昭和23年/1948年・将校クラブで酒を盗んだとして前科一犯がついた田中小実昌。
一九四七年(昭和二二)二二歳(引用者中略)
八月、米軍通信師団の将校クラブでバーテンダーになった。その将校クラブの図書室でベン・ヘクトなどを読み、W・サローヤンに興味を覚えた。一〇月、基地の人員整理で失業し、兵員食堂で働いた。
一九四八年(昭和二三)二三歳
将校クラブの雑役(ルビ:ジャニター)の仕事に就いたが、窃盗容疑で罰金刑を受け、両国の同愛病院の夜間受付になった。
――『ユリイカ』平成12年/2000年6月臨時増刊〔総特集 田中小実昌の世界〕 関井光男・編「田中小実昌年譜」より
田中小実昌さんといえば、その作品だけでなく、メディアを通して伝わった人柄を含めて、既成の枠にハマらない独特の風合いが魅力的です。
昭和30年代、ストリップ劇場をこよなく愛する、怪しくてエロチックで、道を外れた自由な生きかたがジャーナリズムで面白がられました。以来、なんだか畏まっている文壇の主流とは相容れない、反権威を象徴する物書きだと勝手に思われて、そんな記事も書かれたりしましたが、昭和54年/1979年、54歳のときに第81回直木賞を受賞。小説のようなエッセイ、もしくはエッセイのような小説を書くこの作家に、どうにか賞を贈りたいと思って奮闘した文藝春秋・豊田健次さんをはじめとする直木賞の、偉大なフリーダム精神がうまく発揮された授賞だったと思います。
ところで、枠にハマっていない。ということは、ある面では社会的な制度から足を踏み出しがちです。「飄々とした」と形容されることの多い田中さんの履歴のなかに、いくつか犯罪事件の話題が出てくるのは、そういう意味では案外自然なのかもしれません。とくに戦後、田中さんが東京大学に復学してから、ほとんど学校に行かずに各地をぶらぶらしながら生きていた頃の回想には、タナカ・コミマサといえば犯罪、というぐらいにいろいろなエピソードが出てきます。
その事件の多くは自分の預かり知らない、いわば濡れ衣だったそうです。牛を盗んだ、麻薬をパクッた、宝石や貴重品をかすめ取ったと、だいたいが窃盗の疑いでしたが、どれもこれも田中さんには身に覚えがなく、しかしほうぼうで「タナカ・コミマサを名乗る人間が悪事を働いている」みたいな評判が立ったといいます。こういうところが、いかにも清と濁に境目のない田中さんの不思議さです。生きざまそのものが、なかば文学、なかば犯罪です。
将校クラブで働いていたときに窃盗の罪で警察に突き出され、有罪となった一件も、もとは濡れ衣が発端でした。当時のことを田中さんはいろいろ書き残していますが、そのなかのひとつ『いろはにぽえむ ぼくのマジメ半生記』(昭和60年/1985年2月・ティビーエス・ブリタニカ刊)を見てみますと、昭和23年/1948年、渋谷・松濤にあった広大な敷地の旧鍋島侯爵邸を接収してつくられた米軍通信師団の将校クラブで、雑役(ジャニター)として働いていた田中さんは、ある日の昼下がり、バーカウンターのうしろでウイスキーを拝借して飲んでいたところ、若い中尉にいきなり拳銃を向けられます。最近、カメラなど将校の持ち物がひんぱんに紛失している。従業員の持ち物を調べてみたら、バーから勝手にくすねたと見られるウイスキー1壜、缶ビール2個が田中さんの部屋から発見された。おまえは泥棒だ。ということを言われ、田中さんは渋谷署の刑事に引き渡されることになりました。
のちの対談で、田中さんはとくに悪びれず、このように語っています。
「ぼくは前科一犯なんですよ。(引用者中略)窃盗前科ですよ、人を殺ったといえばカッコもいいけど、ウイスキー一本と缶ビール二本……それでも裁判所に呼ばれて前科一犯だもんね、威張っちゃいけないけど……(笑)。
(引用者中略)
将校クラブでバーテンやってたからね。バーテンなんかさ、泥棒というんじゃなくて商品持って帰っちゃうよ。だけどホラ、調べられりゃ泥棒だもんね。」(『週刊読売』昭和54年/1979年8月26日号「古今亭志ん朝対談 えーちょっと伺います」より)
犯罪は犯罪です。その後、通信師団の本部のあった日比谷一帯を管轄している丸の内署に移され、留置所に入れられます。じっさいに騒ぎのきっかけになったカメラの窃盗事件は、他に犯人がいたことが判明し、田中さんの罪状はウイスキーと缶ビールの窃盗、という微罪中の微罪だったんですが、釈放されると簡易裁判所から罰金4000円の命令書が届きます。そんな大金は持っていないし、どうしようかと思っていたところ、知り合いの吉岡忠雄さんが払ってくれて事なきを得た、ということです。





最近のコメント