昭和50年/1975年・『落日燃ゆ』が死者の名誉を毀損していると訴えられた城山三郎。
広田弘毅元首相の生涯を描いた作家城山三郎氏(本名・杉浦英一)の小説「落日燃ゆ」の中の元駐支公使佐分利貞男氏(故人)をめぐる記述をめぐり、「死者の名誉棄損」が争われた訴訟について、原告側が十一日、上告を取り下げた。原告で佐分利氏のおいに当たる元三菱商事常務、佐分利健氏がことし五月に死亡し、遺族が承継を拒んだためで、これにより、すでに十年にわたる長期裁判となっていたこの訴訟は、注目の「死者の名誉」に対する最高裁判断が示されないまま、原告側敗訴という形で決着した。
――『朝日新聞』昭和60年/1985年11月12日「「落日燃ゆ」訴訟 原告、上告取り下げ 「死者の名誉」に判断なし」より
「直木賞の黄金期」と呼ばれる昭和30年代、そのバラエティに富んだ受賞者のなかでも、一国一城の主にふさわしい独特な活躍をしたのが城山三郎さんです。いまとなって振り返れば、城山さんの作品を大衆文芸に分類してもあまり違和感はありませんが、選ぶテーマ、素材、仕事の範囲などを見てみると、いかにも枠にハメづらい作家だと見るのが適切だと思います。直木賞という文学賞が、とくに定見や信念をもたない、ゆらぎの多い賞だったことが、のちに功を奏した、という代表的な受賞例かもしれません。
それはともかく、城山さんの書下ろし小説『落日燃ゆ』(昭和49年/1974年1月刊)です。自分の経験と絡ませて戦争小説を書いてみよう、と発想してからいろいろ転じ、文官として唯一A級戦犯で死刑となった広田弘毅さんの存在に行き当たって、構想三年、執筆二年。広田? そんなパッとしない人物を書いた小説なんか売れるわけない、とあきらめ切っていた新潮社内部の声を覆し、発売されるとたちまち大評判をとって、城山さんの代表作のひとつとなりました。実名小説、もしくは実在の人物を主人公にしたフィクションです。
「自らのために計らわず」というのを生涯の信条とした広田さんは、自分のことは絶対にしゃべるなと遺族に言い残していたため、城山さんの取材も難航したそうですが、ゴルフ仲間だった大岡昇平さんが、広田の長男とは小学校以来の友人だからおれが何とかして口説いてやる、と一肌脱いでくれたおかげで、遺族への取材がかない、かつて知られていなかった広田さんやその周辺の動向を描けたのだそうです。もとより、実名小説とは言っても、誰かの醜聞を暴露してやろうとか、読者の刹那的なゴシップ趣味を煽って読ませようとか、そういう類いの小説ではありません。
ところが、この作品を読んで傷ついた人がいます。
『落日燃ゆ』では、広田さんと同じ外交官として活躍していた佐分利貞男さんのことに触れる段で、彼の女性関係について言及し、「相手は花柳界の女だけではない。部下の妻との関係もうんぬんされた。(潔癖な広田は、こうした佐分利の私行に「風上にも置けぬ」と、眉をひそめていた)」と書きました。佐分利さんの甥にあたる健さんは、子供のころからずいぶん可愛がられた記憶があり、そんなオジに対する醜聞を、こんなところで描かれて大ショック。事実無根だ、亡くなった人間の名誉を傷つけた、おれも精神的な苦痛を負った、と主張して、謝罪広告の掲載と慰謝料100万円の支払いを求める訴訟を提起します。昭和50年/1975年のことです。
小説のなかで、過去に実在した人物の、一般的には倫理に悖ると判断されるような言動が書かれることは、よくあります。名誉毀損といえば毀損でしょう。しかしそれを全部受け入れはじめたら、何世代前の先祖のことだったら精神的苦痛が認められるのかとか、小説を構成するうえで重要な設定や醜聞も、名誉毀損で裁かれるのかとか、けっきょくキリがありません。そこに一応のキリを付けるのが法的な判断、というやつです。
昭和52年/1977年7月19日、東京地裁の判決は、今回のケースでいえば訴えた原告側の敗訴。その理由は、死者の名誉を毀損したという場合、虚偽虚妄をもってその名誉毀損がなされた場合にかぎって不法行為となるが、本件では、佐分利貞男さんの女性関係が小説に書かれたどおりのものだったか、もはや50年近く前のことでこれが虚偽虚妄による記述と認められるほどの証明がないから、というものでした。
それでも、いくら死者のことだからって、いい加減なこと書けば名誉毀損で罰せられるぞ、とも言っており、それはそれで妥当だと思います。城山さんもこの判決に対しては、そこまでユニークな判決とは思えない、とコメント。自分の場合は、そこに関しても取材・調査のうえで書いていて、虚偽虚妄じゃないのだから、勝訴は当然だという姿勢を示しました。
当時、死者の名誉毀損が注目された訴訟には、昭和52年/1977年の臼井吉見さん『事故のてんまつ』訴訟があります。しかしこちらは、告訴から3か月で臼井さん側が全面的に謝罪して、原告・被告両者の和解が成立。前にこのブログで取り上げた小堺昭三さんの『密告』裁判では、一審の判決を被告側が受け入れて、謝罪広告の掲載および賠償金支払いに従いました。ところが、『落日燃ゆ』については、原告の佐分利健さんがよほど執念を燃やしたか、判決を不服として控訴したおかげで、裁判がつづき、昭和54年/1979年3月14日東京高裁の第二審では一審同様に、訴えはしりぞけられたあと、昭和60年/1985年5月31日、佐分利さん83歳で亡くなったところ、遺族が訴訟の承継を拒否、同年11月11日に上告が取り下げられるまで約10年にわたって続くことになります。
自分のオジさんの女性関係が乱れ切っていたと書かれたことを、とにかく許すことができず、告訴するだけではなく控訴、上告と何年にもわたって闘いつづける甥御さんの、その燃えたぎる心に何があったのでしょうか。うかがい知れないものがありますが、ともかく城山さんの勝訴のままで幕を閉じたとはいえ、死者の名誉毀損に対する一定の法的解釈が出されたのですから、佐分利さんの(おそらく孤独な)闘いも、意味のあったものと思います。
○
ところで被告となった城山さんは、この訴訟をどう見ていたんでしょうか。当時のマスコミの取り上げ方を振り返って、後年、こんな言い方をしています。
「この本(引用者注:『落日燃ゆ』)を書いた当時、名誉毀損だと訴えた人がいて、裁判になり、朝日新聞にかなり大きく取り上げられたりもしました。裁判はこっちが勝ったのだけれども、そのときに新聞は判決の主文ではなく、見出しでモデルにもプライバシーを守る権利がある、というふうにあおった。プライバシーは守らなければいけないけれども、公的な立場にある人は、その限りでないというのが判決なのに……。」(平成11年/1999年6月・岩波書店刊、城山三郎+佐高信『人間を読む旅』「第5章 男の美学」より)
いや、じっさいの判決は、公人か私人か、プライバシーを侵害しているか、そういう判断を主眼に置いたものではなかったはずです。なのに城山さんは、なぜか「公的な立場の人物」という切り口から見ている。そこが、この回想の面白いところだと思います。
城山さんの関心というか、ものの考え方の一端が見て取れるからです。ひとつの物事には、公と私、二つの側面がある。多くの人の目にさらされる公的な部分は、無用な批判も浴びるし、意図しないところで広く影響を与えたりもする。公的な態度というものには、そのぐらいの覚悟が求められて当然だ……とでも言いましょうか。
『落日燃ゆ』の告訴から約3年後、城山さんは日本文学振興会から直木賞の選考委員をお願いされることになります。「暗黒期」と呼ばれた1970年代の直木賞に新しい風を吹き込む委員として、第79回(昭和53年/1978年・上半期)からその座に就きますが、それから5年半、まだ『落日燃ゆ』裁判の最高裁での判断が出ていない第89回(昭和58年/1983年・上半期)でもって、すっぱりと委員を辞任。裁判の被告であったあいだに、まるまる選考委員の在任期間が収まってしまうのは、直木賞のなかでは城山さんぐらいなものでしょう。
どうして辞任したのか、当時の城山さんのコメントなどは、以前もブログで取り上げたことがあり、いちいち繰り返すのを避けますが、これも後年の文章を引いてみると、「ちゃんとした賞の出し方をしなくてはいかんのだということで辞めた」(平成19年/2007年8月・岩波書店刊、佐高信・編『城山三郎の遺志』所収「一兵士に徹した生涯――大岡昇平論」)ということだそうです。
直木賞は、ちゃんとした賞の出し方をしていない。そうはっきり言っているわけで、30数年たったいま聞いても、かなり芯を食っている指摘です。文学賞は候補作ひとつひとつを評価の対象にすべきで、その作家のこれまでの履歴とか、これがラストチャンスだとか、そういう基準は持ち込むべきではない。それが公的な文学賞としての、あるべき姿勢だと考えた城山さんは、選考会でもずいぶんそう主張したらしいですが、ほとんど状況は変わりませんでした。変わらないのがわかっていて、選考委員という公的な立場を続けるのは、自分の美学に反する。そういう意識が、城山さんの辞任には多分にあったはずです。
『落日燃ゆ』訴訟と直木賞。時期が重なっているだけで、直接の関係は何もありません。しかしどちらも、城山三郎という人の公私に対する感覚がギュッと詰まった事案だった、と言っておきたいと思います。
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