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2019年3月17日 (日)

昭和22年/1947年・GHQ/SCAPの指令による公職追放の該当者になった菊池寛。

中央公職適否審査委員会では七日付官報号外で十一月十六日より同卅日までの審査結果を発表した、今回の審査対象は主として各省二級官吏で審査件数四、一三四件中非該当決定人員三、九四七名、該当決定人員一八五名、審査未了件数二となつており、追放該当者中には前国務大臣衆議院議員林平馬氏、元大映社長菊池寛、厚生省顧問吉岡彌生、元通信次官大和田悌二氏ら知名の士も含まれ梨本守正氏外十氏の元皇族も正規陸海軍将校として該当決定となつた、

――『読売新聞』昭和22年/1947年12月7日「林元国務相ら追放 元皇族十一氏も 百八十五名該当決定」より

 直木賞というと、どんなイメージがあるでしょうか。業界内の評判はさておいて、たとえば一般的には「売れる」とか「読みやすい」とか「スゴい業績」とか「もう落ち目」とか、いくつか挙げられると思いますが、その一角に確実に入ってくる強烈なイメージがあります。「エラそうだ」ないしは「イバっている」というものです。

 何をもってエラそうと感じるのか。それは直木賞というより、これをまわりから見ているワタクシたちの感覚の問題でもあります。時代や立場によって、物事を目の前にしたときに沸いてくる感情は、当然ちがうはずですから、直木賞のやっていることや仕組みが変わらなくても、世間一般の受け取り方が変わることはあり得る話です。これから小説家として歩いていく未来ある人たちに向けて、たかだか何十年か長くこの世界で生きているというだけの高齢者たちが、自身の書く小説の出来不出来をタナに上げて、好きか嫌いかの私的な理由で他人の作品をケナしたりする。その言っていること、ことごとくがエラそうだ。……と、『オール讀物』に載っている選評を読んで不快な気分になる人がいても、おかしくはありません。

 もちろん、そうやって嫌われないように、ある選考委員は口当たりのいい表現を並べ、ある選考委員は候補者や候補作に対してわざわざ謝ったりし、ある選考委員は自分がどれに投票したのかバレないように書いているわけですが、けっきょくのところ選考会ではみんな、作品に○△×をつけて票を入れています。口の悪い委員も、やさしそうな委員も、おしなべてやっていることはエラそうだ、ということになります。

 選考委員の座にすわるのは、キャリアのある既成の作家。選考の対象になるのは、それよりキャリアの浅い既成の作家、という文学賞は直木賞の他にもありますが、おおむねこの「エラそうな」構造から逃れられません。しかし直木賞(+もうひとつの兄弟賞)と、それ以外の文学賞には、現状埋めることのできない最大級のちがいがあります。メディアに取り上げられる頻度や量が圧倒的に多いことです。どこの新聞でもネットのニュースでも、賞の名前や存在がいつでも目につく。べつに大した賞でもないのに、やたら権威だ何だと持て囃されている。何だかエラそうだ。ということで、直木賞のエラそうなイメージは肥大化するいっぽうです。

 前置きが長くなりました。今週取り上げる菊池寛さんは34歳のとき、大正11年/1922年の暮れに『文藝春秋』を創刊してから、ずっと文藝春秋社の社主・社長の座にあり、昭和13年/1938年には直木賞や芥川賞などの授賞機関である日本文学振興会をつくって初代理事長に就任、昭和21年/1946年に文藝春秋社を解散させ、昭和23年/1948年に突然倒れて死亡。30代から50代まで、出版界もしくは文芸界のカリスマ的な扱いを受け、若くして「大御所」と呼ばれたりした人です。

 菊池さんが物書きとして輝いていたのは大正時代、昭和に入って以降はだれかに代作させたり、読み物雑誌に登場するぐらいなものでしたし、経営者としても自分で会社を畳み、出版界や映画界から身をひいてから、すぐにこの世を去っています。可能性から考えて、そのまま忘れ去られても不思議ではなかったはずですが、これがのちにまで、天才だった、才人だった、慧眼の持ち主だった、と賞讃されるようになったのは、明らかに『文藝春秋』を受け継いで文藝春秋新社を興した佐佐木茂索さんや池島信平さんなどに才覚があったおかげです。

 59年の人生だったとはいえ、ノッていた時期には自ら各種団体や組織をつくり、また人に頼まれて要職についたりしました。そうなれば当然、味方も増えれば敵も多くなる。毀誉褒貶に包まれるのは避けられません。訴えようとしたり、訴えられたり、事件性を帯びたいざこざに巻き込まれたことも多少見受けられますが、そのなかでも昭和22年/1947年10月に公職追放の対象リストに名前を挙げられ、審査の結果、11月にたしかに追放の該当者に入れられたという一件は、やはり無視して通り過ぎるわけにはいきません。

 公職追放は、純粋な犯罪事案とは言えないでしょうけど、法令によって処分される、という意味では犯罪に準ずるもの、と見なすこともできます。これが出版人としての菊池さんの総決算となったのですから、直木賞などの文学賞も無関係な話ではなくなってきます。

 順番を追ってみると、日本が降伏したのが昭和20年/1945年8月。ときに『文藝春秋』は休刊中でしたが、まもなく秋には復刊を果たし、直木賞・芥川賞もとりあえず1回だけ、昭和20年/1945年上半期の該当者なし、という発表をして継続しかけます。しかし翌年、昭和21年/1946年3月に菊池さんは、主に経営難を理由として文藝春秋社の解散を断行。文学賞の去就はこれで宙に浮いてしまったかっこうです。さらに次の昭和22年/1947年3月には、菊池さんはみずから大映の社長も辞任して、筆一本の作家の立場に戻ることに。「先の戦争を先導した責任をとった」なんて反省を対外的に口にすることはありませんでしたが、内心ではどんな考えが渦巻いていたのか、もはやわかりません。

 ちなみに寛さんの孫、菊池夏樹さんの『菊池寛と大映』(平成23年/2011年2月・白水社刊)を読んでみると、昭和21年/1946年正月にGHQから呼び出された菊池さんは、公職追放の指令を出され、その影響が文春の解散、大映の社長辞任へとつながる、という流れをとっています。しかし、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が日本政府に公職追放指令を出したのが昭和21年/1946年1月4日。この時期に、民間の一言論人が追放リストに入れられていた、と見るのは、どうにも早すぎるようです。

 だれかに命令されてしぶしぶ辞めたのか、先に自分の意思で辞めたのか、というのはけっこう重要なことだと思うんですが、菊池さんの場合は後者だった、ということになります。人からの指示に殊勝に従うようなタマじゃありません。

          ○

 昭和10年代、『文藝春秋』や同社の雑誌類が、軍国的な政策の意のままに誌面を使って国威発揚に励んだのは、まず否定できないところです。

 芥川賞のほうはともかく、直木賞のほうでは、なるべくガチガチの国粋的な小説に受賞させることを避けようとする、なけなしの抵抗は見えますが、それでも第13回(昭和16年/1941年・上半期)の木村荘十「雲南守備兵」あたりは、いま読むともうニッポン万歳な臭みに満ちあふれていますし、第16回(昭和17年/1942年・下半期)神崎武雄「寛容」や、第19回(昭和19年/1944年・上半期)岡田誠三「ニューギニア山岳戦」になってくると、戦時下でなければ発表され得ない素材で、この時世のなかで文学賞をやることに無理がある、としか言いようがありません。

 しかし、戦後に発表された菊池さんの文章を読んでも、自分の会社をそういうふうにしてしまった代表者として反省の念に苦しんでいる影がまったく見られません。たとえば、文藝春秋社最後の『文藝春秋』では、こういう言い訳が飛び出す始末です。

(引用者注:これまでの『文藝春秋』が)編輯技巧としての対談会、座談会の開始、芥川直木賞創設、傾向としては、常に文芸中心の自由主義に終始し、誌上に明朗新鮮な空気を湛へてゐたことは読者の知らるゝ通りである。殊に、昭和十二年正月号に於て、ハツキリ「右傾せず左傾せず中正なる自由主義」を採ることを声明してゐる。

     ○

然し、僕個人としては、この十数年来経営にも、編輯にも容喙したことはない。凡て人まかせであつた、さう云ふ点で無責任だと云はれても仕方がないが、実際はさうであつた。戦争中、軍部や官僚の指令に応じたがこちらから迎合したことはない。企業整備の時に、思ひもかけず、「文芸雑誌」に貶せられ、事後軍事政治を扱ふことを禁ぜられたことに依つて、軍部や官僚と情実因縁がなかつたことはハツキリしてゐると思ふ。」(『文藝春秋』昭和21年/1946年4・5月号 菊池寛「其心記」より ―『菊池寛全集 第二十三巻』所収)

 はっきり言ってエラそうです。いや、社長でトップだから実際に偉かったんでしょうけど、しかし自分は戦時中、経営にも編集にも口出ししなかった、とここで言ってしまうのは、ぶざまな責任逃れでもあり、やはりズルいです。

 公職追放が決定したときにも、菊池さんはどうして俺が、とかなり不服で、文藝春秋社は軍国主義に迎合しなかったと本気で信じていた様子が見られます。客観的には、マジかよ!? どういう神経しているんだ、とつい思ってしまうところなんですが、ここで最初の、直木賞がエラそうだ、という話に戻りますと、もとより作家が作家を審査する文学賞は、エラそうに見える性質をもっています。それを社の事業として成功させることができたのは、文藝春秋社の、いや菊池さんの、自分の考えを直截に押し出してなるべく弱みを見せようとしない、いわば他人からはエラそうに見える個性と、うまく噛み合ったからなのでしょう。

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