昭和61年/1986年・結婚を断られた女性に嫌がらせの電話をかけつづけて有罪になった川本旗子=一條諦輔。
付き合っていた兵庫県内の有名私立大助教授の女性に結婚を断られ、交際も断たれた腹いせに百回以上も電話で嫌がらせを続けていた元直木賞候補作家の一條諦輔(四一)(引用者中略)が十八日、神戸地裁から脅迫罪で起訴された。一條は直木賞の候補にのぼった前後、文芸春秋、講談社などから単行本を数冊出しているが、最近はこれといった作品もなく人気も下降線だった。
(引用者中略)
一條は先月二十九日、同地検に逮捕され、拘留中。今回の事件とは別に、別れ話のこじれから五十九年にA子さんの父親をなぐり、傷害罪に問われ、同年十一月、東京地裁で懲役一年六月(執行猶予四年)の判決を受けている。
――『毎日新聞』昭和61年/1986年8月19日「直木賞候補作家が脅迫 フラれて腹いせ電話100回」より
直木賞の場合、受賞してから消える作家はほとんどいません。しかし、候補に挙がった程度のことでは、何かの切符を手にしたわけでもなく、その後消えてしまう人はけっこういます。なかには、消える原因の大きな一端が犯罪事件だった、という人までいます。
その代表格に挙げられるのが、第87回(昭和57年/1982年上半期)で候補になった川本旗子さんです。
名前は女性のように見えますが、これは当時『オール讀物』にスチュワーデス物の連作が書かれたときに使われた名前で、本人はれっきとした男性です。元の本名は庄子亜郎(つぐお)さん、一般には〈一條諦輔〉という名で知られています。いや、知られていました。
写真でみるかぎり麻原彰晃を彷彿させるひげを生やしたポッチャリ型、というような見た目は措いておくとしても、自身の語る履歴や挙動、振る舞いが、もう胡散くさいを地で行くようなイカガワしさに満ちあふれています。渋谷の一角に事務所を構え、二、三人の女性秘書を雇い、事務所には自慢のギターコレクションのほかに、彫刻、宝石などが飾られていたそうで、世界各国ほとんどを旅したと豪語、25歳のときから7年間、ロンドンに住んでいたころは、数多くの芸術家と交流があったのだとか何だとか。作詞作曲をこなし、〈Mr.George〉というブランドをもつファッションデザイナーとしての顔を持ちながら、小説を書く、80年代の言葉でいうところの「マルチな人」という感じでいくつかの記事に取り上げられましたが、この取り上げられ方が、はっきりいって胡散くさいです。80年代という時代が一面で持っていた胡散くささ、と言ってもいいです。
それはともかく、一條さんが音楽の世界から出てきたことは間違いありません。仙台一高に通っていたころにギターにハマり、卒業後に上京してギタリストとして歩み始めますが、やがてギターづくりの修行のために渡欧。結局、ギターを中心とした輸入業者となって帰国しますが、とにかく自分を大きく見せて吹きに吹きまくっているうちに事態が好転したらしく、ブティックを始め、音楽プロデュースの道を渡り歩き、そこでたくさんの曲をつくるうちに、今度は小説にも手を伸ばして、『面白半分』に投稿した「ロンドン・ロンド」が〈一條諦輔〉の名で掲載されたのが昭和54年/1979年のこと。さらにこの年には『野性時代』に「ダーティー・ジョーク」が掲載されると、勢いに乗って〈森道郎〉の名で中央公論新人賞に投じた「耳」が翌年昭和55年/1980年度の最終候補にまで残り、徐々にそちらのほうでの活動を増やしていきます。
『小説現代』に小説を書き、それらをまとめた『シンプル・ペイン』(講談社刊)が昭和56年/1981年9月に刊行され、いよいよ一條さん単行本デビューを果たしたのが36歳のときです。イケイケというか、乗りに乗った一條さんはそこからも攻勢ゆるめず、文芸誌界に進出していくのですが、好事魔多し、じつはこのとき、やがて訪れる犯罪の種が撒かれていた、ということになります。この本の出版記念会を開いたときに、秘書の知人ということで出席していた、当時東京の大学で助教授をしていた女性と知り合い、深い仲になり、関係をもったことが、事件への扉を開けてしまいました。
その後、一條さんは、川本旗子というスチュワーデスを語り手にした「翔んで翔んで」(フライト・オン・フライト)を『オール讀物』に発表、セックスにあけすけな若い女性の生態を、イマドキな語り口で書いたところに編集部が食いついたものか、直木賞の候補にまで選ばれます。同誌では、一條名義で「この世の外なら何処へでも」というやはりセックスを題材にとりいれた小説を書いたりして、一応新進作家として注目を浴びるにいたりますが、どうも調子に乗りすぎたのか、傲慢な性格が表に出たものか、編集者の評判はかなり悪かった、と伝えられています。
「「一條は人間としてホントに下司(ルビ:げす)な奴ですよ。自分の思い通りにならないと、すぐに暴れたりする。つまり、幼児性と狂暴性があるんですよ。編集者はずいぶんイヤな目に遭っています。例えば、今回、あなたの作品は見送らせて頂きますなどと言うと、夜中から明け方までずっと、“ぶっ殺すぞ”“テメエのガキの顔に硫酸ぶっかけるぞ”などと脅迫電話をかけて来たりする。ヤクザ同様の手口で、実際、パンチパーマのそれ風の男を連れて編集者の家に押しかけたこともあるんですよ」(某編集者)」(『週刊新潮』昭和61年/1986年9月4日号「「直木賞候補」にバラ撒かれた女の助教授「大醜体」」より)
売れている作家ならともかく、まだ駆け出しの、一回変名で直木賞の候補になったぐらいの作家に、そんな態度をとられたら、編集者だって付き合いきれなくなるのはよくわかります。一條さん、やりすぎです。
そして直木賞の候補となってからわずか2年後、『この世の外なら何処へでも』が文藝春秋から発売された昭和59年/1984年、ついに一條さんが私生活でやらかしてしまいます。
先に触れた、出版記念会で知り合った大学教師の女性との関係がうまくいかず、昭和59年/1984年4月、一條さんは無理やり彼女のマンションのベランダから部屋に侵入、たまたま上京していた彼女の父親と争ったすえに殴りつける、という暴行事件を起こします。また、このとき一條さんは、あいだに子供を二人もうけた妻がいて、こちらからも別れ話を切り出されていました。どうやら話がこじれたのか、妻の関係者にも暴力をふるった。ということで、二つの事件によって、同年11月、懲役1年6月(執行猶予4年)という有罪判決がくだされます。妻だった女性とは、その月に離婚したそうです。
○
この昭和59年/1984年の傷害事件がきっかけで、文芸編集者は一條さんに近寄らなくなったのだ、という記事も見受けられます。ただ、その後の昭和60年/1985年以降も『小説宝石』などには執筆の履歴もあり、作家としての再起の道は残っていたはずです。
ところが困ったことに、一條さんは別れたがっていたという大学教師の女性に、執拗に復縁を持ちかけ、その場面でも相変らず脅迫めいた言葉を使いつづけます。脅迫のネタのひとつが、交際していた時代にベッドの上で撮った女性のどぎついポルノ写真です。このあたりが、のちに週刊誌が喜んで食いつく一つの要素にもなったんですが、こういう展開を見るかぎり一條さんをゲス呼ばわりする人がいるのもうなずけます。
一條さんは勝手に彼女との結婚式の案内状をつくって、まわりに配り、昭和60年/1985年2月の当日、彼女が結婚式場に現われなかったことに怒り狂った、という話もあります。もちろん一條さん側に言わせれば、事情は全然違っていて、了承していたはずの女性が、何の連絡もなくドタキャンしたのだ、何とひどい女だ、ということになります。
そこから一條さんの攻撃性に火がついて、2月からえんえんと彼女や、彼女の父親に対し、ヤクザまがいに責めたてる電話をかけたそうです。じじい殺すぞ、おまえのことボロボロにしてやる、などなど。心身ともに参ってしまった女性は、5月7日(4月だったという報道もあり)、ついに神戸地裁に訴状を提出。7月29日、一條さんは神戸地検に逮捕され、8月18日、神戸地裁から脅迫罪で起訴されることになり、ついにマスコミで「直木賞候補作家の罪状」としていろいろと取り上げられることになったわけです。
ここで見出しが一様に「直木賞候補作家」だったのは、もちろん一條諦輔という作家の名前に知名度がなかったからです。いや、もちろんというか、一條さんの作家歴のなかで、ニュース性がありそうなのが直木賞との関連だけしかなかった、と言うのが正しいでしょう。基本的には作家はそういう目をひく履歴のない場合がほとんどですから、自尊心の肥大化した人にとっては、直木賞のおかげで記事にしてもらえた、ということだけで少し心が満たされたかもしれません。
一條さんがどう受け止めたのかはわかりませんが、2年前の傷害罪の一件もあります。これで完全に、商業出版の世界でチヤホヤされる芽はなくなりました。
さすがに今度は執行猶予は付かないのではないか、とも言われましたが、昭和62年/1987年10月2日、神戸地裁の東尾竜一裁判官は、懲役1年ただし保護観察付き執行猶予5年の判決を言い渡します。
どんなにゲスな人であっても、才能の使いかたによっては人気の出る小説を書ける可能性があります。一條さんが更生して、再び筆をとり、何年越しかで名前を変えて直木賞の候補としてカムバックした……というような話でもあれば、川本旗子の「翔んで翔んで」をあの段階で候補に選んだ直木賞予選の判断も救われたに違いありません。しかし残念ですが、そのような展開は訪れず、「直木賞候補作家」という言葉と犯罪事件との融合がジャーナリズムをにぎわした一瞬の火花として、歴史に刻まれるだけに終わっています。
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