平成5年/1993年・角川書店の社長だったときに麻薬取締法違反で逮捕された角川春樹。
米国からのコカイン密輸入事件で麻薬取締法違反などの罪に問われた元角川書店社長角川春樹被告(58)について、最高裁第2小法廷は1日までに被告側の上告を棄却する決定をした。懲役4年の実刑が確定する。近く収監される見通し。
(引用者中略)
1審では、密輸入を実行したとされるカメラマンの「角川被告から指示された」との証言が有罪認定の決め手となり、千葉地裁は96年6月、懲役4年を言い渡した。2審でカメラマンは「密輸は自分の生活費を稼ぐためだった」と1審の証言を撤回したが、昨年3月の東京高裁判決は「信用できない」と新証言を退け、角川被告の控訴を棄却した。
――『日刊スポーツ』平成12年/2000年11月2日「角川春樹被告 コカイン密輸入事件 最高裁 被告側上告を棄却、実刑4年確定」より
まもなく決定する第160回(平成30年/2018年・下半期)直木賞。史上はじめて、個人のフルネームの付いた出版社から候補作が選ばれた、ということで話題沸騰……しているのかどうなのか、そういう熱気はあまり伝わってきませんが、「犯罪でたどる直木賞史」にこれほど適した出版人が他にいるでしょうか。いや、いないに違いない。と、ひとりで勝手に納得したところで、今日はこの人。角川春樹さんのお話です。
1970年代、角川書店の社長になったころの角川さんが、出版業界にもたらしたインパクトおよび混乱は、およそいろんなところで語られているので端折りますが、直木賞に与えた影響もまた甚大なものがありました。昭和49年/1974年に創刊した大型文芸誌『野性時代』から、創刊わずか2年目の昭和50年/1975年に早くも初の候補作(赤江瀑「金環食の影飾り」)が選ばれると、一気に直木賞の候補ラインナップに欠かせない出版社の地位を占めることになります。
派手な宣伝を仕掛けての売上は文庫のほうで稼ぐいっぽう、活きのいい新人・中堅作家に積極的に発表の場を与え、付き合いを深めていく。次世代の出版への布石を怠らなかったこの姿勢が、直木賞(の予選)と相性がよかったのもうなずけます。角川書店の作品が直木賞を受賞して、いわゆる目立ったベストセラーとなるのは、第86回(昭和57年/1982年・下半期)のつかこうへい『蒲田行進曲』が最初と言っていいでしょうけど、売れる影にはオモテに現われない地道な努力があることは、もちろん角川書店も例外ではありません。
しかし、あまりに度の外れた奇矯な出版戦略が、いろいろメディアで持て囃される状況を、苦々しく思う人が出てきたのもたしかです。
とくにその急先鋒を自認していたのが、文春砲、つまりは『週刊文春』編集部で、「小誌はこれまで一貫して、角川春樹社長のいかがわしさ、経営手腕への疑問を取り上げてきた」(『週刊文春』平成5年/1993年9月9日号)などと見栄を切っています。平成5年/1993年7月9日、角川書店写真室の池田岳史さんがコカイン密輸入の現行犯で逮捕、8月には池田さんの供述をもとに、芸能プロ「北斗塾」役員の坂元恭子さんも自宅に大麻を所持していたところを警察に取り押さえられますが、その池田さんをとくに可愛がり、また坂元さんと10年近く同棲生活を送っていたという、当時角川書店社長だった春樹さんも、じつは麻薬とズブズブの生活を送っているらしいぞ! と大きく報じたのが、『週刊文春』9月2日号「独走スクープ 角川春樹社長コカイン常用の重大疑惑」です。
じっさい、8月26日には角川本社が家宅捜索を受け、28日深夜、ついに角川さんが麻薬取締法違反で逮捕。そらみろ一時代を築いたヒーローが憐れな犯罪者に堕ちた、となればマスメディアが一斉に叩く側にまわる、というのはあまりに見慣れた光景ですが、根を掘り葉を掘り角川さんの私生活、女性遍歴、兄弟ゲンカなどなど、犬も食わない話題まで含めて徹底的に批判の対象となりました。
そんなことは直木賞とは何の関係もないじゃないか。たしかにそう思わないでもありません。ただ、1970年代から80年代、あれだけ断続的にしばしば直木賞の候補になっていた角川の作品が、ぱたりと選ばれなくなるのが、第100回(昭和63年/1988年・下半期)から。以降、第114回(平成7年/1995年・下半期)まで7年に及ぶ「角川外し」の時代が到来します。偶然かもしれませんけど、直木賞=文春が、麻薬問題を抱えた角川から一歩距離をおいた、と見えるのは否めません。
平成5年/1993年、逮捕の前日に取締役会が緊急の「社長辞任要求記者会見」を開き、9月2日に新社長が決まったことで、社長の座から追われることになった(公式には「辞任した」)角川さんは、平成6年/1994年12月に1億円の保証金を支払って保釈されるまで獄中生活を送ります。翌平成7年/1995年3月に、保有していた角川書店の株をすべて売却して、新たな出版社「角川春樹事務所」を設立。その間、麻薬取締法違反・業務上横領などの罪に問われた裁判はつづき、平成8年/1996年6月12日に、千葉地裁で懲役4年の実刑判決がくだりますが、無実を主張していた角川さんはすぐさま控訴します。
平成11年/1999年3月1日、東京高裁の控訴審も一審を支持し、平成12年/2000年秋、最高裁が上告を棄却する決定したことで実刑が確定。平成13年/2001年11月15日から収監されて、平成16年/2004年4月8日に仮釈放されるまでの2年5か月、刑務所で服役しました。平成12年/2000年11月、上告棄却の段階で、角川さんは春樹事務所社長を辞任。お務めを終えて社会に復帰してしばらくは、同社の特別顧問として「映画プロデューサー」の肩書きで活動していましたが、平成21年/2009年11月ごろには、代表取締役会長兼社長として実務のトップに返り咲き、いまも同社の経営の舵をとっています。
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ところで、角川さんの逮捕から始まった一連の騒動のなかで、直木賞に関連することといえば、7年間ひとつも角川書店から候補が選ばれなくなった、という一件は先ほど触れましたが、もう一つ忘れられないことがあります。お騒がせ直木賞受賞者こと、胡桃沢耕史さんの振る舞いです。
春樹さんが経営から下りることになったあと、実弟の歴彦さんが社長に就任するらしい、という話が伝わったところで胡桃沢さん、またぞろ「お騒がせ人間」ぶりを発揮します。歴彦氏には不愉快な思いをさせられたことがあり、個人的な恨みがある、もし社長に就くというのなら角川から版権を引き上げる、と公然と言い放ったのです。
「胡桃沢氏は「角川は個人商店だから歴彦氏が社長になるのは分かっていた」という。「あの人が社長になると春樹さん以上の独裁政治になる。(昨年、歴彦氏が現在の役員会によって副社長辞任に追い込まれたことに対して)ものすごい報復人事も行われるはず。私は巻き込まれたくないから、縁を切ろうと思った」とも。」(『日刊スポーツ』平成5年/1993年9月15日「角川書店 角川歴彦氏が社長に就任 胡桃沢耕史氏、怒りの版権引き揚げ」より)
こういう騒動に敏感に反応する胡桃沢さんの、嗅覚の鋭さが際立つ行動だった、と言っておきましょう。いまとなっては(いや、当時だって)胡桃沢さんみたいな作家が版権を引き上げたところで、角川書店に大した痛手はなかったと思います。むしろ歴彦社長体制となってエンタメ小説方面での冴えを取り戻した、といえるのかどうなのか、それはよくわかりませんけど、少なくとも直木賞との関係性でいえば、平成8年/1996年ごろから再び候補ラインナップに外せない出版社の一角に舞い戻り、確実に平成の直木賞を盛り上げてくれる一社となりました。
さて、話を戻して春樹さんです。
平成21年/2009年に角川春樹事務所の社長に復帰し、小さくたっていい、強い集団になるんだ、と宣言。文学賞で取り沙汰される小説ばかりが日本の小説ではないので、いちいち賞と関連づけて語る必要はありませんけど、しかし角川社長の動向は明らかに文学賞の歴史にも大きな痕跡を残すことになります。平成12年/2000年に角川さんの社長辞任によって中止となった公募の新人賞「角川春樹小説賞」が、角川さんの再任によって復活することになったからです。
この新人賞の名称は、社名の一部をとったものではありますが、角川春樹さんがいなければ成立しないことも、暗黙裡に表わしています。出版人、いや文芸編集者の個人名を冠して、その人が選考委員に名を連ねる賞。……相当に変わっている、としか言いようがないチャレンジ精神あふれる賞です。
と、そこまで言うと持ち上げすぎかもしれませんけど、「受賞作」と銘打っても別に売れるわけではない公募の新人賞を、つぶさずにやり続けるのは、ほとんど未来への投資です。小説出版を今後も継続していくための、地道な努力です。そこにようやく直木賞が歩み寄った、というのが第160回の特徴のひとつでしょうし、直木賞もこれからいつまで続けていくつもりなのかわかりませんが、とりあえず「新人発掘の意思」を大事にする心を、いまもまだほんの少しは残している、と考えていいと思います。
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コメント
歴彦氏も逮捕されましたね。どうなることやら。
歴彦氏も辺見じゅん氏も子はいないようだし、春樹氏の一族を呼び戻すとは思えないし、KADOKAWAと角川家とは縁が切れることになるのでしょうか。
投稿: | 2022年9月14日 (水) 15時57分
直木賞には興味ありませんが、KADOKAWAも所沢の下水処理場跡地に移転して、消滅してゆくでしょう。春樹も歴彦も、ろくでもない奴らでした。
投稿: 夏石番矢 | 2022年9月14日 (水) 18時30分
この記事で、胡桃沢さんのことが出ていて、まともな嗅覚の持ち主だったことを知りました。胡桃沢さんとは、NHK衛星放送の番組でご一緒しました。苦労人でいい方でした。
投稿: 夏石番矢 | 2022年9月14日 (水) 18時33分
夏石番矢さん、
こんな直木賞のことしかない物好きなブログに、
コメントいただき、恐縮です。
ありがとうございました。
投稿: P.L.B. | 2022年9月22日 (木) 23時46分