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2019年3月31日 (日)

昭和23年/1948年・将校クラブで酒を盗んだとして前科一犯がついた田中小実昌。

一九四七年(昭和二二)二二歳(引用者中略)

八月、米軍通信師団の将校クラブでバーテンダーになった。その将校クラブの図書室でベン・ヘクトなどを読み、W・サローヤンに興味を覚えた。一〇月、基地の人員整理で失業し、兵員食堂で働いた。

一九四八年(昭和二三)二三歳

将校クラブの雑役(ルビ:ジャニター)の仕事に就いたが、窃盗容疑で罰金刑を受け、両国の同愛病院の夜間受付になった。

――『ユリイカ』平成12年/2000年6月臨時増刊〔総特集 田中小実昌の世界〕 関井光男・編「田中小実昌年譜」より

 田中小実昌さんといえば、その作品だけでなく、メディアを通して伝わった人柄を含めて、既成の枠にハマらない独特の風合いが魅力的です。

 昭和30年代、ストリップ劇場をこよなく愛する、怪しくてエロチックで、道を外れた自由な生きかたがジャーナリズムで面白がられました。以来、なんだか畏まっている文壇の主流とは相容れない、反権威を象徴する物書きだと勝手に思われて、そんな記事も書かれたりしましたが、昭和54年/1979年、54歳のときに第81回直木賞を受賞。小説のようなエッセイ、もしくはエッセイのような小説を書くこの作家に、どうにか賞を贈りたいと思って奮闘した文藝春秋・豊田健次さんをはじめとする直木賞の、偉大なフリーダム精神がうまく発揮された授賞だったと思います。

 ところで、枠にハマっていない。ということは、ある面では社会的な制度から足を踏み出しがちです。「飄々とした」と形容されることの多い田中さんの履歴のなかに、いくつか犯罪事件の話題が出てくるのは、そういう意味では案外自然なのかもしれません。とくに戦後、田中さんが東京大学に復学してから、ほとんど学校に行かずに各地をぶらぶらしながら生きていた頃の回想には、タナカ・コミマサといえば犯罪、というぐらいにいろいろなエピソードが出てきます。

 その事件の多くは自分の預かり知らない、いわば濡れ衣だったそうです。牛を盗んだ、麻薬をパクッた、宝石や貴重品をかすめ取ったと、だいたいが窃盗の疑いでしたが、どれもこれも田中さんには身に覚えがなく、しかしほうぼうで「タナカ・コミマサを名乗る人間が悪事を働いている」みたいな評判が立ったといいます。こういうところが、いかにも清と濁に境目のない田中さんの不思議さです。生きざまそのものが、なかば文学、なかば犯罪です。

 将校クラブで働いていたときに窃盗の罪で警察に突き出され、有罪となった一件も、もとは濡れ衣が発端でした。当時のことを田中さんはいろいろ書き残していますが、そのなかのひとつ『いろはにぽえむ ぼくのマジメ半生記』(昭和60年/1985年2月・ティビーエス・ブリタニカ刊)を見てみますと、昭和23年/1948年、渋谷・松濤にあった広大な敷地の旧鍋島侯爵邸を接収してつくられた米軍通信師団の将校クラブで、雑役(ジャニター)として働いていた田中さんは、ある日の昼下がり、バーカウンターのうしろでウイスキーを拝借して飲んでいたところ、若い中尉にいきなり拳銃を向けられます。最近、カメラなど将校の持ち物がひんぱんに紛失している。従業員の持ち物を調べてみたら、バーから勝手にくすねたと見られるウイスキー1壜、缶ビール2個が田中さんの部屋から発見された。おまえは泥棒だ。ということを言われ、田中さんは渋谷署の刑事に引き渡されることになりました。

 のちの対談で、田中さんはとくに悪びれず、このように語っています。

「ぼくは前科一犯なんですよ。(引用者中略)窃盗前科ですよ、人を殺ったといえばカッコもいいけど、ウイスキー一本と缶ビール二本……それでも裁判所に呼ばれて前科一犯だもんね、威張っちゃいけないけど……(笑)。

(引用者中略)

将校クラブでバーテンやってたからね。バーテンなんかさ、泥棒というんじゃなくて商品持って帰っちゃうよ。だけどホラ、調べられりゃ泥棒だもんね。」(『週刊読売』昭和54年/1979年8月26日号「古今亭志ん朝対談 えーちょっと伺います」より)

 犯罪は犯罪です。その後、通信師団の本部のあった日比谷一帯を管轄している丸の内署に移され、留置所に入れられます。じっさいに騒ぎのきっかけになったカメラの窃盗事件は、他に犯人がいたことが判明し、田中さんの罪状はウイスキーと缶ビールの窃盗、という微罪中の微罪だったんですが、釈放されると簡易裁判所から罰金4000円の命令書が届きます。そんな大金は持っていないし、どうしようかと思っていたところ、知り合いの吉岡忠雄さんが払ってくれて事なきを得た、ということです。

          ○

 たしかに、これを犯罪と呼ぶのは気が引けますが、田中さんの語りに乗せると、よけいに「悪いことじゃないかもしれない」と感じさせられるのが、何とも恐ろしいところです。金を払わずに人のものを勝手に自分の所有物にすれば、犯罪になります。いまでも飲食店の従業員が、責任者から許可を得ずに店の食べ物、飲み物を私物化すれば咎められるでしょう。しかしそこで警察に通報され、法に照らして窃盗という名で裁かれるまでにはいくつかのハードルがあり、このとき罰金刑にまで発展してしまった田中さんは運が悪かった、ということになると思います。

 だけど、単に「運の悪さ」だけとも思えないのは、当時の田中さんの生活に、違法か適法かあやういグレーな人物、付き合い、実態があふれ出ているからです。タナカ・コミマサの名前を勝手に騙られて、いくたびも濡れ衣を着させられた、という話などはそのひとつでしょう。なにものにも縛られない自由な風合いは、おのずと違法な犯罪行為に近くなります。

 当時を思い起こす田中さんの文章によく出てくる人物に、須田剛さんという友人がいます。松濤の将校クラブでお互い雇われ人として知り合ったときから、すぐに気が合って、何かとよくツルんでいた人だそうです。

 その須田さんとの関わりのなかで、田中さんはこんなことを言っています。

「須田剛もぼくも、なにをやっても、どうってことはなく、ヤクザになったからって、それもどうってことはなかった。ヤクザをとくべつのものとは、おもっていなかったのだ。

(引用者中略)

須田剛もぼくも、自分がフーテンだとおもってはいない。だから、「フーテンの寅と発します」なんて仁義(ルビ:たんか)をきったりはしない。自分がフーテンだと気がつかないくらいのひどいフーテンだったのだ。」(『小説宝石』平成1年/1989年7月号 田中小実昌「わが青春交遊録 どうってことはなく」より)

 昔のヤクザは今の暴力団とは別ものだとは思いますが、しかし堅気でなかったことはたしかでしょう。これを「どうってことはない」と田中さんは言う。虚飾にとらわれない正直な人なんでしょうが、まあ、なかなか怖い感性です。

 そんな田中さんは、一般に「虚飾の権化」と見られた直木賞をもらうことを、手放しで喜びました。照れも隠さず、いや、多少照れながらも、よくおれの小説なんかに賞をくれたなあとうれしがり、予選を通してくれたという噂を聞きつけて文春の豊田さんの自宅にわざわざ御礼を言いに行ったそうです(平成19年/2007年11月・ランダムハウス講談社刊 豊田健次・著『文士のたたずまい―私の文藝手帖』所収「ぽくぽくコミさん――田中小実昌」)。

 「直木賞」という存在が権威然としていて偉そうなのは明らかです。ただ、それに反発してアンチ権威を気取るのもまた、同じくらいに虚栄的です。そういうのを取っ払った感覚のなかでは、一見犯罪と背中合わせのヤクザな世界も、有名な賞だというだけでチヤホヤする文学賞の世界も、あまり変わりがありません。

 権威志向の極端にとぼしい田中さんが、ただもらったというだけで喜んでくれた。その事実一点をもってしても、そういう人に賞を贈った直木賞は意外とイカしたところがあります。直木賞も「正統な大衆文学」とか勝手に言われてかわいそうですが、そういう世評に惑わされず、生き続けてほしいです。

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