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2019年2月の4件の記事

2019年2月24日 (日)

昭和8年/1933年・税金を滞納していると税務署に暴露された直木三十五。

文士連のそうくつの觀ある藤澤、茅ヶ崎、鎌倉等湘南各地をなは張りとする藤澤税務署では文士連の税金滯納に惱まされ續けてゐたが我慢がし切れず大衆作家直木三十五こと植村宗一氏の滯納税金を取立てに同氏作『青春行状記』(中央公論社版)の著作權を差押へることに決し二十六日その旨直木氏竝に版元へ通告正式手續きをとつた(引用者中略)

同署の言によると――直木氏は昭和四年度所得税の一部と七年度のそれと合計九百八十圓を滯納、再三の督促にも應じないし殊に最近居所が一定しないので各方面を調査した結果、目下麹町區紀尾井町三に居住することをつきとめさてこそ著作權差押への處分に及んだもの

――『東京朝日新聞』昭和8年/1933年6月28日「直木三十五氏に税務署が又奥の手 「青春行状記」版権差押へ」より

 今日は2月24日です。いったい何の日でしょう。

 そう聞かれて、直木三十五の命日ですよね、などと即答してしまうと、たいてい気持ち悪がられるので、なるべく口にしないようにしていますが、今年はたまたま日曜日です。毎年、横浜市富岡の長昌寺で行われる「南国忌」の催しと命日がちょうど重なり、100名弱の参会者が直木さんを偲ぶ1日でもありました。こうなるとやはり、うちのブログでも直木さんの話をしないわけにはいきません。

 それで直木さんには、犯罪や事件にまつわるエピソードはそんなにないんですけど、友達と興した会社のカネを使い込み、迷惑をかけて喧嘩別れ、世が世なら訴えられてもおかしくないくらいに、人道に悖ると言われかねない個性の持ち主だったと伝えられています。その直木さんが、昭和9年/1934年2月24日に43歳で亡くなるまぎわの最後の最後で、危うく犯罪者……というか予期せず罪をかぶりそうになった事件があります。昭和8年/1933年6月に勃発した、直木三十五脱税疑惑事件です。

 直木さんといえば、貧乏だったころも人気作家になってからも、とにかくカネに関する話題には事欠きません。終始、浪費・濫費のレベルが度を超していたらしく、昭和2年/1927年10月に1万5000円~2万円程度のまとまった収入があったときには、ほぼ1か月で1万円以上を使ってしまい、もう4000円しか残っていない、みたいなことを書いています(『不同調』昭和3年/1928年1月号「金持になって不愉快な話」)。入ってくるほうもザル勘定、出ていくほうもザル勘定。一銭、一円のお金をちまちま数えて将来の設計を立てるような作家でなかったのは明らかです。

 自身が満35歳となる大正15年/1926年に、筆名を〈直木三十五〉に定めてまもなく、映画界から身をひいて原稿一本の生活に入ったのが翌昭和2年/1927年のことです。各雑誌・各新聞に連載や単発ものを大量に書き出し、当然収入もにわかに増えていったはずですが、なにしろズボラで、カネがあればすぐに使ってしまう人間ですから、一年分の収入から割り出された所得税を翌年に支払う、という納税制度にぶち当たって悶着を起こしてしまったのは、あるいは自然だったかもしれません。

 「税務署のやり方」(『文藝春秋』昭和8年/1933年8月号)で直木さんが語るところによれば、税務署が出してくる収入査定額というやつがとにかく納得できなかったらしいです。税務署いわく、昭和6年/1931年度の直木さんの収入総額は、およそ2万円弱。文筆業に関してはその4割を〈生産費〉として差し引く内規があるので、査定結果は1万1000円少しになり、これを繰り上げて収入査定額は1万2000円だ。と言われたものですから、直木さん、いやいやそれはおかしいぞと不服を申し立てて、行政訴訟に持ち込みます。

 税務署は少しでも多くの税金を確保するために、高額所得者に目をつけて、根掘り葉掘り収入状況を調査します。そして算定した納税額を払え払えと言い募る。いっぽう高額所得者のほうは、横暴で居丈高な役人たちの態度に気分を害して、たくさんお金を稼げば稼ぐほど、どうしてこんなに税金が高いのかと不満をぶちまける。……古今東西、めんめんと続いてきた伝統的な悶着のひとつかもしれません。直木さんも思いがけず作家として売れてしまったせいで、この伝統の洗礼を受けることになってしまいました。

 これだけ稼いだんだからきちんと払え、いや、そんなに稼いでないから払えん、といったやりとりは、税務署のほうから見ると〈税金の滞納〉と表現されるわけですが、直木さんだけでなく、たとえば広津和郎さんや、菊池寛さん、久米正雄さん、室伏高信さん、山内義雄さんなども同じように滞納が問題視されていたそうです。これが昭和8年/1933年、いよいよ新聞にも大きく取り上げられることになったのは、もちろん直木三十五といえば人気作家、という共通認識が報道する側や読者のあいだにあったからでしょう。

 人気作家、と言ってもいろいろあります。じっさい書く小説が読者から喝采を浴びた、ということの他に直木さんに人気のあった大きな要因があって、それは、腹の立つことやおかしいと思うことがあれば躊躇せず、紙面、誌面を使って自分の立場や考えをさらけ出しながら戦闘姿勢をとる、いわば血の気の多い作家だったことです。

 昭和8年/1933年は、直木さんも健康状態が思わしくなく、腰痛はひどくなる、激しく咳き込んだりするそんな折りでしたが、降りかかってきた税金の問題にも、まるで引くことなく、税務署の横暴や不勉強を訴え、著作権の差し押さえなどできるもんならやってみろ、と啖呵を切る有りさま。このころの直木さんは、軍部や統制国家に協力の意を示すいっぽうで、税に関しては国家権力を批判するという、小説以外のところで注目を浴びる存在だったわけです。

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2019年2月17日 (日)

昭和52年/1977年・改造ライフル銃が自宅から見つかり、現行犯逮捕された小嵐九八郎。

最高裁判所裏庭に先月三十日、火炎びん二十本が投げ込まれた事件を調べている警視庁公安部は二十九日、神奈川県川崎市内の内ゲバ三派の一つ「革労協(社青同解放派)」の幹部アパートを捜索したところ、実弾入りモデル小銃一丁を見つけた。

(引用者中略)

同裁判所火炎びん事件に関連して、火炎びん使用処罰法などの疑いで家宅捜索を受けたのは、川崎市川崎区(引用者中略)革労協総務委員、元早大生工藤永人(三三)。工藤のアパートを捜索していたところ、鉄パイプ六本とともにコタツのわきから、バスタオルでくるんだモデル小銃一丁が見つかった。このため公安部は、工藤を銃刀法違反の現行犯で逮捕した。

――『朝日新聞』昭和52年/1977年11月30日「革労協幹部宅から改造銃 手製銃身で殺傷力 川崎のアパート 実弾をセット」より

 昭和19年/1944年生まれの小嵐九八郎さんが、多感すぎる10代を通りすぎ、晴れて(?)20歳となったのは昭和39年/1964年のことでした。通っていたのは、学生運動の渦中にあった早稲田大学です。最初のころはサークルをいくつも渡り歩くノンポリ学生でしたが、大学二年生も終わりに差しかかった昭和41年/1966年、いかなるきっかけがあったものか、学費値上げや学生会館の管理運営権をめぐる闘争に参加したところから、過激派と呼ばれる革命的労働者協会(社青同解放派)の一員に。そこから1980年代なかばの40歳すぎまで、愛する妻と子供たちに負担を強いながら、いわゆる〈活動家〉として、あるいは〈職業革命家〉としての生活を送ります。

 小嵐さんには『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』(平成15年/2003年4月・講談社刊)という一冊があります。1960年代から70年代・80年代ごろに新左翼の世界に生きた人たちのなかから、志なかばで斃れた人、自ら死を選んだ人などのことを、小嵐さんの20年近くに及ぶその実体験を通して描いたものですが、「さまざまな過去のまつわりついて離れないことが今の私と新左翼にはあって、伸び伸び、自由、奔放に書けないわけがあり、」(「あとがき 死して、死せざる日日に」)とも書いてあって、とくに小嵐さん自身が何を考え、どうやって生きていたのか、系統立って明かされているわけではありません。

 そのなかでも「ぶきっちょな解放派のごり」と題された第十七章・第十八章は、社青同解放派の中原一(本名・笠原正義)さんが中心になった章で、「正直中の正直をいうと、この章を書きたくて、わたしゃ、物書きになった。」と、本音なのか照れ隠しなのかわからないようなことをポロッと吐露しているだけあって、やはり小嵐さんにとっては影響されるところの大きかった人らしく、他の章にも増して気合と情熱のこもった内容になっています。

 ということで、小嵐さんがある時期、身を捧げた革命的労働者協会=革労協とは何なのか。そこに触れないわけにはいきません。

 ところがこれがまた、どういう歴史的経緯で発生して、どこにつながって、何がどう争ったのか、専門の研究家や専門書は山ほどあり、とうてい追いきれません。それを言ったら直木賞というものをとりまく小説の世界だって、何だかわかったような顔をして解説する人は後を絶ちませんが、けっきょく直木賞がどんな賞でどういう小説を選ぼうとしてきたのか、支流や沼地がたくさんあり、全体としては正直よくわからないので、追いきれない、ということだけを確認して、強引にまとめてみます。

 昭和35年/1960年、いまはなき日本社会党が青年組織としてつくった日本社会主義青年同盟=社青同というものがあります。人が集団としてまとまれば、意見の合うやつ合わないやつ、派閥めいたものができるのが世の習いです。具体的に何が直接の火種になったのか、もはや数々の争点がありすぎてよくわかりませんが、はじめに主導権を握っていた構造改革派が、協会派や解放派などのセクトから強烈な攻撃を受けて影響力をなくすと、今度は協会派と解放派がずいぶんとやり合うことになります。

 組織のなかでは協会派のほうが上手に立ちまわったそうですが、過激な行動力を秘めた解放派のほうは昭和40年/1965年に「解放派結成宣言」を出して元気に社会を攪乱、学生運動などにも積極的に手を伸ばすなど、なかなか勢力を拡大していきます。さすがにこいつらヤバいな、と社会党や社青同の中央機構側では眉をひそめるなか、解放派は昭和44年/1969年に革命的労働者協会を名乗り出し、成田闘争や狭山闘争にあっては、トイレに爆弾をしかけるは、ダンプカーを炎上させるは、高裁判事を襲うはと暴れまくり、中核、革マルの過激派二派と並び称される、マジでヤバい団体へと育っていった、ということです。

 その社青同解放派から、革労協と名乗りはじめる頃には、すでに小嵐さんはずっぷりと革命を目指す立派な戦士になっていて、昭和42年/1967年からは、ことあるごとに逮捕、逮捕、逮捕の連続。一つひとつの罪状や逮捕理由は調べ切れていませんが、昭和44年/1969年10月「国際反戦デー」に参加して、公務執行妨害、凶器準備集合罪の疑いでお縄にかかったことは判明しています。

 これと『蜂起には至らず』の記述とつなげてみると、その直後の11月に大菩薩峠で起きた赤軍派の検挙や、翌昭和45年/1970年11月の三島由紀夫さん自刃の時期には、未決囚として中野刑務所に拘置されていたそうです。昭和47年/1972年2月、連合赤軍浅間山荘事件のときには保釈中、その様子をテレビを観てはがんばれがんばれと、連合赤軍のほうに声援を送っていた、との回想もあります。

 けっきょくは最終的に、往年の左翼小僧、菊岡久利さんのようなかたちで出たり入ったりを繰り返し、逮捕歴は10回か11回かそのくらいを数えたと言うのですが、報道によればその8回目の逮捕に当たるのが、冒頭に引用した一件になります。被差別部落出身の男性が、女子高生に対する強盗強姦ほかの罪に問われて起訴された狭山事件。昭和52年/1977年、被告側の上告が棄却され、二審でくだされた無期懲役が確定しましたが、そのことを不当と訴える革労協は、10月30日、高速道路から最高裁の裏庭に火炎びん20本を投擲します。その捜査に当たった警視庁公安部が、11月29日、川崎市に住む革労協幹部の小嵐さんの家を捜索したところ、改造したライフル銃を所持していたことが見つかり、銃刀法違反の罪で現行犯逮捕されたものです。各紙を通じて、小嵐さんのことが顔写真付きで大きく取り上げられ、明るく前向きだったとばかりは言えない時代の、物騒な雰囲気を紙面に残しています。

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2019年2月10日 (日)

昭和61年/1986年・結婚を断られた女性に嫌がらせの電話をかけつづけて有罪になった川本旗子=一條諦輔。

付き合っていた兵庫県内の有名私立大助教授の女性に結婚を断られ、交際も断たれた腹いせに百回以上も電話で嫌がらせを続けていた元直木賞候補作家の一條諦輔(四一)(引用者中略)が十八日、神戸地裁から脅迫罪で起訴された。一條は直木賞の候補にのぼった前後、文芸春秋、講談社などから単行本を数冊出しているが、最近はこれといった作品もなく人気も下降線だった。

(引用者中略)

一條は先月二十九日、同地検に逮捕され、拘留中。今回の事件とは別に、別れ話のこじれから五十九年にA子さんの父親をなぐり、傷害罪に問われ、同年十一月、東京地裁で懲役一年六月(執行猶予四年)の判決を受けている。

――『毎日新聞』昭和61年/1986年8月19日「直木賞候補作家が脅迫 フラれて腹いせ電話100回」より

 直木賞の場合、受賞してから消える作家はほとんどいません。しかし、候補に挙がった程度のことでは、何かの切符を手にしたわけでもなく、その後消えてしまう人はけっこういます。なかには、消える原因の大きな一端が犯罪事件だった、という人までいます。

 その代表格に挙げられるのが、第87回(昭和57年/1982年上半期)で候補になった川本旗子さんです。

 名前は女性のように見えますが、これは当時『オール讀物』にスチュワーデス物の連作が書かれたときに使われた名前で、本人はれっきとした男性です。元の本名は庄子亜郎(つぐお)さん、一般には〈一條諦輔〉という名で知られています。いや、知られていました。

 写真でみるかぎり麻原彰晃を彷彿させるひげを生やしたポッチャリ型、というような見た目は措いておくとしても、自身の語る履歴や挙動、振る舞いが、もう胡散くさいを地で行くようなイカガワしさに満ちあふれています。渋谷の一角に事務所を構え、二、三人の女性秘書を雇い、事務所には自慢のギターコレクションのほかに、彫刻、宝石などが飾られていたそうで、世界各国ほとんどを旅したと豪語、25歳のときから7年間、ロンドンに住んでいたころは、数多くの芸術家と交流があったのだとか何だとか。作詞作曲をこなし、〈Mr.George〉というブランドをもつファッションデザイナーとしての顔を持ちながら、小説を書く、80年代の言葉でいうところの「マルチな人」という感じでいくつかの記事に取り上げられましたが、この取り上げられ方が、はっきりいって胡散くさいです。80年代という時代が一面で持っていた胡散くささ、と言ってもいいです。

 それはともかく、一條さんが音楽の世界から出てきたことは間違いありません。仙台一高に通っていたころにギターにハマり、卒業後に上京してギタリストとして歩み始めますが、やがてギターづくりの修行のために渡欧。結局、ギターを中心とした輸入業者となって帰国しますが、とにかく自分を大きく見せて吹きに吹きまくっているうちに事態が好転したらしく、ブティックを始め、音楽プロデュースの道を渡り歩き、そこでたくさんの曲をつくるうちに、今度は小説にも手を伸ばして、『面白半分』に投稿した「ロンドン・ロンド」が〈一條諦輔〉の名で掲載されたのが昭和54年/1979年のこと。さらにこの年には『野性時代』に「ダーティー・ジョーク」が掲載されると、勢いに乗って〈森道郎〉の名で中央公論新人賞に投じた「耳」が翌年昭和55年/1980年度の最終候補にまで残り、徐々にそちらのほうでの活動を増やしていきます。

 『小説現代』に小説を書き、それらをまとめた『シンプル・ペイン』(講談社刊)が昭和56年/1981年9月に刊行され、いよいよ一條さん単行本デビューを果たしたのが36歳のときです。イケイケというか、乗りに乗った一條さんはそこからも攻勢ゆるめず、文芸誌界に進出していくのですが、好事魔多し、じつはこのとき、やがて訪れる犯罪の種が撒かれていた、ということになります。この本の出版記念会を開いたときに、秘書の知人ということで出席していた、当時東京の大学で助教授をしていた女性と知り合い、深い仲になり、関係をもったことが、事件への扉を開けてしまいました。

 その後、一條さんは、川本旗子というスチュワーデスを語り手にした「翔んで翔んで」(フライト・オン・フライト)を『オール讀物』に発表、セックスにあけすけな若い女性の生態を、イマドキな語り口で書いたところに編集部が食いついたものか、直木賞の候補にまで選ばれます。同誌では、一條名義で「この世の外なら何処へでも」というやはりセックスを題材にとりいれた小説を書いたりして、一応新進作家として注目を浴びるにいたりますが、どうも調子に乗りすぎたのか、傲慢な性格が表に出たものか、編集者の評判はかなり悪かった、と伝えられています。

「「一條は人間としてホントに下司(ルビ:げす)な奴ですよ。自分の思い通りにならないと、すぐに暴れたりする。つまり、幼児性と狂暴性があるんですよ。編集者はずいぶんイヤな目に遭っています。例えば、今回、あなたの作品は見送らせて頂きますなどと言うと、夜中から明け方までずっと、“ぶっ殺すぞ”“テメエのガキの顔に硫酸ぶっかけるぞ”などと脅迫電話をかけて来たりする。ヤクザ同様の手口で、実際、パンチパーマのそれ風の男を連れて編集者の家に押しかけたこともあるんですよ」(某編集者)」(『週刊新潮』昭和61年/1986年9月4日号「「直木賞候補」にバラ撒かれた女の助教授「大醜体」」より)

 売れている作家ならともかく、まだ駆け出しの、一回変名で直木賞の候補になったぐらいの作家に、そんな態度をとられたら、編集者だって付き合いきれなくなるのはよくわかります。一條さん、やりすぎです。

 そして直木賞の候補となってからわずか2年後、『この世の外なら何処へでも』が文藝春秋から発売された昭和59年/1984年、ついに一條さんが私生活でやらかしてしまいます。

 先に触れた、出版記念会で知り合った大学教師の女性との関係がうまくいかず、昭和59年/1984年4月、一條さんは無理やり彼女のマンションのベランダから部屋に侵入、たまたま上京していた彼女の父親と争ったすえに殴りつける、という暴行事件を起こします。また、このとき一條さんは、あいだに子供を二人もうけた妻がいて、こちらからも別れ話を切り出されていました。どうやら話がこじれたのか、妻の関係者にも暴力をふるった。ということで、二つの事件によって、同年11月、懲役1年6月(執行猶予4年)という有罪判決がくだされます。妻だった女性とは、その月に離婚したそうです。

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2019年2月 3日 (日)

平成15年/2003年・大麻取締法違反で有罪判決を受けた中島らも。

大麻を所持したとして大麻取締法違反の罪に問われた作家の中島らも=本名・中島裕之(ゆうし)=被告(51)に対し、大阪地裁は26日、懲役10月、執行猶予3年(求刑・懲役10月)の有罪判決を言い渡した。

(引用者中略)

判決言い渡し後、西田裁判官は「再び執筆活動に期待している読者の存在を忘れないように」と諭した。中島被告は兵庫県出身。92年に小説「今夜、すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞を受賞。直木賞候補にも3回なった。

――『毎日新聞』平成15年/2003年5月26日夕刊「大麻所持で作家・中島らも被告に猶予判決 「読者の存在、忘れぬよう」」より

 直木賞の長い歴史を通じても、中島らもさんという候補者はその作品の味わい、発言、行動などの面白さがあまりに際立っていて、直木賞ゴシップしか書かないうちのようなブログにとっても、まず無視できない存在です。これまで何度も触れてきて、いまさら追加する直木賞の話題はないんですが、違法と適法のあいだを自由に泳ぐ中島さんが、とりあえず何度か直木賞とからんでくれた現実に喜び震えながら、懲りずに犯罪事件のことを取り上げます。

 といいながら、犯罪よりも先に文学賞の話から始めますと、世のなかには、直木賞よりも数倍、いや数十倍スゴい、と一部で言われている吉川英治文学新人賞という文学賞があります。平成4年/1992年、『今夜、すべてのバーで』でこの賞を受賞しているのですから、中島さんのスゴさもよくわかりますが、アル中の男の放埓というか真摯というか、性懲りもない可愛げのある姿をあますところなく描いたこの作品に、文学の賞を贈ってしまおうと判断した吉川新人賞はやっぱり、直木賞などとは比較にならないくらいに偉大です。

 直木賞のほうは、第106回(平成3年/1991年・下半期)から第112回(平成6年/1994年・下半期)までの3年間で、3度中島さんを候補に残しましたが、結局賞を贈ることはありませんでした。しかし、それでもこの日本は「本屋には直木賞をとった人の小説しか並ばない」などという不自由な社会ではなかったので、ひきつづきパンクで優しい中島作品が次から次へと誕生し、またたく間に小説家としても一家を成します。

 仮にあそこで直木賞をとっていたとしても、文壇の中心になったりはせず、中島さんのスタンスはさほど変わらなかっただろう――という夢枕獏さんの言葉を、以前も引用したような記憶があります。たしかに中島さんが変わるイメージは沸きませんし、大麻を所持して逮捕される未来も、そのままだった可能性はあります。ただ、直木賞によって変わるのは、それを取り巻く読者を含めた一般の人たちのほうだ、というのは過去にいくらでも例があり、この場合、本人のスタンスはあまり関係ないかもしれません。直木賞の受賞者が大麻で捕まったとなれば、それはそれは、騒ぎも確実に各方面に飛び火したでしょう、そういう場面を見ることができなかったのは残念です。

 ともかくも、社会ルールをきまじめに守る品行方正な作家像とは、まったく相容れることなく、そこから人間のおかしみと哀しみをあぶり出す中島さんの作品は、それだけでこの世界に存在する価値のあるものばかりですが、麻薬と呼ばれるもののなかでも、大麻は人間に害などない、禁止するのではなく逆にもっと保護すべきだ、と考える人は日本にも少なからずいて、そういう人から大麻を入手した中島さんは、精神的に追い詰められたり、つらくなったときなどに吸引していたそうです。睡眠薬中毒から、ブロン中毒、アルコール中毒、そして躁鬱病の持ち主と、こういうなかで生きていることも、中島さんのひとつの個性でした。

 それが当局にタレコまれたか、厚生労働省近畿厚生局の麻薬取締部に知られるところとなり、平成15年/2003年2月4日、いきなり家宅捜索の襲撃を受け、自宅にあった乾燥大麻や〈マジックマッシュルーム〉を押収され、現行犯逮捕されます。話によれば、21歳のころには自身で大麻を大量に栽培し、周囲に分け与えたりしていたそうですが、押収された大麻類を使用しはじめたのは逮捕される前年の平成14年/2002年10月ごろから。日本以外の、大麻が合法化されている国で吸引したその経験が忘れられず、また創作に行き詰まった心の苦しみを埋めるために手を出したのだ、と罪状の多くを認めています。

 法律は法律、たしかにそこは守らなければならない。だけど、そんなにいきり立って大麻を取り締まるのが、ほんとうの正義なのだろうか。……と、思わせてしまうところが中島さんの底知れなさです。

 勾留中から躁の症状を見せては、留置所のなかで苦笑、微笑、混乱を巻き起こし、保釈されてマスコミに取り囲まれたときにも、「驚くほどのハイテンション」(『日刊スポーツ』平成15年/2003年2月26日)と言われるほど手がつけられず、記者陣をけむに巻く一大会見をやってのけます

 熟慮や熟考などくそくらえ。とばかりに、『牢屋でやせるダイエット』(平成15年/2003年8月・青春出版社刊)というタイトルの書き下ろしを、ものの数か月で仕上げてしまうスピーディーな筆の乗りにも、ハイテンションの一端は現われていると思いますが、「前科がついた」事件からのアゲの展開は、とどまるところを知りません。

 あまりに躁がひどくなって保釈後まもなく大阪市立総合医療センターに入院、初公判の4月14日、大阪地裁に病院から出向くことになった中島さんは、投薬の影響で最初は口が重かったそうですが、しかし徐々にしゃべりたがりの性格が顔をのぞかせ、大麻解放論を語り出し、弁護人から注意されたりした、とも言います。とうてい懲りていたとは思えない振る舞いですが、5月26日にくだされた判決では、これからの執筆に再起をかける意欲が強く反省の情もある、と認められて、懲役10月に執行猶予3年がつきました。

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