昭和52年/1977年・改造ライフル銃が自宅から見つかり、現行犯逮捕された小嵐九八郎。
最高裁判所裏庭に先月三十日、火炎びん二十本が投げ込まれた事件を調べている警視庁公安部は二十九日、神奈川県川崎市内の内ゲバ三派の一つ「革労協(社青同解放派)」の幹部アパートを捜索したところ、実弾入りモデル小銃一丁を見つけた。
(引用者中略)
同裁判所火炎びん事件に関連して、火炎びん使用処罰法などの疑いで家宅捜索を受けたのは、川崎市川崎区(引用者中略)革労協総務委員、元早大生工藤永人(三三)。工藤のアパートを捜索していたところ、鉄パイプ六本とともにコタツのわきから、バスタオルでくるんだモデル小銃一丁が見つかった。このため公安部は、工藤を銃刀法違反の現行犯で逮捕した。
――『朝日新聞』昭和52年/1977年11月30日「革労協幹部宅から改造銃 手製銃身で殺傷力 川崎のアパート 実弾をセット」より
昭和19年/1944年生まれの小嵐九八郎さんが、多感すぎる10代を通りすぎ、晴れて(?)20歳となったのは昭和39年/1964年のことでした。通っていたのは、学生運動の渦中にあった早稲田大学です。最初のころはサークルをいくつも渡り歩くノンポリ学生でしたが、大学二年生も終わりに差しかかった昭和41年/1966年、いかなるきっかけがあったものか、学費値上げや学生会館の管理運営権をめぐる闘争に参加したところから、過激派と呼ばれる革命的労働者協会(社青同解放派)の一員に。そこから1980年代なかばの40歳すぎまで、愛する妻と子供たちに負担を強いながら、いわゆる〈活動家〉として、あるいは〈職業革命家〉としての生活を送ります。
小嵐さんには『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』(平成15年/2003年4月・講談社刊)という一冊があります。1960年代から70年代・80年代ごろに新左翼の世界に生きた人たちのなかから、志なかばで斃れた人、自ら死を選んだ人などのことを、小嵐さんの20年近くに及ぶその実体験を通して描いたものですが、「さまざまな過去のまつわりついて離れないことが今の私と新左翼にはあって、伸び伸び、自由、奔放に書けないわけがあり、」(「あとがき 死して、死せざる日日に」)とも書いてあって、とくに小嵐さん自身が何を考え、どうやって生きていたのか、系統立って明かされているわけではありません。
そのなかでも「ぶきっちょな解放派のごり」と題された第十七章・第十八章は、社青同解放派の中原一(本名・笠原正義)さんが中心になった章で、「正直中の正直をいうと、この章を書きたくて、わたしゃ、物書きになった。」と、本音なのか照れ隠しなのかわからないようなことをポロッと吐露しているだけあって、やはり小嵐さんにとっては影響されるところの大きかった人らしく、他の章にも増して気合と情熱のこもった内容になっています。
ということで、小嵐さんがある時期、身を捧げた革命的労働者協会=革労協とは何なのか。そこに触れないわけにはいきません。
ところがこれがまた、どういう歴史的経緯で発生して、どこにつながって、何がどう争ったのか、専門の研究家や専門書は山ほどあり、とうてい追いきれません。それを言ったら直木賞というものをとりまく小説の世界だって、何だかわかったような顔をして解説する人は後を絶ちませんが、けっきょく直木賞がどんな賞でどういう小説を選ぼうとしてきたのか、支流や沼地がたくさんあり、全体としては正直よくわからないので、追いきれない、ということだけを確認して、強引にまとめてみます。
昭和35年/1960年、いまはなき日本社会党が青年組織としてつくった日本社会主義青年同盟=社青同というものがあります。人が集団としてまとまれば、意見の合うやつ合わないやつ、派閥めいたものができるのが世の習いです。具体的に何が直接の火種になったのか、もはや数々の争点がありすぎてよくわかりませんが、はじめに主導権を握っていた構造改革派が、協会派や解放派などのセクトから強烈な攻撃を受けて影響力をなくすと、今度は協会派と解放派がずいぶんとやり合うことになります。
組織のなかでは協会派のほうが上手に立ちまわったそうですが、過激な行動力を秘めた解放派のほうは昭和40年/1965年に「解放派結成宣言」を出して元気に社会を攪乱、学生運動などにも積極的に手を伸ばすなど、なかなか勢力を拡大していきます。さすがにこいつらヤバいな、と社会党や社青同の中央機構側では眉をひそめるなか、解放派は昭和44年/1969年に革命的労働者協会を名乗り出し、成田闘争や狭山闘争にあっては、トイレに爆弾をしかけるは、ダンプカーを炎上させるは、高裁判事を襲うはと暴れまくり、中核、革マルの過激派二派と並び称される、マジでヤバい団体へと育っていった、ということです。
その社青同解放派から、革労協と名乗りはじめる頃には、すでに小嵐さんはずっぷりと革命を目指す立派な戦士になっていて、昭和42年/1967年からは、ことあるごとに逮捕、逮捕、逮捕の連続。一つひとつの罪状や逮捕理由は調べ切れていませんが、昭和44年/1969年10月「国際反戦デー」に参加して、公務執行妨害、凶器準備集合罪の疑いでお縄にかかったことは判明しています。
これと『蜂起には至らず』の記述とつなげてみると、その直後の11月に大菩薩峠で起きた赤軍派の検挙や、翌昭和45年/1970年11月の三島由紀夫さん自刃の時期には、未決囚として中野刑務所に拘置されていたそうです。昭和47年/1972年2月、連合赤軍浅間山荘事件のときには保釈中、その様子をテレビを観てはがんばれがんばれと、連合赤軍のほうに声援を送っていた、との回想もあります。
けっきょくは最終的に、往年の左翼小僧、菊岡久利さんのようなかたちで出たり入ったりを繰り返し、逮捕歴は10回か11回かそのくらいを数えたと言うのですが、報道によればその8回目の逮捕に当たるのが、冒頭に引用した一件になります。被差別部落出身の男性が、女子高生に対する強盗強姦ほかの罪に問われて起訴された狭山事件。昭和52年/1977年、被告側の上告が棄却され、二審でくだされた無期懲役が確定しましたが、そのことを不当と訴える革労協は、10月30日、高速道路から最高裁の裏庭に火炎びん20本を投擲します。その捜査に当たった警視庁公安部が、11月29日、川崎市に住む革労協幹部の小嵐さんの家を捜索したところ、改造したライフル銃を所持していたことが見つかり、銃刀法違反の罪で現行犯逮捕されたものです。各紙を通じて、小嵐さんのことが顔写真付きで大きく取り上げられ、明るく前向きだったとばかりは言えない時代の、物騒な雰囲気を紙面に残しています。
○
ということで、小嵐さんはまぎれもなく犯罪者ではあったわけですが、犯罪が悪で、従順にルールを守ることが善、ときっちり二つに分けることのできないこの現実社会に、われわれも小嵐さんもともに生きています。仮に革命が成功してしまえば、社会を変えた英雄と見なされる例も、わずかな可能性としては残っている話です。ここで、あまり犯罪者呼ばわりすることに、ほとんど意味はありません。
しかし小嵐さんは、やがて職業革命家の道を離れ、小説家になりました。そのあたりの経緯は、いつか以前にもうちのブログで触れたような記憶もありますが、思い出せないので、あらためて小嵐さんの語るところをなぞってみると、それまで家計を一手に担って稼いできた糟糠の妻が、突然うつに罹り、家に閉じこもってしまいます。それが小嵐さん39歳のとき、といいますから、昭和58年/1983年ごろのこと。代わって自分がカネを稼がなければいけない、とあせった小嵐さんは、でまかせのつくり話を書く売文業ならできるかもしれないと思い立ち、試みに『小説宝石』が募集していた「読者告白手記」に〈高原浩子〉というウソッぱちの変名で、結婚した夫を若くして亡くしひとり身になったところ、学校の教師で厳格そうだった義父と肉体関係をもった、というウソッぱちの実体験を投稿、これが見事入選して賞金10万円を手に入れます。『小説宝石』昭和58年/1983年3月号の企画「読者告白手記 年齢差を忘れて溺れた愛と性」に「義父に教えられた女の性」という題名で掲載され、とりあえずいまでも読むことができます。
そこからポルノ小説を書いて、各社売り込みに歩くこと数年あまり。そのうちに昭和61年/1986年の小説CLUB新人賞に応募した「嗚呼、虎が吼えずば」が佳作に入ってからは〈小嵐九八郎〉の名前で、エンタメ作家、娯楽作家に徹することになった……ということなんだそうです。
妻の鬱病との関連で、小嵐さんはこう振り返っています。
「妻が鬱病になった時、私は三十九歳、働き盛り、ある党派への忠誠で頑張り切っていた。
(引用者中略)
(引用者注:妻の鬱病によって)やっと、私は自分の為している行為を客観的に見つめられ、やがて糧のために濃密ラブ・ストーリーを書いて売りこみに行き、党派活動から離れはじめていく。」(平成16年/2004年3月・筑摩書房/ちくま新書『妻をみなおす』「第四章 “いい女”とは?」より)
何とか200ページ以上ある新書のなかの一節を切り取ってみましたが、正直なところ、小嵐さんが革労協をやめて作家業に移った理由は、よくわからないことが多いです。おそらく小嵐さんがその経緯について口を濁すことに徹しているからなんですが、もうひとつは、小嵐さん独特の晦渋じみた、もしくは凝りに凝った文章が、何が正で何が否なのか、読み手がすっきりと腑に落ちるような状況を阻んでいるからです。
おれは娯楽作家だ、と自称しながら、あえてこういう文体で押し通すところに、小嵐さんの心意気というか精神性を感じないわけにはいきません。スパッ、スパッと割り切れない、いや割り切ったりしない小説は、どうしても全体として中途半端に見えてしまうところですが、それがまた小嵐さんの書くものの魅力にもなっています。
| 固定リンク
« 昭和61年/1986年・結婚を断られた女性に嫌がらせの電話をかけつづけて有罪になった川本旗子=一條諦輔。 | トップページ | 昭和8年/1933年・税金を滞納していると税務署に暴露された直木三十五。 »
「犯罪でたどる直木賞史」カテゴリの記事
- 平成27年/2015年・妻に対する傷害容疑で逮捕、不起訴となった冲方丁。(2019.06.02)
- 昭和58年/1983年・自分の小説の映画化をめぐって裁判所に訴えられた村松友視。(2019.05.26)
- 昭和33年/1958年・小説の内容が名誉棄損だと告訴されて笑い飛ばした邱永漢。(2019.05.19)
- 昭和43年/1968年・掏摸というのは芸術家だ、と言い張る犯罪者のことを小説にした藤本義一。(2019.05.12)
- 昭和46年/1971年・建物の所有権をめぐる契約書偽造が疑われて逮捕された加賀淳子。(2019.05.05)
コメント