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2019年3月10日 (日)

昭和43年/1968年・『深層海流』の一部は著作権侵害だと告訴された松本清張。

著述業三田和夫氏は、二日午後、作家松本清張氏を著作権侵害の疑いで警視庁捜査二課に告訴。

告訴状によると、三田氏の著書「赤い広場―霞ヶ関」(昭和三十年七月三十日、二十世紀社)から松本氏が著書「深層海流」(昭和三十六年新年号から十二月号まで文芸春秋本誌に連載後、三十七年十一月二十日、文芸春秋新社から出版)に、大きな部分で二か所、小さな部分では十か所ほど盗作しているという。

――『読売新聞』昭和43年/1968年4月3日「松本清張氏 告訴される」より

 直木賞の候補経験があり、やがて選考委員も務めた松本清張さんは、長年にわたって魅力的な作品を生み出しました。作家としての力量はまったく申し分がありませんが、その反面、本人の人格はこのうえなく最低だった、というエピソードもたくさん残されています。至るところに転がっていて、とうてい追いきれません。

 とくに『点と線』(昭和33年/1958年)以降、ベストセラー連発の流行作家に躍り出てからは、へいこら追従する出版社の人間ないしは多彩な人脈を使って、姑息なかたちで他人を蹴落とそうとしたり潰しにかかったりした、と言われています。そのやり口のあまりの卑怯さに、被害に遇った人たちや風聞を耳にした人たちが、あるときは怒り、あるときは面白がって、いろいろな回想、伝聞を書き残しましたが、そういうトラブルのなかから、じっさいに「著作権侵害」という理由で告訴されたのが、今週取り上げる一件です。松本さんが直木賞の選考委員になって約7年ほどの、昭和43年/1968年のことでした。

 告訴の内容は単純明快と言っていいでしょう。昭和37年/1962年に刊行された小説『深層海流』のなかに、昭和30年/1955年に三田和夫さんが発表した『赤い広場―霞ヶ関』というドキュメント作品から、表現や構成を含めてほぼコピペ、丸パクした箇所が何か所もある。それが著作権侵害に当たる、と三田さん本人が親告した、ということです。

 じっさいに照合してみると、人名や漢字のひらきに多少の差があるだけで、両者、たしかに何行にもわたってほとんど同じ文章が見られます。偶然同じになった、と言い逃れするのは、客観的に見てもまず無理なレベルです。

 当時、三田さんが発表した「私はなぜ松本清張を告訴したか」(『20世紀』昭和43年/1968年7月号)という記事があります。告訴相手の松本さんに一矢報いてやろうと、皮肉を利かせたり凝った表現を弄したりしている、あまり上品とは言えない攻撃的な文章なんですが、本人の心情はさておくとしても、そこで紹介されているところによれば、文部省著作権課長だった佐野文一郎さんも「文章を見る限りでは、著作権侵害の疑いがあり、同時に、著作権法第十八条の、著作者の人格権侵害の疑いもある」と東京新聞の記者にコメントしたそうです。まあ多くの人はそう見るでしょう。

 人から教えられてその酷似ぶりに気づいた三田さんは、はじめは訴えを起こすつもりはなかったといいますから、展開次第ではそのまま収束していたかもしれません。しかし、三田さんの怒りに火がつきます。松本さんの対応がひどかったからです。

 まず三田さんは、昭和42年/1967年10月に、この問題をどうお考えかと、松本さんに宛てて内容証明郵便を送ります。『経済往来』昭和42年/1967年10月号には、松本さんへの公開質問状として「「清張工房」の内幕」を発表。きっと何か返答があるだろうと思って待っていたところ、10月14日、三田さんのもとになぜか講談社の取締役、久保田裕さんから速達が届きます。そこには、松本氏は三田さんの本は読んでいないそうです、剽窃なわけがありません、今後は私が松本氏の代理人となるので、連絡があるなら私までどうぞ……とありました。

 松本清張に手紙を送ったのに、松本さん本人ではなく、『深層海流』版元の文藝春秋でもない、講談社のお偉方から返答がきた。ん? なぜでしょう。それは当時、読売新聞社を辞めてフリーのライターとなっていた三田さんの、大きな仕事先のひとつが講談社の『ヤング・レディ』誌だったからだ、と三田さんは判断します。しょせんライターは下請け稼業。発注元の編集局長が相手をすれば強くも出られず、矛を収めるしかなくなるだろう、ということで、対応を人まかせにしやがったな、このやろう、何と傲慢な態度なんだ。三田さんはムッとして、みずから『ヤング・レディ』との絶縁を宣言。徹底抗戦の構えをとることを決意します。

 そこであらためて松本さんの仕事ぶりを取材してみたところが、どうも松本さんは自分で取材して文章を書いているわけではなく、データや素材集め、原稿作成などを「秘書」役にやらせているらしい。なかでも、松本さんの評価を高めた現代史のノンフィクション物と呼ばれる『昭和史発掘』などは、大部分が文藝春秋の嘱託記者だった大竹宗美さんの手によるもので、しかし大竹さんの下原稿が杜撰だったためか、いっとき『田中義一伝』や森長英三郎さんの論文を盗作したものだと関係者から抗議が上がったとのこと。そのときも松本さんは自分で対処に当たらず、抗議してきた人を説得できそうな他の人物に手をまわし、表沙汰にならないように火消しを図っていた。こんな人間が、社会の不正を暴く正義派の作家だとか言われてまかり通り、それに出版界全体が加担している。何と腐り切っているのだ! 三田さんは怒ります。

 向こうは押しも押されもしないベストセラー作家です。こっちは新聞記者あがりの一介の無名ジャーナリスト。だから何だ。上等じゃないか。こんな作家がデカい顔をしている腐敗した出版界に一石を投じてやる。と使命感にかられて三田さんは告訴に踏み切った、ということです。

 ちなみに松本さんのほうは、この程度のことは軽く逃げ切れると踏んだらしく、黙殺を決め込みます。かつて松本さんの口述筆記を引き受けていた速記者の福岡隆さんによると、

「『深層海流』は、後年、思わぬところから火の手が上がり、松本さんが北ベトナムに旅行中、盗作うんぬんで某氏から訴えられたが、松本さんはこれを無視した。相手の売名行為に乗ぜられるからである。」(昭和43年/1968年11月・大光社刊、福岡隆・著『人間・松本清張』「第十九話 評論家ぎらい」より)

 ということになっています。「後年」というのは『深層海流』の刊行からしばらく経ってからという意味で、福岡さんの上の文章は、三田さんが告訴してまもない、まさに松本さんが無視している最中に発表されたホヤホヤの文章なんですが、なるほど、高名な自分を訴えるのは売名行為にすぎない、と対外的に言っておくのは、著名作家にとってはなかなか賢い逃亡手段に違いありません。

          ○

 盗作と一口で言っても程度はさまざまです。作品全体をパクッたものから、一部の表現を資料のひとつとして拝借したものまで、それぞれの案件で実態はちがいます。多少のパクリなら犯罪性は薄い、いやいや出典元を明示せずに使用したら、ほんの少しでもそいつに作家の資格はない、などなど意見は多様にあるでしょう。そこに踏み込むつもりはありません。

 けっきょく三田さんが警視庁に提出した告訴状は東京地検特捜部に書類送検され、昭和43年/1968年7月、不起訴処分に決まります。三田さんはこれを不服として「不起訴処分の理由照会」を請求、東京検察審査会に審査申立を行いますが、申立はあっさりと却下。松本さんには何ら傷が及ぶことなく終結しました。

 それから20数年がたち、平成4年/1992年8月に松本さんが亡くなって、もはや完全に逃亡は成功したわけですけど、ずっと煮え切らない思いを抱えてきた三田さんは、『政財界ジャーナル』平成4年/1992年10月号に「「松本清張の犯罪」を告発する――読者大衆を欺く大出版社――」を発表。講談社の編集局長に処理を任せて自分は頬っかぶりを決め込んだ、ということ以外にも、どうやって三田さんの攻撃をもみ消そうとしたか、具体的な例を挙げて、松本さんや彼の現代史モノを評価する人たちを批判します。

 その大きなものは、三田さんの告訴が地検特捜部で不起訴に決まった裏に、松本さんの影が見え隠れしていた、と指摘した箇所です。

 いわく、地検次席検事だった河井信太郎さんと、『週刊文春』契約記者の大竹宗美さんは親しい関係にあり、また河井さんの第一の子分と目される特捜部の大熊昇検事が、三田さんの告訴を担当した、というつながりがありました。この線で、松本さん→大竹さん→河井さん→大熊さんと、もみ消しの意図が伝わっていったという、確実な証拠はもちろんありませんけど、のちに大熊検事が虎ノ門病院に入院したことを知った三田さんが、自分のところの記者に取材に行かせたエピソードが出てきます。

「私は、私の主宰する正論新聞の記者を、病院にやった。面会謝絶の札があったが、ドアを押すと開き、(引用者注:大熊検事が)ひとりでいた――「三田さんは、府立五中の先輩だ、ということを知ってました。……申しわけないことをした、と思ってます」と、語った。“申しわけない”の意味は不明だが、それから一週間ほどして、彼は逝った…。」(『政財界ジャーナル』平成4年/1992年10月号 三田和夫「「松本清張の犯罪」を告発する――読者大衆を欺く大出版社――」より)

 ここで松本さんのことを疑って見れば卑劣漢のように見える。だけど逆に三田さんを胡散くさい人と思えば、松本さんは何の作為もなく無視しただけ、とも見えます。三田さんもすでに亡き人となって、もはや真相はわからないままです。

 しかし、単行本の『深層海流』(昭和37年/1962年11月刊)に対して、三田さんが盗作だと指摘した箇所は、『松本清張全集31 深層海流・現代官僚論』(昭和48年/1973年9月刊)になるときにごっそり削られました。三田さんのことを無視して、何の連絡もとらずにそういうことをしてしまうところが、松本さん、何とも偉そうです。別に謝らなくてもいいから、秘書が下準備しているときの見落としにすぎず、作品の根幹には何の影響もない、とか何でもいいから三田さんに返答すればよかったと思うんですが、黙殺という逃げの姿勢が、三田さんに告訴するまでの行動をとらせた最大の要因だったでしょう。

 そういう意味では、人の文章をそれと明示せずに使ってしまう行為があったのは当然のこと、他人に対する配慮の情に欠けていたからトラブッたのだ、ということは否定できません。業界内でこういう人が下手に力をもつと、だいたい厄介ですが、こういう人が委員を務める直木賞という行事が、厄介な側面をもっているのは当然なのかもしれません。

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コメント

三田和夫氏は、いつ亡くなったのでしょうか。ウィキペディアの「正論新聞」の項目では著作権台帳を典拠に1991年2月11日没とされています。しかしそうすると松本清張より早く死んだことになります。

社会部の元記者なら、この手のパクリでいきなり刑事告訴しても起訴されにくいのは知っていたはず。なぜ民事で訴えなかったのか不思議です。

投稿: anon | 2019年4月 1日 (月) 16時05分

anonさん

コメントありがとうございます。

三田和夫さんの死亡時期ですが、
せと弘幸さんのブログとか
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/50556157.html
財界展望2002年5月号記事案内の「今月の一行情報」とか
https://www.zaiten.co.jp/mag/0205/
を見て、2002年に亡くなったものと思いました。

どうして民事で訴えなかったのか、ワタクシもよくわかりません
(正直ワタクシ自身、そのあたり詳しくありません)。
『20世紀』に寄稿した三田さんの文章には、
清張と戦うための作戦として「併行して、「謝罪広告と損害賠償請求」の民事訴訟も起す。」
とも書かれているんですが、ほんとうに実行したのかどうか、不明です。

投稿: P.L.B. | 2019年4月 1日 (月) 22時07分

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