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2019年3月の5件の記事

2019年3月31日 (日)

昭和23年/1948年・将校クラブで酒を盗んだとして前科一犯がついた田中小実昌。

一九四七年(昭和二二)二二歳(引用者中略)

八月、米軍通信師団の将校クラブでバーテンダーになった。その将校クラブの図書室でベン・ヘクトなどを読み、W・サローヤンに興味を覚えた。一〇月、基地の人員整理で失業し、兵員食堂で働いた。

一九四八年(昭和二三)二三歳

将校クラブの雑役(ルビ:ジャニター)の仕事に就いたが、窃盗容疑で罰金刑を受け、両国の同愛病院の夜間受付になった。

――『ユリイカ』平成12年/2000年6月臨時増刊〔総特集 田中小実昌の世界〕 関井光男・編「田中小実昌年譜」より

 田中小実昌さんといえば、その作品だけでなく、メディアを通して伝わった人柄を含めて、既成の枠にハマらない独特の風合いが魅力的です。

 昭和30年代、ストリップ劇場をこよなく愛する、怪しくてエロチックで、道を外れた自由な生きかたがジャーナリズムで面白がられました。以来、なんだか畏まっている文壇の主流とは相容れない、反権威を象徴する物書きだと勝手に思われて、そんな記事も書かれたりしましたが、昭和54年/1979年、54歳のときに第81回直木賞を受賞。小説のようなエッセイ、もしくはエッセイのような小説を書くこの作家に、どうにか賞を贈りたいと思って奮闘した文藝春秋・豊田健次さんをはじめとする直木賞の、偉大なフリーダム精神がうまく発揮された授賞だったと思います。

 ところで、枠にハマっていない。ということは、ある面では社会的な制度から足を踏み出しがちです。「飄々とした」と形容されることの多い田中さんの履歴のなかに、いくつか犯罪事件の話題が出てくるのは、そういう意味では案外自然なのかもしれません。とくに戦後、田中さんが東京大学に復学してから、ほとんど学校に行かずに各地をぶらぶらしながら生きていた頃の回想には、タナカ・コミマサといえば犯罪、というぐらいにいろいろなエピソードが出てきます。

 その事件の多くは自分の預かり知らない、いわば濡れ衣だったそうです。牛を盗んだ、麻薬をパクッた、宝石や貴重品をかすめ取ったと、だいたいが窃盗の疑いでしたが、どれもこれも田中さんには身に覚えがなく、しかしほうぼうで「タナカ・コミマサを名乗る人間が悪事を働いている」みたいな評判が立ったといいます。こういうところが、いかにも清と濁に境目のない田中さんの不思議さです。生きざまそのものが、なかば文学、なかば犯罪です。

 将校クラブで働いていたときに窃盗の罪で警察に突き出され、有罪となった一件も、もとは濡れ衣が発端でした。当時のことを田中さんはいろいろ書き残していますが、そのなかのひとつ『いろはにぽえむ ぼくのマジメ半生記』(昭和60年/1985年2月・ティビーエス・ブリタニカ刊)を見てみますと、昭和23年/1948年、渋谷・松濤にあった広大な敷地の旧鍋島侯爵邸を接収してつくられた米軍通信師団の将校クラブで、雑役(ジャニター)として働いていた田中さんは、ある日の昼下がり、バーカウンターのうしろでウイスキーを拝借して飲んでいたところ、若い中尉にいきなり拳銃を向けられます。最近、カメラなど将校の持ち物がひんぱんに紛失している。従業員の持ち物を調べてみたら、バーから勝手にくすねたと見られるウイスキー1壜、缶ビール2個が田中さんの部屋から発見された。おまえは泥棒だ。ということを言われ、田中さんは渋谷署の刑事に引き渡されることになりました。

 のちの対談で、田中さんはとくに悪びれず、このように語っています。

「ぼくは前科一犯なんですよ。(引用者中略)窃盗前科ですよ、人を殺ったといえばカッコもいいけど、ウイスキー一本と缶ビール二本……それでも裁判所に呼ばれて前科一犯だもんね、威張っちゃいけないけど……(笑)。

(引用者中略)

将校クラブでバーテンやってたからね。バーテンなんかさ、泥棒というんじゃなくて商品持って帰っちゃうよ。だけどホラ、調べられりゃ泥棒だもんね。」(『週刊読売』昭和54年/1979年8月26日号「古今亭志ん朝対談 えーちょっと伺います」より)

 犯罪は犯罪です。その後、通信師団の本部のあった日比谷一帯を管轄している丸の内署に移され、留置所に入れられます。じっさいに騒ぎのきっかけになったカメラの窃盗事件は、他に犯人がいたことが判明し、田中さんの罪状はウイスキーと缶ビールの窃盗、という微罪中の微罪だったんですが、釈放されると簡易裁判所から罰金4000円の命令書が届きます。そんな大金は持っていないし、どうしようかと思っていたところ、知り合いの吉岡忠雄さんが払ってくれて事なきを得た、ということです。

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2019年3月24日 (日)

昭和61年/1986年・井上ひさしと再婚するかもしれない、として写真を撮られた女性が提訴。

写真週刊誌「フライデー」に盗み撮りの写真を掲載され、「作家の井上ひさし氏の『再婚相手』とうわさされる」などと報道された料理研究家の米原ユリさん(三三)が二十四日、「のぞき見趣味に迎合した商業主義的報道で肖像権を侵害された」などとして、同誌の発行元、講談社(野間惟道社長)に対し、写真が掲載された十月二十四日号(九日発売)の回収のための広告掲載や慰謝料二百万円などを求める訴訟を東京地裁に起こした。

芸能人などの著名人でない一市民が「肖像権侵害」を理由に提訴に踏み切るのは異例のこと。

――『朝日新聞』昭和61年/1986年10月25日「盗み撮り雑誌 法廷へ 結婚報道の料理研究家 肖像権認め回収を」より

 ゴシップにはさまざまな種類があります。いまうちのブログでやっている犯罪事件をはじめとして、訴えた・訴えられたのトラブルや、誰と誰が仲がいいとか、誰の性格が悪いとか、内輪でのみ流通するウワサ話もあります。いずれにしても文学を何だか特別視している文学信者からはおおむね馬鹿にされる類いの話題ですが、そのなかで燦然と輝く「どうでもいいゴシップ話」の王道といえば、男女のあいだに関すること、とくに結婚・離婚のニュースです。

 いや、王道といえるのかどうなのか、ゴシップには主流も傍流もないので、それはちょっと言いすぎですけど、直木賞という存在を盛り上げてきたゴシップのひとつに、惚れた腫れたの色恋沙汰があることは間違いありません。第1回に受賞した川口松太郎さんからして人気舞台女優とくっつき、受賞直後にさんざんイジられた、というところからも、その伝統ぶりはよくわかります。

 直木賞の受賞者、候補者、選考委員、こういう人たちの結婚の話が報道ベースに乗ったことは、多くはないにしてもいくつか挙げられると思いますが、ほぼ1年という短いあいだに離婚および再婚が数多くのメディアで取り上げられ、しかもそこに犯罪事件まで呼び込んでしまった稀有な事例が、今週触れる井上ひさしさんのケースです。言うまでもなく、ほとんどがどうでもいいことですが、有罪無罪を争う裁判になった事案でもあり、ここは安易に馬鹿にせず、少し流れを追ってみたいと思います。

 そもそも昭和47年/1972年上半期(第67回)に直木賞を受賞した段階で、井上さんに関する記事には、しばしば妻の好子さんも登場していた、というぐらいに井上夫妻はともども有名でした。どことなく頼りなさそうだが仕事のデキる亭主と、テキパキと物事を処理して自分も前に出ていく女房。あるいは「こまつ座」という劇団の運営を切り盛りするリーダーと、台本が間に合わずだいたい遅れる座付作者。そんな間柄として取り上げられるなか、井上さんの仕事は順調に推移して、直木賞受賞約10年後の昭和57年/1982年下半期(第88回)からは同賞の選考委員を拝命します。

 このお二人の昭和36年/1961年以来の婚姻関係が、終わりを遂げることになったのは昭和61年/1986年6月、ひさしさん51歳、好子さん46歳のときです。離婚が決定的になったのは、前年に好子さんが他の男性と関係を結んで失踪した、いわゆる浮気もしくは不倫にあったと言われ、離婚さわぎのゴタゴタのなかで井上さんの母親も好子さんのことを悪しざまに罵るなど、テレビのワイドショー、週刊誌、スポーツ紙あたりは熱烈に二人の離婚にまつわるあれこれをネタにしました。

 冷静に考えると、いくら直木賞の選考委員も務める人気作家とはいえ、離婚ぐらいのことで何でマスコミが燃え立ったのか。不思議な話ではありますが、他人の家庭の揉め事は、外から見ると基本エンタメ、というのはだいたいワタクシたちの社会では常識として共有されている構造です。

 しかし、その常識が行き過ぎた結果、さすがに耐えられなくなる人が出てきたのも、また事実です。

 別れた妻、好子さんのほうは、舞台監督の西舘督夫さんという恋のお相手の名前もオモテに出て、そちらはそちらでヤイヤイ言われたんですが、別れた夫、ひさしさんのほうも離婚会見から3か月弱、早くも再婚相手と目される女性が判明したぞ。という特ダネを『スポーツニッポン』がつかみ、昭和61年/1986年9月21日付の記事として一発かまします。その相手、米原ユリさんがのちに回想した「特別手記―私が裁判を起こした理由」(『創』平成1年/1989年8月号)によると、『スポニチ』の発売されたその日の朝から、自宅の前に報道陣がわさわさと集結、ご近所に要らぬ迷惑をかけるは、殺してやるだの卑猥なことを言うだけの迷惑電話がかかってくるは、日常生活に支障をきたすレベルの大きな波が襲ってきたそうです。

 さらには昔どこかで撮った顔写真が勝手に使われ、若干の臆測と若干の真実がまざり込んだ、基本、興味本位の記事がぞくぞくと書かれますが、さあここでやってくるのが真打ち登場、80年代ゴミクズ文化の集大成とも呼ばれる写真週刊誌です。講談社『FRIDAY』の契約カメラマン小原玲さんが、高さ2メートルの塀越しに米原さんの家のなかにレンズを向け、キッチンに立つ米原さんの姿を無断で横から撮影。編集部からこういう写真が出ますよと事前に告知されてそのことを知った米原さんは、あまりの恐怖におぞけだち、掲載をやめてほしい、載せたら訴えますと返答しますが、それを無視した『FRIDAY』は、10月24日号に「別れた「夫人」もすすめた「いい関係」 井上ひさし氏が語った「噂の女性」との真実」と題する記事を発表してしまいます。そこに書かれた文章の内容はともかくとして、米原さんの写真のほうは粒子も荒いし表情だってよくわからない、一ページまるまる使っている割には別段何という価値もないもので、おそらく渦中の女性のいまの姿を、よそに先駆けて撮ってみせたぜ、という同誌およびカメラマンの自己満足が8割以上の意味を占めたような記事でした。

 井上さんの離婚にも再婚にも、とくに法を犯す要素は見当たりませんでしたが、再婚する前の、お相手と目される人に対するやりすぎた報道が大きな問題を起こしてしまいます。同年10月24日、米原ユリさんは講談社を相手取り、肖像権の侵害を訴えて裁判を起こしました。

 

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2019年3月17日 (日)

昭和22年/1947年・GHQ/SCAPの指令による公職追放の該当者になった菊池寛。

中央公職適否審査委員会では七日付官報号外で十一月十六日より同卅日までの審査結果を発表した、今回の審査対象は主として各省二級官吏で審査件数四、一三四件中非該当決定人員三、九四七名、該当決定人員一八五名、審査未了件数二となつており、追放該当者中には前国務大臣衆議院議員林平馬氏、元大映社長菊池寛、厚生省顧問吉岡彌生、元通信次官大和田悌二氏ら知名の士も含まれ梨本守正氏外十氏の元皇族も正規陸海軍将校として該当決定となつた、

――『読売新聞』昭和22年/1947年12月7日「林元国務相ら追放 元皇族十一氏も 百八十五名該当決定」より

 直木賞というと、どんなイメージがあるでしょうか。業界内の評判はさておいて、たとえば一般的には「売れる」とか「読みやすい」とか「スゴい業績」とか「もう落ち目」とか、いくつか挙げられると思いますが、その一角に確実に入ってくる強烈なイメージがあります。「エラそうだ」ないしは「イバっている」というものです。

 何をもってエラそうと感じるのか。それは直木賞というより、これをまわりから見ているワタクシたちの感覚の問題でもあります。時代や立場によって、物事を目の前にしたときに沸いてくる感情は、当然ちがうはずですから、直木賞のやっていることや仕組みが変わらなくても、世間一般の受け取り方が変わることはあり得る話です。これから小説家として歩いていく未来ある人たちに向けて、たかだか何十年か長くこの世界で生きているというだけの高齢者たちが、自身の書く小説の出来不出来をタナに上げて、好きか嫌いかの私的な理由で他人の作品をケナしたりする。その言っていること、ことごとくがエラそうだ。……と、『オール讀物』に載っている選評を読んで不快な気分になる人がいても、おかしくはありません。

 もちろん、そうやって嫌われないように、ある選考委員は口当たりのいい表現を並べ、ある選考委員は候補者や候補作に対してわざわざ謝ったりし、ある選考委員は自分がどれに投票したのかバレないように書いているわけですが、けっきょくのところ選考会ではみんな、作品に○△×をつけて票を入れています。口の悪い委員も、やさしそうな委員も、おしなべてやっていることはエラそうだ、ということになります。

 選考委員の座にすわるのは、キャリアのある既成の作家。選考の対象になるのは、それよりキャリアの浅い既成の作家、という文学賞は直木賞の他にもありますが、おおむねこの「エラそうな」構造から逃れられません。しかし直木賞(+もうひとつの兄弟賞)と、それ以外の文学賞には、現状埋めることのできない最大級のちがいがあります。メディアに取り上げられる頻度や量が圧倒的に多いことです。どこの新聞でもネットのニュースでも、賞の名前や存在がいつでも目につく。べつに大した賞でもないのに、やたら権威だ何だと持て囃されている。何だかエラそうだ。ということで、直木賞のエラそうなイメージは肥大化するいっぽうです。

 前置きが長くなりました。今週取り上げる菊池寛さんは34歳のとき、大正11年/1922年の暮れに『文藝春秋』を創刊してから、ずっと文藝春秋社の社主・社長の座にあり、昭和13年/1938年には直木賞や芥川賞などの授賞機関である日本文学振興会をつくって初代理事長に就任、昭和21年/1946年に文藝春秋社を解散させ、昭和23年/1948年に突然倒れて死亡。30代から50代まで、出版界もしくは文芸界のカリスマ的な扱いを受け、若くして「大御所」と呼ばれたりした人です。

 菊池さんが物書きとして輝いていたのは大正時代、昭和に入って以降はだれかに代作させたり、読み物雑誌に登場するぐらいなものでしたし、経営者としても自分で会社を畳み、出版界や映画界から身をひいてから、すぐにこの世を去っています。可能性から考えて、そのまま忘れ去られても不思議ではなかったはずですが、これがのちにまで、天才だった、才人だった、慧眼の持ち主だった、と賞讃されるようになったのは、明らかに『文藝春秋』を受け継いで文藝春秋新社を興した佐佐木茂索さんや池島信平さんなどに才覚があったおかげです。

 59年の人生だったとはいえ、ノッていた時期には自ら各種団体や組織をつくり、また人に頼まれて要職についたりしました。そうなれば当然、味方も増えれば敵も多くなる。毀誉褒貶に包まれるのは避けられません。訴えようとしたり、訴えられたり、事件性を帯びたいざこざに巻き込まれたことも多少見受けられますが、そのなかでも昭和22年/1947年10月に公職追放の対象リストに名前を挙げられ、審査の結果、11月にたしかに追放の該当者に入れられたという一件は、やはり無視して通り過ぎるわけにはいきません。

 公職追放は、純粋な犯罪事案とは言えないでしょうけど、法令によって処分される、という意味では犯罪に準ずるもの、と見なすこともできます。これが出版人としての菊池さんの総決算となったのですから、直木賞などの文学賞も無関係な話ではなくなってきます。

 順番を追ってみると、日本が降伏したのが昭和20年/1945年8月。ときに『文藝春秋』は休刊中でしたが、まもなく秋には復刊を果たし、直木賞・芥川賞もとりあえず1回だけ、昭和20年/1945年上半期の該当者なし、という発表をして継続しかけます。しかし翌年、昭和21年/1946年3月に菊池さんは、主に経営難を理由として文藝春秋社の解散を断行。文学賞の去就はこれで宙に浮いてしまったかっこうです。さらに次の昭和22年/1947年3月には、菊池さんはみずから大映の社長も辞任して、筆一本の作家の立場に戻ることに。「先の戦争を先導した責任をとった」なんて反省を対外的に口にすることはありませんでしたが、内心ではどんな考えが渦巻いていたのか、もはやわかりません。

 ちなみに寛さんの孫、菊池夏樹さんの『菊池寛と大映』(平成23年/2011年2月・白水社刊)を読んでみると、昭和21年/1946年正月にGHQから呼び出された菊池さんは、公職追放の指令を出され、その影響が文春の解散、大映の社長辞任へとつながる、という流れをとっています。しかし、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が日本政府に公職追放指令を出したのが昭和21年/1946年1月4日。この時期に、民間の一言論人が追放リストに入れられていた、と見るのは、どうにも早すぎるようです。

 だれかに命令されてしぶしぶ辞めたのか、先に自分の意思で辞めたのか、というのはけっこう重要なことだと思うんですが、菊池さんの場合は後者だった、ということになります。人からの指示に殊勝に従うようなタマじゃありません。

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2019年3月10日 (日)

昭和43年/1968年・『深層海流』の一部は著作権侵害だと告訴された松本清張。

著述業三田和夫氏は、二日午後、作家松本清張氏を著作権侵害の疑いで警視庁捜査二課に告訴。

告訴状によると、三田氏の著書「赤い広場―霞ヶ関」(昭和三十年七月三十日、二十世紀社)から松本氏が著書「深層海流」(昭和三十六年新年号から十二月号まで文芸春秋本誌に連載後、三十七年十一月二十日、文芸春秋新社から出版)に、大きな部分で二か所、小さな部分では十か所ほど盗作しているという。

――『読売新聞』昭和43年/1968年4月3日「松本清張氏 告訴される」より

 直木賞の候補経験があり、やがて選考委員も務めた松本清張さんは、長年にわたって魅力的な作品を生み出しました。作家としての力量はまったく申し分がありませんが、その反面、本人の人格はこのうえなく最低だった、というエピソードもたくさん残されています。至るところに転がっていて、とうてい追いきれません。

 とくに『点と線』(昭和33年/1958年)以降、ベストセラー連発の流行作家に躍り出てからは、へいこら追従する出版社の人間ないしは多彩な人脈を使って、姑息なかたちで他人を蹴落とそうとしたり潰しにかかったりした、と言われています。そのやり口のあまりの卑怯さに、被害に遇った人たちや風聞を耳にした人たちが、あるときは怒り、あるときは面白がって、いろいろな回想、伝聞を書き残しましたが、そういうトラブルのなかから、じっさいに「著作権侵害」という理由で告訴されたのが、今週取り上げる一件です。松本さんが直木賞の選考委員になって約7年ほどの、昭和43年/1968年のことでした。

 告訴の内容は単純明快と言っていいでしょう。昭和37年/1962年に刊行された小説『深層海流』のなかに、昭和30年/1955年に三田和夫さんが発表した『赤い広場―霞ヶ関』というドキュメント作品から、表現や構成を含めてほぼコピペ、丸パクした箇所が何か所もある。それが著作権侵害に当たる、と三田さん本人が親告した、ということです。

 じっさいに照合してみると、人名や漢字のひらきに多少の差があるだけで、両者、たしかに何行にもわたってほとんど同じ文章が見られます。偶然同じになった、と言い逃れするのは、客観的に見てもまず無理なレベルです。

 当時、三田さんが発表した「私はなぜ松本清張を告訴したか」(『20世紀』昭和43年/1968年7月号)という記事があります。告訴相手の松本さんに一矢報いてやろうと、皮肉を利かせたり凝った表現を弄したりしている、あまり上品とは言えない攻撃的な文章なんですが、本人の心情はさておくとしても、そこで紹介されているところによれば、文部省著作権課長だった佐野文一郎さんも「文章を見る限りでは、著作権侵害の疑いがあり、同時に、著作権法第十八条の、著作者の人格権侵害の疑いもある」と東京新聞の記者にコメントしたそうです。まあ多くの人はそう見るでしょう。

 人から教えられてその酷似ぶりに気づいた三田さんは、はじめは訴えを起こすつもりはなかったといいますから、展開次第ではそのまま収束していたかもしれません。しかし、三田さんの怒りに火がつきます。松本さんの対応がひどかったからです。

 まず三田さんは、昭和42年/1967年10月に、この問題をどうお考えかと、松本さんに宛てて内容証明郵便を送ります。『経済往来』昭和42年/1967年10月号には、松本さんへの公開質問状として「「清張工房」の内幕」を発表。きっと何か返答があるだろうと思って待っていたところ、10月14日、三田さんのもとになぜか講談社の取締役、久保田裕さんから速達が届きます。そこには、松本氏は三田さんの本は読んでいないそうです、剽窃なわけがありません、今後は私が松本氏の代理人となるので、連絡があるなら私までどうぞ……とありました。

 松本清張に手紙を送ったのに、松本さん本人ではなく、『深層海流』版元の文藝春秋でもない、講談社のお偉方から返答がきた。ん? なぜでしょう。それは当時、読売新聞社を辞めてフリーのライターとなっていた三田さんの、大きな仕事先のひとつが講談社の『ヤング・レディ』誌だったからだ、と三田さんは判断します。しょせんライターは下請け稼業。発注元の編集局長が相手をすれば強くも出られず、矛を収めるしかなくなるだろう、ということで、対応を人まかせにしやがったな、このやろう、何と傲慢な態度なんだ。三田さんはムッとして、みずから『ヤング・レディ』との絶縁を宣言。徹底抗戦の構えをとることを決意します。

 そこであらためて松本さんの仕事ぶりを取材してみたところが、どうも松本さんは自分で取材して文章を書いているわけではなく、データや素材集め、原稿作成などを「秘書」役にやらせているらしい。なかでも、松本さんの評価を高めた現代史のノンフィクション物と呼ばれる『昭和史発掘』などは、大部分が文藝春秋の嘱託記者だった大竹宗美さんの手によるもので、しかし大竹さんの下原稿が杜撰だったためか、いっとき『田中義一伝』や森長英三郎さんの論文を盗作したものだと関係者から抗議が上がったとのこと。そのときも松本さんは自分で対処に当たらず、抗議してきた人を説得できそうな他の人物に手をまわし、表沙汰にならないように火消しを図っていた。こんな人間が、社会の不正を暴く正義派の作家だとか言われてまかり通り、それに出版界全体が加担している。何と腐り切っているのだ! 三田さんは怒ります。

 向こうは押しも押されもしないベストセラー作家です。こっちは新聞記者あがりの一介の無名ジャーナリスト。だから何だ。上等じゃないか。こんな作家がデカい顔をしている腐敗した出版界に一石を投じてやる。と使命感にかられて三田さんは告訴に踏み切った、ということです。

 ちなみに松本さんのほうは、この程度のことは軽く逃げ切れると踏んだらしく、黙殺を決め込みます。かつて松本さんの口述筆記を引き受けていた速記者の福岡隆さんによると、

「『深層海流』は、後年、思わぬところから火の手が上がり、松本さんが北ベトナムに旅行中、盗作うんぬんで某氏から訴えられたが、松本さんはこれを無視した。相手の売名行為に乗ぜられるからである。」(昭和43年/1968年11月・大光社刊、福岡隆・著『人間・松本清張』「第十九話 評論家ぎらい」より)

 ということになっています。「後年」というのは『深層海流』の刊行からしばらく経ってからという意味で、福岡さんの上の文章は、三田さんが告訴してまもない、まさに松本さんが無視している最中に発表されたホヤホヤの文章なんですが、なるほど、高名な自分を訴えるのは売名行為にすぎない、と対外的に言っておくのは、著名作家にとってはなかなか賢い逃亡手段に違いありません。

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2019年3月 3日 (日)

昭和23年/1948年・夜道で女性を襲って強姦未遂の罪になった八匠衆一。

終戦後間もない頃、甚佐は東京である事件を起した。酒の上深夜の路上でひとりの婦人を襲おうとしたのである。その頃流行しはじめていたヒロポンや睡眠剤の影響もあったが、原因はただ単にそれだけでもないようであった。その頃の暗い世相、我執に満ちた人間の在り方、それに対する憤怒や懐疑、そのなかで死を思い、一日一日その方向へでも引きずられてゆくように、彼の心も頭も、錯乱し節度を失いはじめていたのかもしれなかった。

(引用者中略)

その頃はそんな事件が横行している時代だった。それに、刑事訴訟法も改正になったばかりで、四十八時間以内に起訴しなければ、取調べを続行することが出来なかった。

彼は自分の行為をなんと説明していいか分らなかった。自分で自分の気持さえ判断しかねていたのである。従って、羞恥のため顔をあげることも出来ず、答弁もしどろもどろだった。それがいっそう疑いを濃くする結果にもなった。刑事達もその改正に慣れていなかったし、一応はなんでも起訴した。

起訴され、忌わしい罪名が付されると、それだけでも大きな罪の結果になった。

――昭和56年/1981年11月・作品社刊、八匠衆一・著『地宴』「第二章」より

 第34回(昭和30年/1955年・下半期)の直木賞候補になった「未決囚」と、その作者八匠衆一さんのことを、以前うちのブログで取り上げたことがあります。平成20年/2008年12月ですから、もう10年以上まえのことです。

 そのときは簡単なあらすじと、この小説の書かれた背景などに触れたんですが、要するにその中心にあったのは犯罪事件です。直木賞といえば犯罪、犯罪といえば直木賞。両者の縁の深さに、当時は全然気づいていなかったですけど、おそらく昔の候補作を読むなかでこの賞を構成する多面的な要素のなかでも「犯罪事件」とからんだときの直木賞の面白さに無意識に反応して、うっかりブログに書いてしまったものと思われます。10年もたってけっきょく同じエピソードを取り上げるわけですから、ワタクシも全然成長していないんだな、とかなり悲しくなる瞬間でもあります。

 それはともかく、八匠さんです。

 大正6年/1917年生まれなので昭和23年/1948年で31歳。このときは〈松尾一光〉という本名で小説を書いていました。日本大学芸術科で講師をしていた伊藤整さんのもとで学んだ門下のひとり、はてまた中央線沿線に住む外村繁さんとはかなり親しい間柄にあったそうですが、30歳を越えて小説家としてはまだまだ新進、いや無名に近い境遇にいた、と言っていいでしょう。戦後のゴタゴタした世相のなかで坂口安吾さんや太宰治さんなどの、いわゆる無頼派の文学に心を寄せていた、という説もあります。

 「若い」と呼ぶにはもうかなり年を食っていて、焦燥感やら不遇感やら、どこか満たされない思いを抱えていたのではないか、と推察しますが、答えはどこにもないので臆測で語るのはやめておきしょう。ともかく八匠=松尾さんはやってしまいます。

 ある日の深夜、酔って道を歩いていた松尾さんは、前を歩いていた女性に近づくと、いきなり手を出し、乱暴しようと試みた。女性が叫び声を上げ、松尾さんはぶっ倒れ、その場で取り押さえられた。……というのが最初の犯行状況だったそうです。

 その後、警察で取り調べを受け、強姦未遂という罪名が付きます。このときは執行猶予がついて服役は免れましたが、未遂とはいえ、いや未遂だからこそ「強姦」という、自分に下された罪名に松尾さんは苦しむことになり、クスリに逃げ、そして前後不覚のまま似たような犯行に及んだために、今度こそはたしかに監獄行きが決定します。三十路を過ぎて観念的な世界にとりつかれた文学青年の哀れな末路、といったふうに見られるのはどうしようもなく、師ともいうべき伊藤整さんや、家に住まわせたり仕事先を紹介してもらったりしていた友人の梅崎春生さんに、これらのいきさつを小説のネタにされた、ということを以前ブログに書きました。

 しかし、気の迷いか悪酔いしたせいか、小説家を志す男が女性を襲おうとしたためにお縄にかけられて、一巻の終わり。……というのは、イエローなジャーナリズムが好きそうなゴシップではありますが、単なるゴシップではありません。いや単なるゴシップかもしれません。それはどっちでもいいことです。

 少なくとも松尾さんが勾留されて有罪となり、小菅から札幌の刑務所に移され、刑に服したのちに、八匠衆一という新たな名前を携えてふたたび小説を書き始めるというこの貴重な経験が、昭和31年/1956年1月、38歳で直木賞の候補に入るところから、作家賞(昭和33年/1958年)、もしくは平林たい子文学賞(昭和57年/1982年)へと連なる、八匠さんの少なくて輝ける文学賞の歴史を築くことになるのです。

 なあんだ文学賞か、けっきょくゴシップの話じゃないか。と馬鹿にする意見も、きっとおありでしょう。しかし、ひとつひとつの文学賞を見るときに訪れる一種の興奮の展開がそこにあることに間違いはありません。

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