーティに参加していた女子の恋人だと言いだし、ついては女がおたくの知り合いに孕まされた、どう責任をとってくれるんだとイチャモンをつけてくる。つづけて翌日には、極東組組員の村畑誠一さん、女子2人を含めた5人でしつこく家にやってきて、何だかんだと理由をつけては5万円支払えなどと脅してくる。その恐喝ネタのひとつが、ブルーフィルムいわば非合法のポルノ映画を上映したという松本さんのパーティだったわけです。

 何だかしょぼい連中だなと思いながらも、松本さんは戸塚署に通報、9月6日に新井・村畑の両名が恐喝の容疑で逮捕されます。しかし彼らが供述した内容から、今度は松本さんがブルーフィルムの上映会をやっていることがバレてしまい、同日に家宅捜査が行なわれた結果、そこでは証拠のフィルムは出てこなかったものの、松本夫妻も猥褻物公然陳列罪で逮捕され、略式命令で1人3万円ずつの罰金刑と決まります。未成年もからんだ事件ということもあって、松本さんは、

「パーティーのなかに十四、五歳の少女がまぎれ込み、それが現実問題として堕落したことにはいたく反省して、「これでボクの社会的生命も終わりでしょう。テレビ局が連ドラをやってくれるはずだったが、もうとてもねえ。筆を折りたいと思ってます」と意気ショウチン」(『週刊大衆』昭和41年/1966年10月6日号「“わいせつ作家”松本孝氏の実績」より)

 と、断筆を決意しなければならないほどに深く反省することになりました。

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2019年4月 7日 (日)

昭和53年/1978年・タクシーのフロントガラスを壊し、器物損壊で現行犯逮捕された佐木隆三。

直木賞作家の佐木隆三(四一)=本名、小先良三(引用者中略)=が一日未明、酔って帰宅途中、乗車を断ったタクシーに腹を立て、フロントガラスをこわし、器物き棄の現行犯で東京・築地署に捕まった。

調べによると同日午前零時五十五分ごろ、中央区銀座七の三の一三の路上で(引用者中略)個人タクシー運転手、奥谷義里さん(三六)が信号待ちしていたところ、小先が「乗せてくれ」と近寄ってきた。

奥谷さんが「タクシー乗り場で拾って下さい」と断ると、小先は「なぜ乗せない。空車なんだからいいじゃないか」とタクシーのボンネットに上がり、こぶしやヒジでフロントガラスをこわした。被害は三万円相当。そのさい小先もヒジに軽いケガをした。

――『毎日新聞』昭和53年/1978年7月1日夕刊「直木賞作家の“乱行” 佐木隆三逮捕 タクシーに暴力」より

 直木賞を受賞した人はだいたい「直木賞作家」と呼ばれます。

 しかしこの呼び方は変じゃないかと、直木賞が生まれて以来、批判や異論をぶつける声は数知れず、これをテーマに1年分のブログが書けそうなぐらいに多くの人たちが問題視してきた呼称ですが、「ただの「作家」とは違うかのように印象づけながら、直木賞をとった、という以上のことを示しているわけではなく、けっきょく賞の知名度に頼った表面的な呼称」にすぎません。そう考えると、「イメージ先行で、ブランド力だけが肥大化している」という、直木賞そのものの一般的な実態が、意外とうまく表現されている単語です。

 いまのところ、この呼称を撤廃しようという動きはありません。おそらくこれからも直木賞の受賞者が何かすれば「直木賞作家が」うんぬんと話題にのぼり、直木賞という審査および顕彰機関が半年に1回おこなっていることとは何の関係もない分野でも、この賞の名前がひんぱんに使用されることは絶えないでしょうが、今週は「直木賞作家」の5文字が新聞の社会面に躍った昭和53年/1978年の一件を取り上げたいと思います。

 佐木隆三さんです。「犯罪でたどる直木賞史」のテーマでは「昭和46年/1971年、沖縄ゼネストの警備警官殺害事件」につづいて2度目の登場になります。

 前回の事件のときは、誤認逮捕でした。やってもいないことをやったと疑われ、留置所に拘束され、逮捕されたという報道が新聞にも出て、警察権力に対する憤怒の感情を思うぞんぶんかき立てることができました。それがひとつのきっかけとなって「犯罪」に興味の目を向け、やがて書下ろしの『復讐するは我にあり』完成にたどり着き、空想的なものよりリアリズムをこよなく愛する直木賞の風合いにハマって、この賞を受賞したのが第74回(昭和50年/1975年・下半期)、昭和51年/1976年1月のことです。

 下積みも長く、小説はもとより多才なジャンルの文章で稼いできた佐木さんは、直木賞特需に沸く受賞後からの原稿注文にも次から次へと柔軟に対応。受賞から2年ほど経った昭和53年/1978年6月にいたっても、いったいこれをひとりでさばき切れるのか、というぐらいの忙殺状態にあった、ということです。

 雑誌の締切を6つ抱えて赤坂見附のホテルにこもる、いわゆる「カンヅメ」になることに決めた6月30日、出版社の人などといっしょに銀座に出かけたのが夜8時半ぐらい。それからだいぶ酒を飲んだそうですが、そろそろ帰って仕事をやらなきゃまずいなと思い、日がまわって7月1日深夜1時少し前、タクシーを探しはじめます。

 ホテルまで距離も短いので、乗車拒否に合う可能性もある。これまでの経験上、個人タクシーならまず拒否されない、と判断した佐木さんは、連れの友人に個人タクシーを停めてくれるように頼み、じっさいに友人は一台のタクシーを停めたんですが、どうやら午前1時をまわる前は近くのタクシー乗り場で拾うのがルールだということで、運転手からそのことを告げられます。交渉する友人。しかし窓ガラスに手を入れた状態の友人をひきずるようにして、タクシーが動きだしたものですから、それを見た佐木さんはカッと頭に血がのぼり、なんて乱暴なことしやがるんだと、タクシーを停めるためにボンネットの上に飛び乗ります。危険です。

 はじめは運転手も丁寧な態度だったそうですが、佐木さんが暴れて、タクシーの窓ガラスにキズがついたのを見て激昂。乗せていけという佐木さん、ガラスを割りやがったな弁償しろという運転手、言い合いの喧嘩になり、よし話なら警察でつけようと佐木さんが提案して、銀座にある数寄屋橋交番の前まで移動します。しかしそこでも口論はまったくラチが明かず、そうこうするうちに築地署から刑事がやってきて、刑法第40章第261条、器物損壊の罪という運転手側からの告訴を受けて、佐木さんは現行犯逮捕されました。

 本人によれば、当夜はたしかにかなり酔っていて、あまり後先のことを考えずに、わかったわかった、ひと晩ここで泊まってやるから明日シロクロつけてやろう、と逮捕に応じたらしいんですが、翌朝起きてから冷静に考えたところ、こちらがきちんと詫びないと留置所から出ることもできず、締切の原稿を進めることもできない、という状況に気づき一気に青ざめます。丁重に反省の意を示し、ガラス損壊の弁償金16万円を支払うことも認めて、運転手との示談が成立。告訴は取り下げられ、7月1日夜、釈放されるにいたりました。

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