昭和46年/1971年・沖縄ゼネストの警備警官殺害事件で逮捕された佐木隆三。
【那覇支局十八日発】昨年十一月の「11・10沖縄ゼネスト」の際、警備中の山川松三警部(四八)が過激派集団に火炎ビンで襲われ死亡した事件で、琉球警察本部は十八日、作家の佐木隆三こと小先良三(三四)(引用者中略)、沖縄反戦委事務局長佐久本清こと租慶政一(三一)ら六人を凶器準備集合罪、公務執行妨害などの容疑で逮捕した。これで、同事件の逮捕者は計二十人となった。
――『読売新聞』昭和47年/1972年1月18日夕刊「沖縄の作家逮捕 11・10警官殺しに関連?」より
先日決まった第160回(平成30年/2018年・下半期)の直木賞。今回もまた、いわゆるいくつかの「犯罪事件」を描いた小説が受賞しました。
とくにここでは、その受賞作に触れるつもりはありませんけど、沖縄と直木賞、そして犯罪事件。……この3つの要素を組み合わせたとき、どうしても真っ先に取り上げたくなる人物がいます。佐木隆三さんです。
佐木さんの場合、何という肩書きが適切なんでしょうか。昭和39年/1964年、27歳のときに八幡製鉄所を辞めて以来、昭和51年/1976年に直木賞を受賞するまでのあいだにも、生み出す対象は小説に限らず、ノンフィクション、ルポ、評論、その他雑文も含めてさまざまなものを書いては原稿収入を得る、フリーライター、もしくは売文業だった、と言われています。
そのなかでも佐木さんの関心テーマのひとつに、政治状況と人びと、というものがありました。60年代後半、数々の政治的テーマのなかで佐木さんが興味をもったのが、日本に返還されるかされないか、という間際にあった琉球・沖縄のことです。主席公選の様子をルポするという仕事で、昭和43年/1968年秋にはじめて沖縄を訪れますが、政治に関する話題、反戦運動はもちろんのこと、娼婦たちの生態や生活にひときわ好奇心をかき立てられ、琉球の現状を伝える態の原稿をたくさん書くようになります。そのうち、生活の拠点を現地に移して、本腰を入れて仕事をしたいと考えるようになって、コザ市仲宗根に転居したのが、昭和46年/1971年5月のことです。
沖縄で知り合った石垣島出身の女性と、いい仲になり、再婚したのが昭和46年/1971年10月。長女のふき子さんが生まれたのが昭和47年/1972年9月で、いずれも佐木さんが沖縄で生活を送っていたころのことです。仕事だけじゃなく人生の重大な局面に、沖縄の土地とその風土、出来事が大きくからんでくることになります。
とくに、のちの直木賞受賞にも関わることになるのが、昭和46年/1971年11月10日、沖縄各地で展開された沖縄完全復帰要求ゼネストおよびこれに関する集会でした。
この日、那覇市の与儀公園で開催された「沖縄返還協定の批准に反対し完全復帰を要求する県民総決起大会」では、数万人と言われる参加者が、浦添市のアメリカ国民政府庁舎までデモ行進を実施。そこで警備に当たっていた琉球警察警備部隊の山川松三さんが、数名の人間から狙われて、角材などを使って殴りつけられ、足蹴にされ、火炎びんを投げつけられ、はっきり「暴行」と呼ぶほかない攻撃を食らった末に、殺されてしまいます。殺人事件です。
沖縄返還をこのまま進めたい政府権力にとって、協定の批准に反対する勢力は邪魔ものです。しかも警官がひとり殺されているのですから黙って見過ごせるはずもなく、11月16日、実行に加担した過激派幹部のひとり、と目されて松永優さんが逮捕されます。しかしこれが調べてみると、染色工芸の「紅型」を研究するために沖縄を訪れていた松永さんが、たまたま現場に居合わせた、というぐらいの事実しかないのに、殺人犯にでっち上げた、という杜撰な捜査だったらしく、那覇地裁での第一審(昭和49年/1974年10月7日)では傷害致死罪で懲役1年執行猶予2年の判決がくだされたものの、福岡高裁那覇支部の第二審(昭和51年/1976年4月5日)はこれを完全に覆して無罪判決。その後、松永さんは国を相手どり、そもそも検察官による公訴の提起・追行が違法なものだったと主張して、損害賠償の支払いと謝罪広告を求める民事裁判を起こします。
松永さんが疑われた要因のひとつに挙げられているのが、平野富久さんが撮影したという現場の写真です。昭和46年/1971年11月11日『読売新聞』一面に載っています。被害者が暴行されている状況の一瞬を切り取ったもので、そこに実行犯たちが写っている!……ということなんですが、静止画一葉だけでは、当然だれが何をしているのかはわからず、解釈次第でどうとでも言えてしまいます。最終的に、こんなものに証拠能力はないと判断されて松永さんの嫌疑も晴れるのですが、ゼネストに伴うデモ隊決起の様子は、他にいくつも写真が撮られていて、そのなかに写っていた佐木さんのもとにもまた、警察が乗り込んできます。
昭和47年/1972年1月18日朝7時すぎ、突然、佐木さんの家に琉球警察の刑事たちがやってきて、有無を言わせず逮捕されてしまったのです。
そのときの状況から留置所暮らし、釈放されるまでの体験は、佐木さん自身が『新日本文学』昭和47年/1972年6月号、7月号、9月号にわたって「あなたにも迎えがくる」(6月号のみ「あなたにも迎えが来る」)で克明に記録しています。取材活動をおこなっていただけの佐木さんを、交番を襲撃し、警備隊と衝突し、自動車整備工場に対して火炎びんを投擲したグループの、実行犯のひとりだと言って逮捕した。普天間署の留置場に12日にわたって拘留した。……ということだそうです。自分がやってもいないことを、やっていると間違えられ、行動の自由を奪われ、それが新聞に報じられたことで、知り合いや親類縁者によけいな心配をかけ、40年以上もたってこんなブログであれこれホジくられるわけですから、佐木さんとしては怒りに怒り尽くせない激情もわいてきたと思いますし、「あなたにも迎えがくる」でも、私ははらわたが煮えくり返っていると書いています。
しかしこの経験を、個人的な怒りや無駄な時間で終わらせなかったのは、おそらく物書きとしての佐木さんに柔軟性があったゆえでしょう。
それまで芥川賞候補に1回(昭和42年/1967年・下半期)、直木賞候補にも1回(昭和43年/1968年・上半期)挙げられながら、小説家としては飯を食うことができず、琉球の地で逮捕されたときにも、過激派に属するイロ付きライターと見られ、ほとんど現実の事象を筆に起こしてお金を稼ぐような仕事に従事するようになった佐木さんが、この経験を経たことで次に関心の目を向けたのが、「犯罪事件」でした。
○
逮捕されたことによって、佐木さんの物書きとしての立ち位置が、急に転落した、ということはなかったようですが、かといって一気に好転したわけでもありません。
ふらふらと何で稼いでいるかわからないヤマトチュの佐木さんと結婚した妻の、石垣島に住む義父のことが「私的沖縄生活」(初出『早稲田文学』昭和47年/1972年12月号、昭和57年/1982年5月・潮出版社刊『わが沖縄ノート』所収)に出てきます。その義父は言いました。「あいつが、左翼運動から手をひいて、芥川賞か直木賞をもらったら、認めてやってもいい」。……そうやって認めてもいない婿が、警官殺しを疑われて逮捕されたのですから、さぞかしご立腹なことだろうと、佐木さんは淡々と書き残しています。
芥川賞にしろ直木賞にしろ、望んで受賞できるようなものではありません。しかも佐木さんの活動は、もはや文壇から迎え入れられるような純文学とか中間小説とか大衆読み物とか、そういうフィールドが主体ではなくなっていました。佐木さんの生活を激変させることになる、次なるステップは、一般的に「文学的な活動」とは見られないところからやってくるのです。
ライター業で糊口をしのぎながら、佐木さんが多くの時間を費やすことになるのが、ものになるかどうかわからない西口彰連続殺人事件の取材です。なぜなのか。いわく、自分が誤認で逮捕されてから、俄然と「犯罪事件」というものに興味が出たから、だったそうです。
「なぜ犯罪小説を書くのか、きっかけは何だったかのかと、質問されることがある。そういうときは正直に、次のように答えるしかない。
「一九七二年一月、復帰直前の沖縄で、機動隊員殺しの首謀者とみなされて琉球警察に逮捕されました。当時三十四歳でコザ市に住み、沖縄の復帰問題に関心をもち、基地反対闘争のルポルタージュなどを書き送っていたころで、殺人者あつかいされてショックを受け、犯罪に目を向けたのです」」(平成24年/2012年2月・新潮社刊、佐木隆三・著『わたしが出会った殺人者たち』「第一章『復讐するは我にあり』の西口彰」より)
従来の直木賞のイメージから考えても、こういう犯罪事件を、資料や関係者からの取材で構築していく作品は直木賞向きだとは言えません。これが直木賞に選ばれるなんて思ってもいなかった、と佐木さん自身が語る感想は、一般的な感覚と比べても、そう離れてはいません。1970年代の直木賞が、こういう作風の小説を欲していた、もしくは従来の中間・大衆小説の延長にあるような小説は欲していなかった、ということだと思いますが、まず絶対に芥川賞が対象にするような作品でないことを考えたとき、ストライクゾーンをかなりゆるく設定していた直木賞というものの存在意義と、うまく噛み合った例だと見るのが、最も妥当な評価でしょう。
ともかく、直木賞をめぐる犯罪のあれこれを見るとき、佐木隆三という存在が絶対に外せないことは明らかです。沖縄での自身の逮捕から、めぐりめぐって犯罪小説で受賞を果たし、その後に直木賞の看板を背負ったまま犯罪小説作家として一家をなす。というこの展開もそうですが、まだまだ佐木さんには犯罪に関する数多くのエピソードが残っています。ネタが尽きてきたら、改めてそちらにも注目して、犯罪と直木賞がどのように連関・連鎖してきたのか調べてみたいところです。
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