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2019年1月の5件の記事

2019年1月27日 (日)

昭和48年/1973年・盗用したと断定する記事を書いた朝日新聞に対し、訴えを起こした山崎豊子。

作家の山崎豊子さんは一日午後、朝日新聞社(広岡知男代表取締役)を相手どり「朝日新聞が十月二十一日付朝刊で、サンデー毎日連載“不毛地帯”中に無名作家の作品から盗用と報ぜられたのは事実ではない」と民放(引用者の誤記につき訂正)民法七二三条に基づき謝罪広告掲載を求める名誉回復請求訴訟を大阪地裁に起こした。創作における資料引用をめぐって争われる珍しい裁判となりそう。

(引用者中略)

また、山崎さんは同日大阪法務局人権擁護課に朝日新聞の行為は人権侵害だとして文書で訴えた。

――『毎日新聞』昭和48年/1973年11月2日「山崎さん、朝日新聞を訴え 「不毛地帯」問題」より

 小説は作品だけで判断せよ。という一見まともで正しそうな考え方があります。

 一見ではなく、ほんとうに正しいのかもしれませんが、残念ながら現実の人間たちにとっては、まず実現するのが不可能な、ファンタジックな理想論です。小説を作品単体で読むことに、なにがしかの価値がある、と信じる人は、この夢を追いかけるのも無駄ではないと思います。とくに止めません。ただ、作品の書かれるにいたった事情とか、作者の立場とか、歴史的経緯における作品の位置づけとか、もっと話を広げてその作品が関係者、第三者、読者、読んでもいない野次馬たちにどのような影響を与えたのか、そういう背景というか枝葉というか、こぼれた話題まで含めて小説に接するほうが、明らかに面白いです。

 さて、ここに山崎豊子さんという有名な直木賞受賞者がいます。デビュー作の『暖簾』(昭和32年/1957年)以来、山ほどたくさんの作品が残されていて、作品にまつわる何の知識もなく読んでも十分に楽しめるものばかりだとは思いますが、これもまた残念なことに、山崎豊子という人間のもつ面白さが尋常ではなかったために、作品の内容とは直接的な関係のない数多くのトラブルやいざこざがジャーナリズムを賑わせました。

 その最も代表的なひとつが、他人の著作物の一部を、自分なりの表現に書き換えて使用する、という執筆作法です。作品全体をパクったりしているわけではないので「盗作」とは呼びづらいですが、作品の部分的な「盗用」とは言えると思います。

 盗用するのは悪いやつだ。とくに作家を名乗って、その原稿でお金を稼いでいる立場の人間が盗用するのは言語道断、無条件で悪い。という倫理観が、現代の日本にはあるようです。その盗用行為に犯罪を構成する要素が認められ、最終的に法の下で処罰されるに至るまでには高い壁があり、ほとんど犯罪事件になった例はありませんが、倫理的に許せないと思っている人が一定数いるために、盗用というのはしばしばニュース性を帯びることになります。

 山崎さんが最初に問題視された昭和43年/1968年『花紋』における盗用行為の展開などは、まさしくそのひとつでした。『婦人公論』に連載中だった「花紋」のなかで、主人公がパリで外国の記者に出会う場面に、レマルク作・山西英一訳『凱旋門』のなかの一部と似すぎている箇所がある、と読者からの投稿別名チクリがあり、他に芹沢光治良『巴里夫人』や中河与一『天の夕顔』などからも、まるでそのままと言っていいほど酷似した引き写しがある、と指摘されます。違法性があるとかないとか、それとは関わりなく、山崎さん本人もこれは作家としてやってはいけないことをしてしまった、と自らの非を認め、日本文芸家協会から退会。「山崎氏が今後筆を断つことが望ましい」「文壇的生命は一応終ったと考えられる」という協会側からのコメントまでもが新聞にも掲載され、作家的な、あるいは一般的な通念に照らして悪いことをしたので大きく取り上げられ、社会集団のなかで裁かれた、というところで終わりました。

 退会から1年半ほどで復帰を認められ、ふたたび山崎さんは表舞台で活躍しはじめますが、それからわずか3年ほど、今度は『サンデー毎日』で連載中の「不毛地帯」で発生した盗用の話が、またまた全国紙で取り上げられることになったとき、いよいよ告訴、裁判へと発展することになります。

 ここで注目しなければいけないのは、告訴したのが、盗用された『シベリヤの歌 一兵士の捕虜記』の著者、今井源治(いまい・げんじ)さんの側ではなかった点です。昭和48年/1973年11月1日、大阪地裁に訴えを起こした原告は山崎豊子さんのほうでした。訴えられた被告は、朝日新聞社です。

 たしかに山崎さんが今井さんの著作を参照にしたことは間違いなく、取材と称するかたちで面会もしていたのですが、どうやら山崎さん側の不手際で、今井さんの著作からどのように「不毛地帯」のなかに表現を使用するか了解をとりつけないまま、雑誌に載ってしまい、そのことで両者、お詫びの文章を出すことで事を収められないかと協議していたところ、『朝日新聞』が昭和48年/1978年10月21日に「山崎豊子さん、また盗用」の大きな見出しでスッパ抜いてしまいました。これに対して山崎さんが、名誉回復を請求し、謝罪広告を載せることを求めて訴えたのが、「不毛地帯」裁判です。

 はっきり言って、ねじれています。盗用したことが罪だ、いやそうじゃない、ということを争う裁判ではなかったからです。

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2019年1月20日 (日)

昭和46年/1971年・沖縄ゼネストの警備警官殺害事件で逮捕された佐木隆三。

【那覇支局十八日発】昨年十一月の「11・10沖縄ゼネスト」の際、警備中の山川松三警部(四八)が過激派集団に火炎ビンで襲われ死亡した事件で、琉球警察本部は十八日、作家の佐木隆三こと小先良三(三四)(引用者中略)、沖縄反戦委事務局長佐久本清こと租慶政一(三一)ら六人を凶器準備集合罪、公務執行妨害などの容疑で逮捕した。これで、同事件の逮捕者は計二十人となった。

――『読売新聞』昭和47年/1972年1月18日夕刊「沖縄の作家逮捕 11・10警官殺しに関連?」より

 先日決まった第160回(平成30年/2018年・下半期)の直木賞。今回もまた、いわゆるいくつかの「犯罪事件」を描いた小説が受賞しました。

 とくにここでは、その受賞作に触れるつもりはありませんけど、沖縄と直木賞、そして犯罪事件。……この3つの要素を組み合わせたとき、どうしても真っ先に取り上げたくなる人物がいます。佐木隆三さんです。

 佐木さんの場合、何という肩書きが適切なんでしょうか。昭和39年/1964年、27歳のときに八幡製鉄所を辞めて以来、昭和51年/1976年に直木賞を受賞するまでのあいだにも、生み出す対象は小説に限らず、ノンフィクション、ルポ、評論、その他雑文も含めてさまざまなものを書いては原稿収入を得る、フリーライター、もしくは売文業だった、と言われています。

 そのなかでも佐木さんの関心テーマのひとつに、政治状況と人びと、というものがありました。60年代後半、数々の政治的テーマのなかで佐木さんが興味をもったのが、日本に返還されるかされないか、という間際にあった琉球・沖縄のことです。主席公選の様子をルポするという仕事で、昭和43年/1968年秋にはじめて沖縄を訪れますが、政治に関する話題、反戦運動はもちろんのこと、娼婦たちの生態や生活にひときわ好奇心をかき立てられ、琉球の現状を伝える態の原稿をたくさん書くようになります。そのうち、生活の拠点を現地に移して、本腰を入れて仕事をしたいと考えるようになって、コザ市仲宗根に転居したのが、昭和46年/1971年5月のことです。

 沖縄で知り合った石垣島出身の女性と、いい仲になり、再婚したのが昭和46年/1971年10月。長女のふき子さんが生まれたのが昭和47年/1972年9月で、いずれも佐木さんが沖縄で生活を送っていたころのことです。仕事だけじゃなく人生の重大な局面に、沖縄の土地とその風土、出来事が大きくからんでくることになります。

 とくに、のちの直木賞受賞にも関わることになるのが、昭和46年/1971年11月10日、沖縄各地で展開された沖縄完全復帰要求ゼネストおよびこれに関する集会でした。

 この日、那覇市の与儀公園で開催された「沖縄返還協定の批准に反対し完全復帰を要求する県民総決起大会」では、数万人と言われる参加者が、浦添市のアメリカ国民政府庁舎までデモ行進を実施。そこで警備に当たっていた琉球警察警備部隊の山川松三さんが、数名の人間から狙われて、角材などを使って殴りつけられ、足蹴にされ、火炎びんを投げつけられ、はっきり「暴行」と呼ぶほかない攻撃を食らった末に、殺されてしまいます。殺人事件です。

 沖縄返還をこのまま進めたい政府権力にとって、協定の批准に反対する勢力は邪魔ものです。しかも警官がひとり殺されているのですから黙って見過ごせるはずもなく、11月16日、実行に加担した過激派幹部のひとり、と目されて松永優さんが逮捕されます。しかしこれが調べてみると、染色工芸の「紅型」を研究するために沖縄を訪れていた松永さんが、たまたま現場に居合わせた、というぐらいの事実しかないのに、殺人犯にでっち上げた、という杜撰な捜査だったらしく、那覇地裁での第一審(昭和49年/1974年10月7日)では傷害致死罪で懲役1年執行猶予2年の判決がくだされたものの、福岡高裁那覇支部の第二審(昭和51年/1976年4月5日)はこれを完全に覆して無罪判決。その後、松永さんは国を相手どり、そもそも検察官による公訴の提起・追行が違法なものだったと主張して、損害賠償の支払いと謝罪広告を求める民事裁判を起こします。

 松永さんが疑われた要因のひとつに挙げられているのが、平野富久さんが撮影したという現場の写真です。昭和46年/1971年11月11日『読売新聞』一面に載っています。被害者が暴行されている状況の一瞬を切り取ったもので、そこに実行犯たちが写っている!……ということなんですが、静止画一葉だけでは、当然だれが何をしているのかはわからず、解釈次第でどうとでも言えてしまいます。最終的に、こんなものに証拠能力はないと判断されて松永さんの嫌疑も晴れるのですが、ゼネストに伴うデモ隊決起の様子は、他にいくつも写真が撮られていて、そのなかに写っていた佐木さんのもとにもまた、警察が乗り込んできます。

 昭和47年/1972年1月18日朝7時すぎ、突然、佐木さんの家に琉球警察の刑事たちがやってきて、有無を言わせず逮捕されてしまったのです。

 そのときの状況から留置所暮らし、釈放されるまでの体験は、佐木さん自身が『新日本文学』昭和47年/1972年6月号、7月号、9月号にわたって「あなたにも迎えがくる」(6月号のみ「あなたにも迎えが来る」)で克明に記録しています。取材活動をおこなっていただけの佐木さんを、交番を襲撃し、警備隊と衝突し、自動車整備工場に対して火炎びんを投擲したグループの、実行犯のひとりだと言って逮捕した。普天間署の留置場に12日にわたって拘留した。……ということだそうです。自分がやってもいないことを、やっていると間違えられ、行動の自由を奪われ、それが新聞に報じられたことで、知り合いや親類縁者によけいな心配をかけ、40年以上もたってこんなブログであれこれホジくられるわけですから、佐木さんとしては怒りに怒り尽くせない激情もわいてきたと思いますし、「あなたにも迎えがくる」でも、私ははらわたが煮えくり返っていると書いています。

 しかしこの経験を、個人的な怒りや無駄な時間で終わらせなかったのは、おそらく物書きとしての佐木さんに柔軟性があったゆえでしょう。

 それまで芥川賞候補に1回(昭和42年/1967年・下半期)、直木賞候補にも1回(昭和43年/1968年・上半期)挙げられながら、小説家としては飯を食うことができず、琉球の地で逮捕されたときにも、過激派に属するイロ付きライターと見られ、ほとんど現実の事象を筆に起こしてお金を稼ぐような仕事に従事するようになった佐木さんが、この経験を経たことで次に関心の目を向けたのが、「犯罪事件」でした。

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2019年1月17日 (木)

第160回直木賞(平成30年/2018年下半期)決定の夜に

 平成31年/2019年1月16日、横綱・稀勢の里が引退会見を行いました。ひとつの時代が終わったと見るか。引退する力士という存在はそれほど珍しくないのだから、恒例の日常風景と見るか。どう感じるかは人それぞれで、べつに他人の感覚に合わせる必要などありません。

 平成31年/2019年1月16日、第160回直木賞(平成30年/2018年下半期)も決まりました。これなど、まさしく恒例の日常風景、6か月に1回、定期的に開催されています。話題になっているのかいないのか。これもまたもちろん、どう感じるかは人それぞれで、べつに他人の感覚に合わせる必要などありません。

 個人的な感覚で、今回の直木賞を思い返すと、とにかく熱い。重い。長い。という印象ばかりがひしひしと身体にのしかかってきます。どの候補作が受賞しても、そんな直木賞を象徴しているかのようで、直木賞ファンとしては何一つ問題なく楽しみましたが、せっかくだったら平成最後のサプライズ、候補5つ全部受賞! とかやってくれたら最高だったのに、と思います。受賞作ばかりがこの賞を形成しているわけじゃないんだな。そんな事実を再確認させてくれた回だったとも思います。

 何をさておいても、真っ先に取り上げたいのは、そりゃあ、あなたですよ深緑野分さん。『ベルリンは晴れているか』に、このままどの文学賞も賞を贈らない、ということにでもなったら、何だかこれからワタクシ自身、心に傷が残ってしまいそうで、何ちゅう判断をしてくれたんだ直木賞、と悲しくなりますが、終わった賞は終わったことです。直木賞の候補がきっかけで、こういう小説と出会うことができたのは、掛け値なし、大げさでなく幸せでした。きっと直木賞に悪気はありません。どうか深緑さんも直木賞のことを嫌いにならずにいてくださると、うれしいです。

 『熱帯』を読み終わって、不思議な感覚になりました。そして思いました。どうやらこの世には森見登美彦という人がいるそうで、サイン会もやっているし、インタビューも受けている。だけど、あれは誰かが、森見登美彦が実在しているという状況を創造したフィクションで、直木賞の受賞会見のときに、誰かからその仕組みが明かされるのではないか、と。けっきょく今回も明かされはしませんでしたが、読者の心のなかに森見登美彦はいます。謎は、いつまでも謎のままです。

 ところで、やっぱり直木賞選考会での、歴史小説に対するハードルの高さは尋常じゃないな、と思わされたのが、垣根涼介さんの『信長の原理』が受賞できなかったことです。これでも受賞圏じゃないのか。どんだけ歴史モノに厳しいんだ、と叫びたくなります。たぶん選考委員の方たちのなかには、一生解けそうもない「直木賞にふさわしい歴史小説」像があるのでしょう。そういう他人の感覚など気にせず、これからも垣根さんの歴史モノ、読みつづけていきたいと思います。

 『童の神』、正直なところ面白かったです。現代的なテーマを下敷きに、説話の世界からここまで肉付けして、突き抜けた物語をつくるという今村翔吾さんのタダ者じゃなさが、痛いほど伝わってきました。デビューまもない勢いのある新人作家を、なぜか取りこぼしてしまう直木賞。ああ、またか。とガッカリしましたが、とりあえず文学賞の当落はさておいて、今村さんの前途には明るさしか見えません。時代小説の新時代への扉、開けちゃってください。

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2019年1月13日 (日)

0と出るか2と出るか、いわゆるひとつの直木賞キリ番回。

 もうじき決まる第160回(平成30年/2018年・下半期)の直木賞は、平成最後なんだそうです。

 だから何なんでしょうか。

 ……という感想しか沸いてこないのが、直木賞にしか興味のない人間の哀しいところですが、平成の直木賞というと、いきなり星川清司さんに嘘をつかれ、横山秀夫さんに嫌われ、伊坂幸太郎さんに見放され、本屋大賞にオイシイところを持っていかれ、受賞作ベストセラートップ1の座を芥川賞から奪うこともできなかった、さんざんな時代でした。新しい時代には、多くの読者から愛され、慕われ、感心されるような文学賞に生まれ変われるよう、心から期待しています。

           ○

 と、ふざけたことを言っていても始まりません。だいたい選考会直前の、うちのブログのエントリーは、ふざけたことしか書かないんですが、今回は久しぶりに、まじめに振り返ってみます。たまたま「直木賞のすべて」のイベントが今日1月13日に実施されるために、そんなに長く書いているひまがない、という事情もあります。

 それはともかく、平成のはじめ頃の直木賞は、快調に推移していました。よく売れる人から、売れゆきはいまいちな地道な実力者まで、次々とバランスよく選び、昭和の終盤の第93回から第111回(平成6年/1994年・上半期)、連続9年半にわたって賞を贈ります。生まれた受賞者は、しめて31名。

 半年に一度も、そんな大傑作が生まれるわけがないことくらい、誰だって知っています。それなのに、何でこのペースで日本文学振興会=文藝春秋がやり続けているかというと、少しでも多くの作家に光を当てて、もっともっとあふれるぐらいに人材を増やしたいからで、しかも一度に二つもの賞を継続してきました。もくろみは十分に達成されてきた、と認めないわけにはいきません。

 ところが、平成後半の直木賞は、そのペースが確実に鈍ります。

 第137回(平成19年/2007年・上半期)に松井今朝子さんの受賞から始まった「連続授賞記録」というものがあり、半年前の第159回(平成30年/2018年・上半期)まで23回、11年半ものあいだ、一回も途切れずに授賞をつづけてきました。もちろん直木賞はじまって以来、いちばんの長さです。

 しかし、その間、誕生した受賞者は28名。さきに紹介した「9年半で31名」のころに比べると明らかに減っています。少数精鋭、といえば聞こえがいいですが、別に意識しないでそうなってしまったんでしょう。「受賞させたい人や作品が2つもなくなった」傾向が顕著になったのが、平成後半の直木賞の特徴です。

 どうして第160回をまえに、こんなハナシをダラダラしてきたかと言いますと、10で割り切れるいわゆる「キリ番の回」というのは、2作授賞が起こやすい巡り合わせをはらんでいるからです。とくにこの賞が、宣伝・PRの性格を担わされた昭和20年代以後は、いっそう歴然としています。

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2019年1月 6日 (日)

平成5年/1993年・角川書店の社長だったときに麻薬取締法違反で逮捕された角川春樹。

米国からのコカイン密輸入事件で麻薬取締法違反などの罪に問われた元角川書店社長角川春樹被告(58)について、最高裁第2小法廷は1日までに被告側の上告を棄却する決定をした。懲役4年の実刑が確定する。近く収監される見通し。

(引用者中略)

1審では、密輸入を実行したとされるカメラマンの「角川被告から指示された」との証言が有罪認定の決め手となり、千葉地裁は96年6月、懲役4年を言い渡した。2審でカメラマンは「密輸は自分の生活費を稼ぐためだった」と1審の証言を撤回したが、昨年3月の東京高裁判決は「信用できない」と新証言を退け、角川被告の控訴を棄却した。

――『日刊スポーツ』平成12年/2000年11月2日「角川春樹被告 コカイン密輸入事件 最高裁 被告側上告を棄却、実刑4年確定」より

 まもなく決定する第160回(平成30年/2018年・下半期)直木賞。史上はじめて、個人のフルネームの付いた出版社から候補作が選ばれた、ということで話題沸騰……しているのかどうなのか、そういう熱気はあまり伝わってきませんが、「犯罪でたどる直木賞史」にこれほど適した出版人が他にいるでしょうか。いや、いないに違いない。と、ひとりで勝手に納得したところで、今日はこの人。角川春樹さんのお話です。

 1970年代、角川書店の社長になったころの角川さんが、出版業界にもたらしたインパクトおよび混乱は、およそいろんなところで語られているので端折りますが、直木賞に与えた影響もまた甚大なものがありました。昭和49年/1974年に創刊した大型文芸誌『野性時代』から、創刊わずか2年目の昭和50年/1975年に早くも初の候補作(赤江瀑「金環食の影飾り」)が選ばれると、一気に直木賞の候補ラインナップに欠かせない出版社の地位を占めることになります。

 派手な宣伝を仕掛けての売上は文庫のほうで稼ぐいっぽう、活きのいい新人・中堅作家に積極的に発表の場を与え、付き合いを深めていく。次世代の出版への布石を怠らなかったこの姿勢が、直木賞(の予選)と相性がよかったのもうなずけます。角川書店の作品が直木賞を受賞して、いわゆる目立ったベストセラーとなるのは、第86回(昭和57年/1982年・下半期)のつかこうへい『蒲田行進曲』が最初と言っていいでしょうけど、売れる影にはオモテに現われない地道な努力があることは、もちろん角川書店も例外ではありません。

 しかし、あまりに度の外れた奇矯な出版戦略が、いろいろメディアで持て囃される状況を、苦々しく思う人が出てきたのもたしかです。

 とくにその急先鋒を自認していたのが、文春砲、つまりは『週刊文春』編集部で、「小誌はこれまで一貫して、角川春樹社長のいかがわしさ、経営手腕への疑問を取り上げてきた」(『週刊文春』平成5年/1993年9月9日号)などと見栄を切っています。平成5年/1993年7月9日、角川書店写真室の池田岳史さんがコカイン密輸入の現行犯で逮捕、8月には池田さんの供述をもとに、芸能プロ「北斗塾」役員の坂元恭子さんも自宅に大麻を所持していたところを警察に取り押さえられますが、その池田さんをとくに可愛がり、また坂元さんと10年近く同棲生活を送っていたという、当時角川書店社長だった春樹さんも、じつは麻薬とズブズブの生活を送っているらしいぞ! と大きく報じたのが、『週刊文春』9月2日号「独走スクープ 角川春樹社長コカイン常用の重大疑惑」です。

 じっさい、8月26日には角川本社が家宅捜索を受け、28日深夜、ついに角川さんが麻薬取締法違反で逮捕。そらみろ一時代を築いたヒーローが憐れな犯罪者に堕ちた、となればマスメディアが一斉に叩く側にまわる、というのはあまりに見慣れた光景ですが、根を掘り葉を掘り角川さんの私生活、女性遍歴、兄弟ゲンカなどなど、犬も食わない話題まで含めて徹底的に批判の対象となりました。

 そんなことは直木賞とは何の関係もないじゃないか。たしかにそう思わないでもありません。ただ、1970年代から80年代、あれだけ断続的にしばしば直木賞の候補になっていた角川の作品が、ぱたりと選ばれなくなるのが、第100回(昭和63年/1988年・下半期)から。以降、第114回(平成7年/1995年・下半期)まで7年に及ぶ「角川外し」の時代が到来します。偶然かもしれませんけど、直木賞=文春が、麻薬問題を抱えた角川から一歩距離をおいた、と見えるのは否めません。

 平成5年/1993年、逮捕の前日に取締役会が緊急の「社長辞任要求記者会見」を開き、9月2日に新社長が決まったことで、社長の座から追われることになった(公式には「辞任した」)角川さんは、平成6年/1994年12月に1億円の保証金を支払って保釈されるまで獄中生活を送ります。翌平成7年/1995年3月に、保有していた角川書店の株をすべて売却して、新たな出版社「角川春樹事務所」を設立。その間、麻薬取締法違反・業務上横領などの罪に問われた裁判はつづき、平成8年/1996年6月12日に、千葉地裁で懲役4年の実刑判決がくだりますが、無実を主張していた角川さんはすぐさま控訴します。

 平成11年/1999年3月1日、東京高裁の控訴審も一審を支持し、平成12年/2000年秋、最高裁が上告を棄却する決定したことで実刑が確定。平成13年/2001年11月15日から収監されて、平成16年/2004年4月8日に仮釈放されるまでの2年5か月、刑務所で服役しました。平成12年/2000年11月、上告棄却の段階で、角川さんは春樹事務所社長を辞任。お務めを終えて社会に復帰してしばらくは、同社の特別顧問として「映画プロデューサー」の肩書きで活動していましたが、平成21年/2009年11月ごろには、代表取締役会長兼社長として実務のトップに返り咲き、いまも同社の経営の舵をとっています。

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